久し振りに終日どこにも出かけず。
午前、午後とうつらうつらして休養。
夕方、以前買って積んであった「虎の尾を踏む男達」を見る。
※画像をクリックすると「楽天」のページに飛びます

戦中に作られた映画。
歌舞伎の「勧進帳」が下敷きなのだが、
いろいろ分かりやすく構成されており、
元を知っているといろいろ面白い。
関所にかかる際の音楽からして、
長唄の曲のリズムが生かされている。
大河内傳次郎の弁慶が声といい姿といい、
時代がかっており、歌舞伎の雰囲気もあって良い。
それに対してエノケンが別の時代から飛び込んだ雰囲気で、
動き、表情付けなども非常に上手く、
その対照が面白い。
特に関所で白紙の勧進帳を覗き込むところなど、
エノケンの強力が観客の気持ちを代弁する立場になっていた。
関所の場面で、富樫と梶原の家来の二人を出していた。
富樫は最初から義経一行と分かっており、
しかもそれを通したい、という心持でいる様子。
ただ梶原の家来の手前、勧進帳を読ませたり山伏問答をけしかけたりしている。
人を分けることで単純化されてしまうキライはあるが、
まあ、石堂と薬師寺がいるようなものだわな。
あと、酒は関所を抜けた後で、家来が持ってくる、という形。
富樫はもう登場しない。
「お詫び」というよりは、「義経一行を励ます」のがメインなのだと感じた。
最後はエノケンの強力だけ残され、六方を踏んで見せて(転んで)終わり。
歌舞伎の「勧進帳」では気付かなかったのだが、
「山伏」と「強力」は位置付けが違うのだな。
山伏連は最後まで行かなければならないし、
「7人の山伏」という一行になるのだが、
強力は「この山を越えるまで」といったパートタイムになる。
だから山伏姿だった義経を強力に変えて
「7人連れじゃない、6人連れ」と誤魔化そうとした訳なのだろう。
そのあたりなど、次に歌舞伎で見る際の新しい視点が得られたと思う。
午前、午後とうつらうつらして休養。
夕方、以前買って積んであった「虎の尾を踏む男達」を見る。
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歌舞伎の「勧進帳」が下敷きなのだが、
いろいろ分かりやすく構成されており、
元を知っているといろいろ面白い。
関所にかかる際の音楽からして、
長唄の曲のリズムが生かされている。
大河内傳次郎の弁慶が声といい姿といい、
時代がかっており、歌舞伎の雰囲気もあって良い。
それに対してエノケンが別の時代から飛び込んだ雰囲気で、
動き、表情付けなども非常に上手く、
その対照が面白い。
特に関所で白紙の勧進帳を覗き込むところなど、
エノケンの強力が観客の気持ちを代弁する立場になっていた。
関所の場面で、富樫と梶原の家来の二人を出していた。
富樫は最初から義経一行と分かっており、
しかもそれを通したい、という心持でいる様子。
ただ梶原の家来の手前、勧進帳を読ませたり山伏問答をけしかけたりしている。
人を分けることで単純化されてしまうキライはあるが、
まあ、石堂と薬師寺がいるようなものだわな。
あと、酒は関所を抜けた後で、家来が持ってくる、という形。
富樫はもう登場しない。
「お詫び」というよりは、「義経一行を励ます」のがメインなのだと感じた。
最後はエノケンの強力だけ残され、六方を踏んで見せて(転んで)終わり。
歌舞伎の「勧進帳」では気付かなかったのだが、
「山伏」と「強力」は位置付けが違うのだな。
山伏連は最後まで行かなければならないし、
「7人の山伏」という一行になるのだが、
強力は「この山を越えるまで」といったパートタイムになる。
だから山伏姿だった義経を強力に変えて
「7人連れじゃない、6人連れ」と誤魔化そうとした訳なのだろう。
そのあたりなど、次に歌舞伎で見る際の新しい視点が得られたと思う。