
源為義女鳥居禅尼(熊野別当行範妻) 紀伊国佐野荘
鳥居禅尼は、佐野荘以外の【但馬国 菅荘】にもかかわっていた形跡がある。


その菅荘の地頭として大田文に二人の名が挙がっている。
但馬国菅荘
藤肥前太郎経久
多々良木(岐)孫太郎長基


沙弥蓮忍、蓮忍入道(いずれも九里太郎)の居たと思われる丹波国の河守荘と因幡国の冨城郷の間に位置することになる但馬國の菅荘。
地図をよく見ると、菅荘の近くに伊福部宮や、日置郷、雀岐荘、水谷大社、がみえる。
【伊福部宮】九里の祖の太郎経久は、因幡国の宇倍神社で伊福部氏のすぐそばに居住していた。(冨城氏)
此の菅荘の藤肥前太郎経久が九里太郎経久(冨城蓮忍入道)と同じ人物である可能性もあると思う。
そうなると肥前国高来郡の深江蓮忍が経久であることを示唆しているのかもしれない。(肥前という名乗りより)
日置郷の日置は、測量士であった日置を思い起こさせ、【雀岐荘】との関係も、佐々貴山君とつながっていたと思わせるに十分なのだ。
日牟礼神社と奥嶋と高島郡の日置神社のラインを思い出させる。
これは日置氏が佐々貴山君と共に居た痕跡であるかもしれないとさえも思う。
更に水谷には大江氏がいた。(水谷重清)
延暦3年(784年)







栗の樹とも関係がある。栗岑という地名だろうか。



錯綜しているが、次郎がもしも広綱の息【親綱】のことであったならば、四郎広綱は佐貫と阿曽沼が同一人物となってしまう事になるかもしれない?
解明できない人物のようだ。
もしも佐貫四郎=阿曽沼四郎となると、蒲生に来た人物も阿曽沼でもあった事になる。
また、新たな発見が出てくるまでは、このまま保留としておこう。

飽きっぽい私が、十年も同じことにこだわって調べ続けていたなんて信じがたい事である。
これも、ひとえに読者の方々がいらしてくださったことや、コメントを入れてくださったことなど、
「一人で書いてはいるが、一人ではない」ことがなせる業であったと思う。
本当にありがとうございます!!
まだまだ【九里氏】の解明とまでは遠く及ばずにいるので、続けていこうと思っています!
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします~~~♪
前回「別人であることがはっきりした。」と言い切った後に出てきた一冊の本に


「決め手はないが、同一人物である可能性がある事」を示唆されていた。
まぁ、プロの方々でも難しい箇所のようなので、アバウトにしている方が賢明であるのかもしれない。
…という事で、駒を戻して、一応同一人物の可能性は否定しない‥‥という方向に転換して 調べることとしたい。
さて、「佐貫」という名に聞き覚えがあった。本の記述とは別で、私の記憶の中の『佐貫』なのだ。
武蔵にも、下野にもその名はあるそうなのだが、思い出したのは上総国の佐貫城であった。
片岡経春(常春)が居城していた?とか、義経を連れて行ったとか?
もう一度調べてみるとそこに佐貫広綱がいるのではないだろうか?
範頼の配下に居て、後に義経の配下に移ったようであるが…(後日述べる)


系図では阿曽沼広綱と佐貫広綱に二代分の開きがありそうに見えるのだが、
佐貫広綱は頼朝の時代から頼家、実朝、間で活躍してるようなのだ。
という事は、此の系図の佐貫広綱よりの位置よりも前の世代に活躍しているのではないだろうか?
1219年の源実朝が殺されたあの八幡宮拝賀 にも参列していたことが吾妻鑑で分る。
という事は、佐貫広綱と阿曽沼広綱と同世代という事になりそうなのである。
初めは佐貫広綱として活躍し、後に阿曽沼を称したのだろうか?
そのスタンスで調べていたら、文治五年七月十七日の阿曽沼広綱と佐野広綱の両名が同じ文書の中に発見できたのだ。(1189年)
つまり、別人であることがはっきりとしたのである!!!


阿曽沼次郎広綱 と 佐貫四郎広綱!
・・・という事で、すっきりとした。
先に進めていこう。
下記のHP『箕輪城と上州戦国史』さんの素晴らしい記事!
1.秀郷流武士団の展開と館林地域
この中の系図を見ると「阿曽沼広綱」と「佐貫広綱」が別人であることがはっきりした。
私が追いたいのは、たぶん阿曽沼広綱の方となる。

新しい一年、2025年 令和七年が始まりました。
*****
今年で此のブログを始めて10年目に突入することになる。
気を引き締め、違った角度から「九里氏」を見ようと思っている。
秀郷流の中の足利氏について…どのくらい資料が揃っているのかもわからないのだが、見てみようと思っている。
佐貫広綱という人物がいて、相撲人であったという。
此処で、一つ思い出したのが『長田広雅』である。
ここが、ちょっと引っ掛かっているので、この辺りから始めたいと思う。
因みに、此の佐貫氏は藤姓足利氏の一族 である。
上記の【2.鎌倉幕府と佐貫氏】の記事には、非常に大事な事が載っていた。
『藤姓足利本家があっけなく滅亡した背景には、本家の一門への統制力が低下し、佐貫広綱のように頼朝陣営に走る者が出たことも大きかったと考えられる。その後広綱は、源平の争乱では源義経・範頼らに従い上洛し、寿永三年(1184)二月の一ノ谷合戦に有力武将として見える。
一方で同年三月には、「上野国住人讃岐四郎大夫」が近江国蒲生保(滋賀県東近江市)を私領と称して住人を責め、御供田を押領しているので百姓らが耕作できないとして、感神院が訴えている。』
一方で同年三月には、「上野国住人讃岐四郎大夫」が近江国蒲生保(滋賀県東近江市)を私領と称して住人を責め、御供田を押領しているので百姓らが耕作できないとして、感神院が訴えている。』
蒲生保を私領に…とは、驚いてしまった。
その後此の蒲生保を足掛かりにし、何氏かに地頭職を与え、代わりに住んでいた者がいたのではないだろうか?
など、など、新しい角度から九里氏の周辺を探ってみようと思う。
*****
では、今年も一年どうぞよろしくお願いいたします。
皆様にとりまして良き一年となりますよう心より祈念いたしております。
九里氏‥‥私の思っている成り立ち
秀郷流の女性が源義朝に嫁ぎ朝長の母となったが、その後離縁し、中原氏に嫁ぎ久経を産んだことから始まっていると思う。
其の中原氏は系図的には大江氏とも宇都宮氏とも近い位置にいた者であったろうと思う。
久経(頼朝の御使)と政経(一条能保の家司)は年の離れた兄弟か、年の近い親子であろうか?
その後、久経の子孫が丹波国や因幡国へ在庁官人となって派遣され、またその地の地頭ともなったと思われるが、1240年後半に千葉氏の執事となって東国へ戻ってくることになったようだ。冨城蓮忍入道・常忍であり、千葉氏の執事的存在となったのは富木常忍で、日蓮の支援者でもあった。
この千葉氏とのつながりは母親が千葉氏であったようであるが、まだ詳細は不明である。
中原氏⇒冨城・富木(丹波の河守御荘・因幡国冨城郷)のち(千葉氏執事)1200年代前期から中期
蓮忍は九里太郎ともいわれ、九里氏の祖である。
中原経久=蓮忍入道=九里太郎

和歌山の系図には、近江国に住み、佐々木氏頼に仕えた九里氏が書かれている。


小堀助政(秀郷流佐野氏庶流)1200年代後半か1300年前半あたりに生まれたかと思う。
九里助恒 もまた同じく1200年代後半あたりか1300年前半に生まれたかと思う。
1335年あたりから近江国佐々木氏頼に仕える(和歌山系図)
九里氏も小堀氏も、紀伊国 熊野本宮とご縁があり、その近くに居住した者もいたことが、この上の二つの別々の系図から分かる。
近江国の九里氏は住熊野となったのが1300年代と思われ、和歌山の九里氏に熊野本宮の前房と出てくるのが1484年である。
今年も、あまり進んでいないように思えるが、それでも流れが少し見えてきたかのように思える。
中原から冨城・富木氏となり、その後九里となっている。
経久の息経重が九里左衛門尉を称していることから、ここから近江国九里に住み始めたのではないだろうか?
今年も一年間、読みにいらして下さりありがとうございます!!
来年こそは天災のない平和な日本国となりますよう!
また、世界にとっても戦争のない時代になりますように、
心から願っております。




上記の姓氏家系大辞典の37の項によると佐野有綱の六男廣高の曾孫あたりに1194年があったということだろうか。
1194年い熊野に移った佐野氏という事は、成俊は1200年生まれと思っていたが、もっともっと前の年代に生まれたはずである。
そこで佐野有綱を調べると、1186年に老体で‥‥とある。
という事は、1100年代初めに生まれているのではないだろうか?
更にwikipediaの佐野氏の系図には、以下のように有綱と成俊が兄弟として載っている。
成俊の娘が基綱の妻となり、基綱は婿養子となっているようである。

下記の系図は田原族譜からのものだが、こちらでは成俊の息に有綱となっている。しかも享年十九…

尊長の娘の息忠廣とは、年が全く違うようで、何が本当なのだろう。
田原族譜を見ると成俊の註に「実園田成実子」とある。
園田成実とは…
足利太郎成綱・家綱の弟であった。園田小倉氏祖。

何処にも近江国の佐々木氏との接点は書かれていないので、たぶん別人と思われる。
が、此の【佐野】というキーワードはかなり秀郷流の中でも九里氏に近いかもしれない。今までは、小山氏と思って調べていたが、九里龍作は新宮生まれである。
しかし、龍作は実は高須氏である。
其の祖は、大江氏だ。
だが、何度か高須氏の中に九里の娘が嫁いでいる。
九里には、本宮の前房の僧が居たり、熊野には深いご縁があった。
御師になっていた者もいた。

この本に高須氏と九里氏が登場していた。
高須富雄 九里幸清 である。
二人は、この熊代繁里の門人であったようである。



五味家の方は、九里のお墓を守って下さっていたそうである。ありがたく思っている。