信長の佐和山城包囲網
の一翼を担った。
佐和山城から内湖への逃亡の監視砦か!
彦根市の松原内湖遺跡の発掘では、織田信長が一五七〇年、佐和山城攻めの際、敵の逃走や侵入を防ぐため尾根を削った「堀切」「竪堀(たてぼり)」などの城郭遺構が見つかった。
これは、浅井長政の猛将、磯野員昌(かずまさ)の籠る佐和山城を包囲するため構築したもの。尾根を分断する堀切跡は、佐和山城跡から北北西約一・六キロの尾根に築かれ、東西十三・五メートル、南北の七~九メートル、最深三メートルだった。また、斜面に沿って縦方向に掘削した竪堀は、幅七・五メートル、深さ三メートル、長さ十四メートルを確認した。
発掘に当たった県文化財保護協会は、攻め手の被害が大きいとされる城攻めにおいて、土塁による頑強な包囲網を築造し、味方の消耗を防いだ戦い方をしたとみている。
信長の防御施設 彦根の遺跡で発見
2015年01月25日(日)│カテゴリ :BBC: 文化・芸能
彦根市の松原内湖遺跡から、戦国時代に織田信長が、浅井長政と戦ったときに造ったとみられる防御施設の跡が発見されました。松原内湖遺跡では25日午後、現地説明会が開かれました。今回、見つかったのは、「堀切」と呼ばれる尾根を伝って侵入する敵を足止めする施設や「竪堀」という、斜面を伝って侵入する敵を足止めする堀などです。これらは、16世紀以前に築かれたものと推定され、文献から、1570年に織田信長が、佐和山城に立てこもった浅井長政の家臣を包囲したときに造ったものとみられています。
県文化財保護協会では、信長は、兵力を消耗するよりも包囲線を築く労力を選んで、相手の降伏を待つ戦法を得意としていて、この佐和山城攻めの跡は、信長の包囲戦の先駆的な事例の発見だと話しています。
松原内湖遺跡の発掘調査現地説明会
2015年1月22日
公益財団法人滋賀県文化財保護協会では、国土交通省滋賀国道事務所からの依頼により、滋賀県教育委員会を調査主体とし、国道8号米原バイパス事業に伴う松原内湖遺跡の発掘調査を、平成26年4月から6,900㎡を対象に実施しています。先だっては、鎌倉時代末の年号を持つ巻数板の出土について、発表・公開したところです。
今回、丘陵部において、戦国時代の城郭施設(堀切〔ほりきり〕・竪堀〔たてぼり〕など)を発見しました。これらは、南方に位置する砦を防御するために尾根を分断したものであり、従来存在が知られていなかったものです。付近には佐和山城(さわやまじょう)や物生山城(むしやまじょう)といった戦国時代の山城・砦跡が構築されており、今回発見した城郭施設も、要害の地に築かれたこれらの山城等と関連するものと考えられます。つきましては、下記の日程で現地説明会を開催いたしますので、ご案内申し上げます。
(1) 日 程 平成27年1月25日(日) 13時30分から
(2) 開催場所 松原内湖遺跡(彦根市松原町地先、滋賀県北部浄化センター北側)
(3) 内 容 現地調査担当者の解説のもと、実際に発掘調査現場を見学いただき、出土した遺物も合わせてご覧いただきます。
(4) そ の 他
*1 調査地内は未舗装ですので、一部足下の悪い場所があります。動きやすい服装と運動靴等の着用をおすすめいたします。
*2 駐車場が限られておりますので、徒歩または自転車等でお越しいただきますようお願いします。なお、JR彦根駅西口にレンタサイクルがあります。
(5)問い合わせ先
公益財団法人滋賀県文化財保護協会
〒520-2122 大津市瀬田南大萱町1732-2
(電話)077-548-9780
新聞報道
彦根市松原町の「松原内湖遺跡」で見つかった堀は、織田信長が佐和山城に籠城(ろうじょう)する浅井長政の重臣、磯野員昌(かずまさ)を包囲するために造ったと考えられる。磯野を主人公にした歴史小説「光秀の影武者」(祥伝社)の著者で、作家の矢的(やまと)竜さん(66)=彦根市=と一緒に遺跡を訪ね、印象を聞いた。【西村浩一】
磯野は、信長・徳川家康の連合軍が、浅井・朝倉義景(よしかげ)の連合軍を破った「姉川の戦い」で、浅井の先鋒(せんぽう)を務めた猛将だ。この際、信長軍の十三段の備えを十一段まで破ったとも伝わる。
この戦いの後、磯野は居城の佐和山城に立て籠もった。城を包囲するために信長が築いたのが今回の堀だ。磯野の兵は200~300人とみられるのに、堀は幅7メートル、深さ4メートルと巨大で、信長の磯野に対する警戒心が見てとれる。
堀には、北の小谷城(長浜市湖北町)にいた浅井軍との連携を断つ狙いもあっただろう。実際、磯野は8カ月近く籠城したものの、浅井の支援が得られず、最後は降伏する。
戦国時代といえば、刀や槍(やり)を振り回す合戦を想像するが、土木技術がいかに重要だったかを、堀は示している。同時に、信長の細心と、それが故の周到さ、非情さも生々しく物語っている。
信長の城攻め時の堀切、竪堀など出土 滋賀・彦根の松原内湖遺跡
中央奥が尾根を削り取って造られた「堀切」。縦方向に溝のように見えるのが斜面にある竪堀(彦根市松原町・松原内湖遺跡)
滋賀県文化財保護協会は22日、彦根市松原町の松原内湖遺跡から、織田信長が1570(元亀元)年の佐和山城攻めの際、敵の逃走や侵入を防ぐため尾根を削った「堀切(ほりきり)」などの城郭遺構が出土した、と発表した。堀切は1970年代の城郭調査で南東約0・5キロ離れた別の尾根で1カ所見つかっており2カ所目。「信長公記」に書かれている、佐和山城を四方から囲んだ包囲網の「鹿垣(ししがき)」の一部とみている。
出土した堀切は、佐和山城跡から北北西に約1・6キロ離れた尾根を削り取っており、幅7・5メートル~5メートル。長さは13・5メートルで最深部は4メートル。堀切の末端から東斜面に敵を足止めする竪(たて)堀(幅7メートル、深さ1メートル、長さ14メートル)も確認でき、大規模な包囲網があったと推定できる、としている。江戸時代(17世紀)以降の平瓦や天目碗(わん)が出土したため、造築は16世紀以前で、立地や構造から信長が佐和山城攻めで築いた可能性が最も高いという。
堀切がある尾根(標高114メートル前後)は、当時の松原内湖湖岸の北端東側にあたり、南約150メートル離れた尾根上が琵琶湖や内湖を監視する櫓(やぐら)を建てるのに最適地であるため、北からの敵の侵入を防ぎ、佐和山城からの逃走を阻止するのが目的らしい。
佐和山城には当時、姉川の戦いで信長を苦しめた浅井長政の家臣で城主だった磯野員昌(かずまさ)が籠城し、信長の包囲網により約8カ月後に降伏した。
県文化財保護協会の小島孝修主任は「兵士となった農民が死なないように、短期間で攻めることをせず、相手の降伏を待つ戦法をとって、堀切を突貫工事で造ったと思われる」と話す。
中井均滋賀県立大教授(日本城郭史)は「城の包囲網は柵と堀切から1572年の小谷城攻め以降、土塁へと発達する。信長が天下統一に向け始めた攻城戦で包囲網の初期の姿を示す貴重な遺構。自軍の兵力を維持しようとした戦い方を考える上で重要な例になる」と話した。
現地説明会は25日午後1時半から。問い合わせは同協会TEL077(548)9780。
信長建築の城郭遺構か、竪堀など発見 彦根・松原内湖遺跡
県文化財保護協会は二十二日、彦根市松原町の松原内湖遺跡で、戦国時代に築かれたとされる堀切(ほりきり)や竪堀(たてぼり)などの城郭遺構の一部が見つかったと発表した。構築年代を示す遺物の出土はないが、協会は「構造や立地などから織田信長が一五七〇(元亀元)年の佐和山城攻めに際して築いた可能生が高い」とみている。
見つかった城郭遺構は、尾根を伝って侵入する敵を足止めさせる堀切、同じく斜面を伝う敵に対する竪堀が主体。佐和山城跡の北北西約一・六キロ付近の丘陵地にあり、南北方向の尾根を分断するように掘られていた。
堀切の幅は最上部で七・五メートル、基底部で五メートル。長さは一三・五メートルで、最深部は四メートルだった。表土付近から江戸時代(十七世紀)以降とされるいぶされた平瓦二点も出土した。
竪堀は堀切の端から始まり、尾根東側斜面に形成。幅七メートル、深さ一メートルの規模で、長さ十四メートル分を確認できた。表土付近からは江戸以降の天目茶わんが出土。発掘調査対象地外だが、尾根西側斜面でも竪堀が確認できたという。
周辺からは、斜め方向の堀(幅三メートル、深さ二メートル)やハの字状に掘り込まれた溝(幅〇・五メートル、深さ〇・三メートル)も見つかった。
堀切と竪堀について、同協会は「現状では佐和山城攻めに際して築いたとするのが最も妥当。信長が敵兵の進入を阻むために築いた包囲網の一部と考えられる」とする。
県立大人間文化学部の中井均教授(日本城郭史)は「信長、(豊臣)秀吉の天下統一への足跡が見えてくる貴重な発見で、両者が統一過程で繰り広げた城攻めの初期的な姿を明らかにできた遺構として注目できる」と話している。
国道バイパス整備事業に伴い、同協会が二〇一二年度から実施。本年度は遺跡内の八千平方メートルを対象に調査している。二十五日午後一時半から現地説明会を開く。(問)同協会=077(548)9780
(曽田晋太郎)
滋賀県彦根市の松原内湖遺跡で、1570年に織田信長が浅井長政と戦った佐和山城攻略の際に築いたとみられる堀切跡が見つかり、同県文化財保護協会が23日までに明らかにした。
敵の逃亡や侵入を防ぐためとみられる。これまで文献には記されていたが、具体的な遺構が見つかるのは珍しく、同協会の担当者は「信長が得意とした包囲戦の初期の様子がうかがえる」と話している。
堀切跡は佐和山城跡の北西約1・6キロで見つかり、長さ13・5メートル、最大幅7・5メートル、深さ4メートルにわたり、尾根を切断していた。出土した天目わんや瓦から、16世紀以前に築かれたと推定される。