九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

木村の祖となった成俊は、中原ではない成俊であったという事も考えられるのではないか?

2024-12-07 | 九里バラバラ情報
源経方の息が(養子であったかもしれないが)中原であったとは限らない。
夢中になっていると、中原以外の事を忘れてしまう。。。

紀氏で、木村と名乗り…となっていく「成俊」を探し出したい。

成俊を調べてみると、秀郷流の足利氏の中に佐野庄司となっていた成俊がいた。
年代的には、この佐野成俊の方が中原成俊よりもぴったりとくるかもしれない。定道の息のあたりの年代かと思われる。

前回の記事の【中原成俊】が、経方と関係がある人物かどうかの疑いの目を以って調べれば、調べるほど暗雲が垂れ込めてくる‥‥

木村氏・佐野氏を調べてみて、佐々木氏との接点などをチェックしてみようと思う。


佐野庄司の成俊も養子であった可能性もあるので、益々複雑である。 
                    ↓ 佐野養子 とある。







難しい… 難しすぎる…
対馬冠者・甲斐権守の検索もなかなか思っているような情報は今のところ出てきていない。

佐野氏は秀郷流、そこから繙けるか???

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一度【伊香三郎成俊】を考える(1)

2024-12-07 | 九里バラバラ情報


この本では源経方と二男行定、三男定道、が養子父子関係であったとある。

一方系図では成俊が経方の息となっている記載も、また曾孫となっている記載もある。(二人の成俊がいたのかもしれない。)

系図研究の基礎知識 近藤安太郎著には『成俊は対馬冠者と号し甲斐権守・神主となった。』とある。





いろいろな系図で、年代も確定せずに戸惑う。

近江国の伊香郡にいた中原成俊(伊香三郎)は、前から数えても、後ろの年代から逆算しても1000年あたりの人物に思えるのだ。中原成俊が二人いた可能性もある。

平成俊も、大江成俊も、木村となった紀成俊もいるので、それぞれが実在していたのかもしれないと疑いつつ進めなくてはいけないようである。

さて、
木村氏にとっては沙沙貴神社神官に戻った形になるという。

沙沙貴神社はもともとは紀氏が守っていた神社であったのだ。
『常楽寺城は琵琶湖の海上ルートを押さえる目的で築城されたと考えられ、代々、佐々木氏の源流狭々城山君の支流で沙沙貴神社の神官であった木村氏が城主であったとされる。(城郭探訪さん)』
https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/9f7e52a24dae8fce866d1e2c74dce39e

古代にまで遡ってみると、狭々城山君 倭帒宿禰  山部 置目 などがみえる。その辺りのことは、また改めるとして、

今回はこの紀氏から出てきた成俊と伊香郡の伊香三郎成俊(中原)が同一人物かどうかを調べてみようと思う。

資料上では、中原成俊(1124年 越中守)と【伊香三郎】(中原成俊)を調べようと思う。


寛治5年(1091年)



康和五年(1103年)

天治元年(1124年)


保安元年(1120年)








此の成俊の活動期は 1091~1124年あたりと思う。







今回、この辺りの年代を調べてみてわかったことを書いていく。

まず、親子と兄弟の年代が、ある系図では間違っているようである。

経方から書いていく。
経方は永久三年 62歳で没している。(1115年 )… 1053年生
のように、没年から逆算しながら進めていく

    源経方 1053年生ー1115年没
     季定(為俊)1081年生-1131年没 
     行定 1084年生ー1139年没
     成俊 1074年生(その辺りか?)ー活動期 1091年~1124年
     定道 1109年生ー1171年没
     秀義 1115年生ー1184年没

つまり、定道の息が成俊ではないことになる。

成俊が経方の息であったとすると経方はかなり若い頃となる。
季定よりも前に生まれていた成俊となると思う。

定道は秀義と同世代となる。任誉が秀義の継父となっている系図もある。

もう一つ「俊」という一文字は何処から来たのであろう。
季定の初名も為俊と「俊」がついている。
伯父にあたる経方の弟の経俊かもしれない。(日野冠者)

紀氏の母方の祖父盛宗は1069年に下野守となっている。
紀盛宗の娘を母とする紀行定と成俊は兄弟なのだろうか?

一つの系図では行定の息に定道がいるとある。これが真実に近いかもしれない。紀氏の流れにある。




経方ー成俊の成俊は中原成俊でもあるのではないだろうか。
近江国御家人井口中原系図内の成俊の年代とは違っているので、伊香三郎ではなさそうである。

しかも上の系図では行定の息に家行がおり、家行は愛智郡の出で、初名行俊と「俊」がついているあたりも、中原と関係がありそうでもしかすると紀氏と中原氏との婚姻か養子関係があったのではないかと思わせる。

此の家行の名前は、中原の経行・成行を思わせる。途中で改名しているあたりも紀氏からの養子縁組があって中原氏に入ってきたのかもしれない。



経方は、伊香郡・愛智郡の中原氏と結び、また、下野の紀氏と関係も結んで佐々木荘のみではなく、広く力を及ばせることに注力していたのではないだろうか?

何が正解かはわからないが、定道は「成俊の父親ではない」ことがはっきりとしたと思う。
また、中原成俊は二人いて、一人は1000年生まれ、もう一人は1070年代生まれと思われる。
もしくは、系図の位置のずれかもしれないが…


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源経方の周辺(2) 経方の妻であった紀盛宗の娘 と 宇都宮、因幡、がヒントではないだろうか?

2024-12-02 | 九里バラバラ情報
経方の周辺を見ると、

妻の一人は源義光(新羅三郎)の娘
もう一人が、下野守紀盛宗の娘 である。

此の紀氏は、下野という土地柄もあり、宇都宮氏と密接な関係のある紀氏と思われる。
しかも、紀氏といえば、源頼政の弟の紀氏(池田)に養子に入った泰政もいた。
Wikipediaの池田氏のぺ―ジには以下のようにある。

【源平合戦の頃に、源頼政の弟源泰政が池田氏の養子に入り、泰政の子の泰光が摂津豊島郡を時景(摂津池田氏)、美濃池田郡を泰継(美濃池田氏)に継がせた。】

さらに頼政には土岐氏に通じている弟が二人いた。一人は源光重である。
もう一人は、源国政(山県国政)

重大なことは、この源(山県)国政の母は、

宇多源氏佐々木党 木村兵部大輔定通女

と【木村定道の娘】であったことだ。
定道とは、経方の孫にあたる。経方ー行定ー定道 である。

という事は、経方の周辺を見ると、

紀氏とも、土岐氏ともつながりを持つ源頼政とその父仲政との縁。

下野守盛宗とのつながりと、宇都宮氏(中原氏でもある)との縁。

宇都宮氏(中原氏)と藤原秀郷流との縁。

源義光(新羅三郎)とその裔との縁。

そして地元の沙沙貴山君氏との縁。
沙沙貴山君のwikipediaには「孝元天皇の皇子である大彦命を始祖とする阿倍臣一族とされる[1]。平安時代まで蒲生・神崎両郡の大領として近江国(現在の滋賀県)に勢力を持っていた 」とある。
この大彦命を調べていくと、沙沙貴山君(佐々貴山君)も摂津の国とつながりがあることが分かった。摂津には長田神社があった。

更にもしかして、
後に中原蓮忍(九里太郎)と常忍が、因幡国の在庁官人となっていることからも見ても、
経方と同時代に登場している伊福部氏か…ともいわれる「服経方」(長田経方。資経の父)も此の源経方であるかもしれない可能性を感じるのである。




榎本(小山氏流) ↓






源頼政は、熊野へ赴き源行家に話に行ったと記憶している。
その辺りも、此の榎本などにつながってくるのかもしれない。



ちょっと、手が届きそうな気がしている。
今回こそ、九里氏の源泉に近いのではないだろうか??


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源経方の周辺(1) 二男 行定 木村氏と紀氏 そこから繋がる 日神崇拝

2024-11-30 | 九里バラバラ情報
義経(章経)ー 経方 ー季定(初名 為俊)…新羅三郎の娘が母
        経方 ー行定(下野守紀盛宗の娘が母)佐々木宮神主
【紀盛宗】は、1069-1071年あたり、下野守となっていたようである。
しかも宇都宮氏との関係もあったようなのだ。今回の収穫である。

紀伊国の日前













この【神々の間奏曲:儀礼・芸能・文学】小林茂美 著作 桜楓社
の本の中には、木村と紀氏・宇都宮氏・小野氏・日前神社・国懸神社など、今までバラバラに調べてきたことが繋がってくるような事柄が出てくる。熊野にも繋がってくるのだ。まだ見つけたばかりではあるが、じっくりと読みたい本である。

日神崇拝は、銅鏡から来ていると思う。

*****

さて、今回もう一つ
愛智郡の季仲が養子として入った先の新宮経頼は、源経頼とは別人であることが判明した。(源経頼は1039年に歿している。)新宮経頼と愛智郡の中原季仲のことは堀河天皇在位中のことであった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中原久経に関する新情報 吾妻鑑標註 より

2024-11-28 | 九里バラバラ情報



もしも源経頼の子孫が久経であったなら、嬉しい。
Wikipediaではその源経頼の兄が成頼という事になっているが、宝賀先生の著書では(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会) 扶義の二人の息、兄経頼 弟成頼 となっている系図もある(尊卑分脈)。
また亀井家譜の系図の註には『権記』成頼の没年(長保五年 1003年)があり、それによると尊卑分脈(康平七年 1064年)の成頼の没年は違う事になる。

権記の記載の成頼が【源成頼】で佐々木氏の祖と言う事になると、28歳で亡くなった人物となる。
(この権記が正しければ、佐々木氏の祖の成頼とは異名異人となる…とのことだ。)

その後に経頼は1018年より兼務で近江守になっている。

扶義ー経頼・成頼ー義経(初名章経)ー経方 となる。

ここからは私の仮の想像であるが、
義経が3歳の時分に父であった成頼を亡くしたため、経頼が義経と兄弟(宗頼・成経)を育てた可能性も感じた。(あるいは、前述のようにもう一人の成頼がいた。)

また成頼の系に佐々木経久がいる。「経」がついている。
この人物は、経頼の流れを背負っているのではないだろうか。

其の経方の他の系図を見ると




こちらの系図では、経頼ー章経ー高経ー高信ー経方…となる。
これでは、代が多すぎではないだろうか?

私が思い描いている年代は、

成頼 長保5年(1003年没)
経頼 長歴3年(1039年没)
義経(章経)1021年ー1082年(永保元年没61歳)…1000年生まれの説もある
経方 1053年ー1115年(永久三年没62歳)
季定(為俊)1081年ー1131年(天承元年没 50歳)
秀義 1111年ー1184年(天暦元年没 73歳)

である。

以前因幡国の服経方(長田経方)を調べていたが、同じ時代である。

今、思いつくことを書き留めておいたので、後々役に立つ時が来るかもしれない。

もう一つ、長治二年1105年の資料がある。これは、経方52歳の時である。



*****


上記のアドレスにある情報は、貴重なので、下記に貼っておく。
私は、中原久経が中原親能と近い場所で育ったのではないかと思っている。だからこそ、源頼朝に呼ばれたのだと思う。

中原親能 ( なかはらちかよし)
大友能直の養父

 1143-1208 鎌倉時代初期の京下りの幕府文官御家人。幕府 公文所寄人(くもんじょよりうど)、 公事奉行人(くじぶぎょうにん)、京都守護、 明法博士(みょうぼうはかせ)、美濃権守、式部大夫、 掃部頭(かもんのかみ)、 穀倉院別当(こくそういんべっとう)、正五位下、法名 寂忍(じゃくにん)。康治2年(1143)生まれ。承元2年(1208)12月18日没。享年66歳。出自については諸説あり。明法博士中原 広季(ひろすえ)の子で、 大江広元(おおえのひろもと)と兄弟とするもの(『 尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』中原系図)、右京大夫藤原 光能(みつよし)の三男であるが、外祖父(母の父)中原広季の養子となったとするもの(『 大友家文書録 』)等あり、定説がない。 大友 能直(よしなお) の養父。
〈生立から関東下向まで〉
 親能は何かの事情で、幼少のころ相模国住人に養育され、そこで生長した。湯山学は、相模国足柄上郡の 波多野経家(はたのつねいえ)の 所領(しょりょう) 大友郷 ではなかったかと推定する(『地方史研究』第144号)。『 玉葉(ぎょくよう) 』には 源 頼朝(よりとも) と「年来の 知音(ちいん)」とか「甚深の知音」とある。親能が生まれた康治2年ころ、源 義朝(よしとも)は鎌倉に居り、4年後の久安3年(1147)に 熱田大宮司季範(あつただいぐうじすえのり)の娘との間に頼朝が生まれた。義朝の次子 朝長(ともなが)は波多野 義通(よしみち)の妹との間の子で、彼は相模国松田郷に居館を構えていた。親能と頼朝との交友関係は、監視つきの伊豆 流謫(りゅうてき)中は不自然で、それ以前の幼少時代の事であろうという(湯山学説)。これに対し瀬野精一郎は流人時代と主張する。
 親能はいずれのころからか上京、中納言源 雅頼(まさより)の 家人(けにん)となり、 後白河院(ごしらかわいん)の 院仕(いんじ)として仕えていた。治承4年(1180)8月の頼朝挙兵の4か月後の12月4日夜半、宿直中の主雅頼の家から逐電した。頼朝との親交関係を探知して、平 時忠(ときただ)の命令で讃岐少将 時実(ときざね)を派遣して親能を召し尋問しようとした平家の動向を察知して、逃亡したのである。頼朝の許に走って彼を 援(たす)けたと推定するが、瀬野精一郎は確証がないと述べている。
〈平家討伐に活躍〉
 『玉葉』に、親能を「漢字を読まざる人也」と評しているのは、東国で育った生活環境が就学の便を与えなかったことを示し、これが京都の公家生活を断念し、頼朝の許に走らせた原因であろう。寿永2年(1183)彼は義経の軍勢と共に西上して伊勢に入り、翌元暦元年(1184)正月入京、旧主雅頼宅に止宿、頼朝代官として万事を奉行した。2月の 一の谷の合戦 では、 搦手(からめて) 源 義経(よしつね) 軍に属し、同月16日後白河法皇の使として、頼朝の上洛を促すため鎌倉に下り、4月29日平家追討軍の奉行として上洛。まことに席の温まる暇のない活躍である。同年10月公文所 吉書始(きっしょはじめ)には、大江広元が別当、 寄人(よりうど)には中原親能 藤原 行政(ゆきまさ) 藤内遠元(とうないとおもと) 甲斐四郎 大中臣秋家(おおなかとみあきいえ) 藤判官代邦通(とうのほうがんだいくにみち)が任命された。ただし9月2日平家追討のため京都を立って西下した 源 範頼(のりより) 軍には、平家追討奉行として親能も従軍しているので、それは彼の出陣中の事である。厳寒中食糧 兵船もなく進退窮した範頼軍は、 緒方 惟栄(これよし) の提供した82 艘(そう)の兵船によって渡海し、九州の平家残党を平定し文治元年(1185)4月帰京した。
〈大友能直が中原親能の養子に〉
 文治元年4月1日波多野経家が 鎮西(ちんぜい)から帰東したが、彼を中原親能の 舅(しゅうと)と記している。「 波多野系図 」によると経家の次女が中原親能の妻となっており、その妹が 近藤( 古庄(ふるしょう)) 能成(よしなり)の妻となっており、その所生が大友能直である。能直の父能成は早世したか、経済的 社会的に微力のためか、歴史の表面に出ない。こうした関係からか、頼朝の信頼 篤(あつ)い中原親能に 托(たく)するのが、武士としての将来性に最も適しているとされたのではなかろうか。能直が「 無双(むそう)の 寵仁(ちょうじん)」として頼朝から愛されたのは、中原親能を介せずには理解することはできない。
〈京都守護 政所(まんどころ)公事奉行 鎮西奉行〉
 文治2年(1186)京都守護に任じて上洛、建久2年(1191)政所の公事奉行に任じられた。その後 天野遠景(あまのとおかげ) が建久4~6年(1193~95)の間に 鎮西奉行 を解任され、その跡に中原親能と 武藤資頼(むとうすけより) が任命され、その鎮西奉行職が各国 守護 職(しき) に分化し、親能は豊後 筑後 肥後の守護職を兼ねたらしい(石井進説)。正治元年(1199)頼朝が死し、政子が将軍独裁を廃し北条 時政(ときまさ)ら13人の合議制としたが、親能はその一人に選ばれた。この年、頼朝の娘三幡が死んだが、 乳夫(めのと)である彼は入道し寂忍と号した。元久元年(1204)3月、親能が「鎮西 乃具(ないぐ)(年貢)」の勘定を命じられたのは、在職の証拠ではなかろうか。ただし瀬野精一郎は、彼の鎮西奉行は職権行使の裏付けがなく、これを否定する。建永元年(1208)ころ所領 所職(しょしき)を大友能直に譲り、承元2年(1208)12月京都で死去した。
 参考文献 瀬野精一郎『鎮西御家人の研究』 石井進『日本中世国家史の研究』 渡辺澄夫『増訂豊後大友史の研究』
[渡辺 澄夫]


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源光行の周辺 (6)土岐光行 と 良峯氏・原氏(稲木荘or 稲置荘)

2024-11-20 | 九里バラバラ情報
土岐光行が、仮に富木常忍の父だとし、五男となると光定になってしまう。
庶子の五男であったのだろうか?

分らないことだらけだが、ともかく此の土岐光行は良峯氏の一族の領地であった稲木荘に入り、後に光行の子孫が【稲木氏】となったようである。






我が系の丹波国の柏原藩の九里氏が良峯姓前野氏と懇意であり養子縁組も二度あった事、
尾張国の良峯姓原氏(上総介広常の妹?娘?婚姻関係)、上総介広常の娘が千葉胤綱の母であった事、千葉氏と富木常忍、と大きく周囲を見渡すと、
この土岐光行の周辺と重なる部分がある。

富木常忍が近江国の中原の蓮忍入道(九里太郎)と共に因幡国に赴いていたことは確かであるので、三人の光行の中でも有力候補かもしれないと思う。

どの源光行にも九里氏と接点となる事柄があるのだけれど、

今のところ、九里氏の祖である中原冨城蓮忍・富木常忍に近いと思われるのは一番土岐光行、二番南部光行、三番源氏物語研究者の光行、である。

この良峯一族との関りがあった土岐光行。もう少し、調べてみたいと思う。

(良峯一族から土地を奪っただけかもしれないが、婚姻関係があって自然に移った可能性も否定できないと思う)

良峯=原⇒上総介広常の妹か娘が妻
千葉胤綱の母は上総介広常の娘胤綱娘と光行が結ばれていた‥‥と仮定すると、あり得ない話ではないと思う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源光行の周辺 (5)土岐光行 は 良峯氏との関係がある。

2024-11-16 | 九里バラバラ情報
源光行の五男か?とも言われている富木常忍だが、
其の源光行、富木氏と関係がありそうな光行と限っても、その時代に少なくとも3人はいたのである。

源氏物語の研究者であった源光行(おじは飯富氏)東国にやって来ていた。
南部光行は甲斐源氏であり、やはり当時鎌倉幕府の御家人となっていたと思う。
しかも、室町から戦国時代の事例ではあるが蒲生氏と婚姻関係がある。また、野田氏を名乗っていた者もいたのである。(東桜谷)

次に土岐光行。
富木常忍は、蓮忍と共に「因幡国の冨城郷」に居住し、在庁官人であったと言われている。
接点がありそうで、なかなかはっきりとしないのであるが、今回良峯一族との関係が見えてきたのである。

これは、常忍が生まれる14年前の事である。


こちらも鎌倉幕府の御家人でもあった事がわかる。

つまり、源光行3人とも頼朝とつながりを持ち、同時代を生きていたことになる。

常忍は、千葉氏の執事的立場として仕えていることから、土岐光行の可能性も大きいかもしれない。(下記に千葉氏とのつながりがみえる。)






見極めが難しい。…が、千葉氏との関係を見ると土岐光行が富木常忍に近いような気もしている。

良峯一族の原高春や高直が持っていた領地の主権が土岐氏に移っていったことも、婚姻関係等何等か関係があったのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源光行の周辺 (4)南部氏と蒲生氏 そして蒲生氏と小倉氏の結びつき

2024-11-15 | 九里バラバラ情報
南部氏と蒲生氏に関して

もう一つの情報が入ってきた。
前回、南部重直の母が蒲生氏郷の妹とあったが、氏郷の妹に小倉行春の室とあった。(wikipedia)






蒲生賢秀の息であった氏郷。
氏郷の母は、後藤賢豊の妹であったそうだ。

小倉実隆と兄弟でもあった父賢秀
まだまだ知らないことがありそうなので、調べてみようと思う。

九里浄椿は、小倉実隆の父という説もある小倉実澄のもとで文化的なことを学びつつ、共に暮らしていた時期があるという本もある。




小倉氏

1506年に実澄は歿している。


行春は小倉西家の秀実の息となっているであるようだ。(行春の娘は蒲生賢秀の室である。)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源光行の周辺 (3) 甲斐源氏の【南部光行】の息 行朝からつづく野田氏

2024-11-14 | 九里バラバラ情報
当ブログ内の【南部】を検索してみると、野田氏、三上氏(佐々木氏含)、蒲生氏との関係があることが分かってきた。








さらに、近世こもんじょ館のHPより、重要な情報を得た。↓
蒲生氏郷の妹が南部重直の母となっていたことが分かった。
この女性は、実は小倉作左衛門行隆の女でもあるという。



考えると、新羅三郎の裔という事でつながっているのかもしれない。
新たな、つながりが見えてきた。
しかも、近江国のメンバーがいるあたりも希望の光ではないだろうか。

当ブログの検索ワードの「野田」と入れるとそのつながりが見えてくる!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源光行の周辺 (2) 甲斐源氏の【南部光行】(信濃三郎光行) 1165年生まれ

2024-11-11 | 九里バラバラ情報
源光行は、まだ他にも存在する。
加賀美氏から南部氏となった【南部光行】である。
此の人の息実長が波木井氏となり、日蓮の支援者、そして弟子であった。

wikipediaより実長と日蓮の関係を写すと以下のようであった。
「文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。文永11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡国から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。」

この源光行の妹に大弐局がいる。
富木常忍の母下総局とともに、頼家・実朝の介添え人・乳母・養育係となっていた人物でもあるか?
また、此の大弐局は大井朝光とのつながりも密である。
そして大井朝光の母は上総広常の娘である。

更に大井朝光の娘は出雲源氏の佐々木泰清の妻となっている。
隠岐時清の母である。
更に時清の妻は大曽根長経の娘で、長経の父は安達長泰である。

こちらの源・南部光行は富木常忍の周辺に近いような気もする。


 






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする