菖蒲嶽山城見学会に参加しました!
見学した所
登城口の中山道の道標
お城のデータ
所在地:彦根市中山町 map:http://yahoo.jp/2Ehqjf
築城者:今井定清(尺夜叉)=六角方
築城期:天文13年(1544)か
初城主:今井定清
区 分:山城
遺 構:土塁、堀切、土橋、堅堀
訪城日:2014.5.10・2016.3.13
お城の概
南城は3つの曲輪を連ね、浅い堀切を介した曲輪はほとんど削平されておらず自然地形にちかい。幅25m、奥行き8mほどの2の曲輪へは堀切、土塁を経て入る。
主曲輪へは2mほどの高低差があり、広さは幅25m、奥行き40mで前面に櫓台を設け、北東隅の平入虎口を固めている。
お城の概要
北城は幅25m×奥行き40mほどの主曲輪と北側斜面に袖曲輪を配しているだけで、削平状態も良いとはいえず、南城と比較すると急造され、使用期間も短かったのではないだろうか。
菖蒲岳城から北方には太尾山城、地頭山城を望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。
中山道の道標の後方の登り口から山に入り、入ってすぐ左手の尾根へ登っる。この道は鉄塔の管理用の道で、3つ目の鉄塔が尾根の鞍部。
3つ目の鉄塔からは東側に太尾山城・地頭山城が見え、西側にキドラ谷砦などが見る、眺望は良い。
城郭遺構は、右手(東側)へ200mほど進むと頂部が南城で、小さい堀切を越え、すぐに多いめの堀切があり、両サイドが竪堀になっています。登るとL字に土塁がありさらに一段上が主郭です。
左手方向に尾根を200mほど下り進むと堀切があり、さらに進むと堀切・土橋、その上に郭がありますが、不明瞭な郭。遺構としては不明瞭な北城。
菖蒲嶽城は2つの城域で構成されており、東尾根先端に南城、北尾根に北城があり、この間約300m。
南城は3つの曲輪を連ね、浅い堀切を介した3の曲輪はほとんど削平されておらず自然地形にちかい。幅25m、奥行き8mほどの2の曲輪へは堀切、土塁を経て入る。
主曲輪へは2mほどの高低差があり、広さは幅25m、奥行き40mで前面に櫓台を設け、北東隅の平入虎口を固めている。
お城の歴史
天文13年(1544)に今井定清、六角方ろして築城『島記録』
蒲嶽城から北方には太尾山城,地頭山城を望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。
菖蒲嶽城については嶋記録に以下の記述がある。
---- 以下、嶋記録 天文13年(1544)6月27日
今井本領案堵望之事
「去程に、今井本意之望有しか共、事ゆかさりしかハ、北境目取出の望をなしゝに、人質として二歳の若子井鳴か孫四郎観音寺へさし上、摺針山・菖蒲嶽取出ニして、鎌のは(鎌刃城)の通路をさゝゑしかハ、敵以之外いたみけるとかや」---ココマデ
嶋記録は、京極氏の家臣団の中でも筆頭の地位を占める箕浦城を居城とする今井氏が、文明2年(1470)の京極氏の内訌(梅本公事)をから浅井氏が台頭するまでの間に六角定頼に内応した。
嶋記録-----嶋記録 箕浦帰参之事
「覚へ、吉田安芸守也、蒲生郡河守村之地頭也、彼村老共今二申ツタヘニハ、吉田安芸スリハリ菖蒲か嶽二居城ト申候也」
---ココマデ
天文13年(1544)に観音寺城の六角定頼に人質を差し出した今井定清は、天文21年(1552)、六角定頼が没した後、浅井氏に再度従うことになるが、その間、菖蒲嶽城には六角氏家臣の吉田安芸守が在城していた。
望め、菖蒲嶽城は天文7年(1538)の太尾山の戦い(太尾山合戦)、天文22年(1553)の地頭山の戦い(地頭山合戦)、および永禄4年(1561)の太尾山の戦い(太尾山合戦)の中で築かれたか、改修された可能性が高い。
菖蒲嶽城については嶋記録に以下の記述がある。
キドラ砦鉄塔から北太尾山城鉄塔の下で遺構の説名・・
南城遺構のへ
北城へ
堀切・土橋
堀切・土橋
中山集落へ下りました。
磨針一里塚の碑
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、見学会資料
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!