九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

武功夜話 気になる登場人物memo (1)

2020-09-26 | 佐々氏 バラバラ情報

武功夜話 第一巻
先祖等武功夜話 巻一
武功夜話の事
一、
親助六尉 = 小坂 雄善
前野清助 = 前野 義詮
山の九郎兵衛 = 前野 行宗 
恵仙 = 孫四郎 = 吉田 雄翟(かつかね)

一、岐阜の事

一、織田備後守 信秀の事
岩倉殿 = 織田 信安
前野小次郎尉 宗康 = 右京
岩倉七兵衛様

一、
織田弾正忠 信秀 = 桃厳殿
織田伯厳 = 信康
織田伊勢守 = 信安 =七兵衛尉
清須大和守 = 織田 彦五郎
常円殿 = 前野 義詮 
前野小次郎兵衛尉 = 高康

尾州岩倉の事 家伝記併南窓庵記写
一、
織田 敏広
織田 常松 = 伊勢守
織田 広近 = 敏広弟
伊勢守弟 = 信康
大沢治郎左衛門 = 正秀
中島左衛門
小次郎兵衛尉長義 = 前野

尾州稲木庄前野郷九十五貫文由緒の事
一、
前野右馬三郎兵衛尉 = 前野 時綱 (中島左衛門尉被官のはじめの人…承久年中)伊勢大神宮御厨地
武衛様 = 斯波
常松御嫡子 与次郎 = 織田 敏広
前野左兵衛 = 前野 高康
右馬三郎時綱の子 = 佐兵衛尉時基 = その二男? 宗住 (僧)
時綱菩提寺 金光山蓮華寺 妙興寺の末
宗住 = 沙弥承念 = 右京
前野氏馬飼地を寄進 弘安四年 1281年
時基の子 四郎右衛門 = 宗義 =吉田氏の祖


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前野氏 と 原氏は 兄弟からの分かれであった。(5)尾治佐迷連 と 栗原連 栗原神社 … 津嶋神社近く memo

2020-09-24 | 佐々氏 バラバラ情報

昨夜いただいた情報 訓原神社(くにはら) ダイ新の右横
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/kodai%20owari%20sikinai%20jinja.html








http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E6%9C%80%E6%96%B0%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%82%92%E5%90%AB%E3%82%80%E6%98%A5%E6%97%A5%E4%BA%95%E3%83%BB%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%A8%E3%80%80%E3%80%80%EF%BC%92.html


http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD%E3%80%80%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%A4%A7%E7%B8%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89%E9%A0%98%E3%80%80%E9%A0%98%E6%9C%89%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t187.pdf


memo
藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)

藤原南家熱田大宮司家の一流。11世紀末,藤原季範(すえのり)が外祖父尾張員職より熱田大宮司職を譲与されて以後,同職は尾張氏より藤原氏の世襲へと移行,季範の子範忠,範信,範雅の子孫がこれを継承した。

このうち千秋氏は範信の子憲朝(本名有範,のち信綱と改名)が千秋を号したのに始まる。その号は三河国設楽郡の地名より発したと言われている。憲朝は八条院判官代であったほか鎌倉にも奉公したと伝えられ,将軍家知行国たる駿河の国守にも任ぜられた。

===*===

親鸞の父も有範だったような気がする。(日野氏で、皇太后宮大進)


桓武天皇の息良峯安世から 尾張「良峯・原氏」が始まり、桓武天皇の裔「長田氏」は致政が大矢を名乗り、致房が賀茂次郎を名乗り、長田氏へと続く。




此の安世の母親に注目すると「百済 永継(くだら の ながつぐ)」であり、藤原内麻呂の最初の妻で、後に桓武天皇の後宮で女官となり寵愛を得た事になっている。

藤原真夏(774年 - 830年)・ 藤原冬嗣(775年 - 826年)・良岑安世(785年 - 830年)は同母異父の兄弟であったことになる。

安世の妻は丹治氏であった。四男の宗貞(遍昭)が前野氏へと続く。

以下wikipediaによる
妻 丹治氏
三男:良岑清風(820-863)

生母不明の子女

長男:良岑木蓮(806-849)
次男:良岑良松(長松)(814-879)
四男:良岑宗貞(816-890) - 法名遍昭
男子:良岑高行
男子:良岑遠視
男子:良岑晨直(農直)
男子:良岑晨省(農省)
男子:良岑晨茂(農茂)
男子:良岑行振

遍昭は「花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。」とある。

私でさえも知っている歌があった。
「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
我が家の百人一首では「乙女」と大きく書かれていた。(北海道では木の札!)

出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇った。

息は素性。俗名は玄利
弟に玄理 改姓椋橋始住尾州 と柏原織田家臣系譜にある。

【 「良峰氏系図」(『続群書類従』巻174 所収)による。子孫を尾張国丹羽郡の良峰氏とするが、この氏は丹羽郡領家である椋橋宿禰であり、素性の俗名である玄利との名の相似から、桓武天皇裔の良峰氏を仮冒したものと考えられる(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)。 】という意見もある。

素性は「仁明天皇の皇子常康親王が出家して雲林院を御所とした際、遍照・素性親子は出入りを許可されていた。親王薨去後は、遍照が雲林院の管理を任され、遍照入寂後も素性は雲林院に住まい、同院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られた。後に、大和の良因院に移った。宇多天皇の歌合にしばしば招かれ歌を詠んでいる。」


雲林院(うんりんいん[1]、うりんいん)は、京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である。かつて天台宗の大寺院として知られた、平安時代の史跡でもある

大和国石上(現在の奈良県天理市)の良因院
http://sakuwa.com/p6.html
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前野氏 と 原氏は 兄弟からの分かれであった。(4)尾張国二宮 原氏・前野氏 前野氏系図(武家家伝さんのページ)思っていた形である!

2020-09-23 | 佐々氏 バラバラ情報

前野氏の先祖 良峯朝臣安世の末裔 原高成の息「高長」

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD%E3%80%80%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%A4%A7%E7%B8%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89%E9%A0%98%E3%80%80%E9%A0%98%E6%9C%89%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

その後、九条兼実(平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。 五摂家の一つ、九条家の祖。1149年に出生。・・筆者注)が領有し、子 良経カに伝領されたかと。
         { 建保3(1215)年8月 後鳥羽院庁下文の内容から知る事が出来ました。犬山市史 史料編3 参照 }

前野氏の祖でもある良峯高長が宮司を務めていたであろう(?)尾張二宮 大縣神社 
九条兼実(良経もカ)の所領となっていたようである。

前野氏の系図は武家家伝さんのものが、私が思っている形になる。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/maeno_k.html




これならば、忠勝―勝長ー直勝となり、満足。

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前野氏 と 原氏は 兄弟からの分かれであった。(3)何事もかはりはてたる世中にしらでや雪のしろくふるらん 佐々成政

2020-09-23 | 佐々氏 バラバラ情報

昨日に続き、武功夜話より

http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no95.htm

成政が信長に仕えたのは16歳であった。次兄孫助は弘治2(1556)年に信長と弟信行が跡目を争った名塚合戦(稲生原)で戦死した。
長兄政次も4年後、永禄3年の桶狭間合戦で戦死。
兄2人を亡くした成政は佐々家の跡を継ぎ、比良城主となった。

信長は永禄元(1558)年、公方様に拝謁のため隠密に上洛する際、前野勝長(長康の弟)、佐々平左衛門をお伴の警護に加えた。
桶狭間戦の勝利から種ケ島鉄砲に興味を持っていた信長は、泉州堺町を見聞遊行。堺町のおとな衆に案内された時、南蛮渡来の鉄砲を調達した。
以後、清須城中において鉄砲談義に熱心で、また清須の刀鍛冶に鉄砲を工夫して作るように仰せ付けた。
同5年2月、信長は鉄砲の調達を成政に命令。
家臣の佐々平左衛門、同与左衛門、前野勝長を江州(滋賀)国友村へ遣わし、二百有余挺を入手した。以来、佐々党は鉄砲の工夫に余念がなく、各戦では鉄砲での働きが比類なく多く、こうして佐々の鉄砲隊は早くから組織された。

まさに鉄砲の時代のはじまりである。
大和宇陀松山藩・丹波柏原藩の九里も、加賀藩の九里も、鉄砲と関りが深かったと思われる節がある。

時代はまた戦国に戻る。↓

三男 前野小兵衛勝長
勝長は佐々成政の家老役を務め、前野加賀守勝長と名乗り、越中国(現富山県)砺波郡井波城主となり15000石を領した。信長の鉄砲隊の中心である、佐々成政の鉄砲奉行を務め、三段撃ちを生み出した一人です。成政の雪のアルプスさらさら越えの扈従(したがう)の1人でもある。勝長の末裔、テレビ「水戸黄門」の助さんは本名佐々介三郎宗淳。この戦国の三兄弟は、織豊期の幾多の合戦に参加して、時には敵、時には味方となり骨肉相争い戦国の無情をあらわすところもありました。兄弟それぞれの立場から、内部事情、相手側への見方など詳しく書き残されています。兄弟はともに戦国の野に雄飛しますが、侍魂を貫き通して何れも主君に恵まれず、江戸時代には武門として残ることができませんでした。

天正13年(1585年)の富山の役の際には、佐々成政は富山城に兵力を集中させるという作戦を採ったため、前野勝長は事前に井波城を出て成政の本城である越中国富山城へと退いています。しかし前野勝長は秀吉方の丹羽長重の陣に攻撃をかけて戦死したといわれています。富山の役ではさほど大規模な戦いはなかったのですが、前田家も戦死者の供養をしていますし、小規模な戦いがあったことは間違いありません。

佐々成政が降伏した後は、井波城は前田家の持城になりますが、佐々成政が肥後に去ったため既に井波城の戦略的価値はなく、時を置かずして廃城となったと思われます。

===*===

その肥後にも佐々氏となっている前野直勝(久三郎改越前)という事は、この直勝は勝長のことではなかった…?
それとも、生き延びたのだろうか?
わからない!

直勝は柏原織田家臣系譜では、「肥後国益城郡禄千石命足軽大将後仕加藤清正賜菊池郡内宮園染土川原三村禄千百十石命代官又命微章蛇目」とある。肥後国で生きていたはずである。


佐々氏に関しては多少資料の本も集めていたが、この勝長の名前は出てこない。


宗能はイコール「宗康」であり、息に小坂雄吉・前野長康・前野勝長である。
その宗能の弟に直勝がいる

一方、直勝の父は「宗直」である。


佐々家覚え書の系図 (佐々瑞雄・淳行 著)


新版 佐々介三郎宗淳 (但野政弘 著)は柏原織田家臣系譜を参考にしているのだが、熊本佐々家系譜の註も付けている。


幾つかの系図其々が違っている。

柏原織田家臣系譜では佐々宗淳につながるのは直勝の系
「宗直ー直勝ー直尚ー宗明・宗淳」である。




http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no3.htm



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前野氏 と 原氏は 兄弟からの分かれであった。(2) 戦国時代 山内氏とのつながり

2020-09-22 | 佐々氏 バラバラ情報

こちらには前野氏と山内氏の関係についての系図があった。

http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no41.htm

「尾張黒田城主山内盛豊の妻は犬山羽黒城主梶原氏娘、法秀院(ほうしゅういん)で一豊の母。
前野氏十代時正の妻は梶原景綱娘で山内盛豊の妻(法秀院)の父の叔母にあたる

前野将右衛門長康の伯父忠勝(松倉城主)の妻は一豊の父山内盛豊妹(叔母) であり、山内一豊は義理の伯父前野忠勝で、長康も血縁のある従弟のようで慕っていた。

一豊の父が浮野合戦で討死したときは十四才で叔母の松倉城主忠勝の妻を頼り、忠勝・長康に預けられた。成人して墨俣、稲葉山戦に、木下藤吉郎、 蜂須賀小六、前野長康と共に参戦して戦功を挙げて、信長、秀吉、家康に仕え 長浜城主、掛川城主、その後関ヶ原戦の功で、家康より四国土佐高知城二十四万石を与えられた。」

前野忠勝・長康
佐々宗淳の系は勝長(直勝)なので、
その勝長から見ると忠勝は叔父、長康は兄である。

山内一豊と親戚であったことがわかった。



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前野氏 と 原氏は 兄弟からの分かれであった。(1) 高成の息が分岐点 

2020-09-22 | 佐々氏 バラバラ情報

前野氏(後に佐々氏称となる系も含むと思われる)の系図が下記のページにあった。

http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no118.htm

武功夜話に関しての記事が139回にわたって展開されている!! 素晴らしい!! 
本も取り寄せているが、まだ来るまでに時間があるのでここで勉強しよう! 
http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_top.htm

===*===
その前野氏の系図によると、桓武天皇から始まり、良峯朝臣安世ーーー前から記事にしている「原高成」-「原高春」となっている。
其の高成の兄弟を見ていただきたい。

高春・高義・高長・高弘と四人の名前が挙がっており、その高長から前野氏につながっているのである。

今度はこのページの系図を見ると(前出の系図では前野氏一代から三代、その後省略されて十四代・十六代であった。)
十代から十七代が書かれている。 
http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no1.htm

さらに以下のページには、柏原家臣系譜 良峯姓佐々氏の系図にある人物が登場していた。「時綱」である。

http://www.homenews.jp/bukouyowa/bukouyowa_no3.htm

「前野氏2代宗長の叔母が平忠盛の側室に上がり、薩摩守忠度を産み由縁を求めて京都へ。2代宗長、3代宗安は、平忠盛、忠度の家臣となって北面の武士(京都御所の北面警護の武士)となり滝口の姓を許されて、養和・寿永の(1181~2)年、源氏と戦い平家が滅亡。京都に残り、承久の乱(1221)、鎌倉幕府と都の戦いでは都方に付き、尾張川(木曽川)で戦い再度敗れてしまった。

4代時綱の時、六波羅守護に願い出て許され、前野村に帰った。
文永5(1268)年、前野村に時綱、氏神天満宮(現天満社)、菩提寺蓮華寺を建立し、その後尾張大介職中島宣長の家臣となり、尾張北部で軍馬を育成する馬寮下司(馬を扱う役人)を仰せつかり、尾張の地で武門の基礎ができていきました。

応永4(1397)年、尾張国守、斯波武衛氏の守護代(代り)として、越前より初代織田伊勢守常松が、尾張下津城主(現稲沢市)に守護代として入府することになり、八代前野高康は、上郡十家に召し出され織田氏に仕え、その後岩倉城織田伊勢守敏広の家臣を経て代々仕えました。

13代宗康に至り岩倉城伊勢守信安の軍奉行(戦の指揮者)を務めましたが、永禄2(1559)年織田信長岩倉城を攻め落とした。これを浮野合戦(現一宮市)※注1、といいます。宗康は岩倉落城とともに前野村に蟄居しましたが、3人の子供、長男前野孫九郎宗吉(雄吉)と、次男前野将右衛門長康両名を織田信長に3男前野小兵衛勝長を佐々成政に預けて、戦には負けても生き残りを考えました。」

此の勝長は、柏原織田家臣系譜の佐々氏には見えてこない。
しかし、宗能と九里氏に入った某と直勝の三人が佐々成政に仕えている。
此の直勝が怪しいと思う。

宗能の母は佐々成政の姉であり、直勝は仕成政冒佐々氏賜肥後国益城郡とある。

前野氏なのだが、佐々氏を名乗ることとなっている。

此の直勝の系が「佐々宗淳」と繋がっている。という事は、この宗淳の実兄が九里修政の系なのである。
因みに宗淳の兄の宗明という。

宗明ー直賢ー直期ー修政(繁治)=九里八郎右衛門 となる。

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武功夜話 前野氏・吉田氏・小坂氏…

2020-09-20 | 佐々氏 バラバラ情報

江南市HPより
https://www.city.konan.lg.jp/kurashi/kankou/1004828/1004071/1004080.html

私も同じように感じました。
事の始まりは父の話を残したい!その思いがあってこそです。
本物なのか偽書なのか…を云々するよりも…私はその「残したい!」という思いを尊重します。

【武功夜話 3.前野氏の覚え書きとして「武功夜話」は残された】

===*===

前野氏と云えばどうしても思い出すのが此の本であり、きっと書いた人が聴き、感じた歴史なのだと思う。
作者の一人である吉田孫四郎雄翟(かつかね)は、キリシタンになった際に吉田と名を改めた…には驚いた。
父親の前野雄善が織田信雄に仕えていたという所が、九里氏とつながりそうではある。

「前野将右衛門は、前野氏十四代小坂氏を名乗った孫九郎の弟で、戦国時代に活躍した武将です。
蜂須賀小六とともに秀吉(籐吉郎)に仕えました。いつも小六と会い、小六を兄と慕い、義兄弟の契りを結ぶほどの気心の合った間柄でした。」とある様に、小坂を名乗った前野氏も居て蜂須賀小六の義兄弟。小坂孫九郎尉雄吉だろうか。

前野氏を調べて、更に佐々氏を調べていけば、何か見つかるような気がしてきた!
 

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前野氏(佐々氏)から九里氏に入った「九里六左衛門」天草で闘う。 他に九里加兵衛(嘉兵衛)・九里七右衛門・九里六兵衛・九里吉右衛門・九里吉左衛門

2020-09-19 | 佐々氏 バラバラ情報

九里氏が大集結していた天草の闘い。
この九里氏は佐々氏から養子に来てくれていた六左衛門とその息たちだろうか?



一揆軍攻撃に耐えた天然の要害
 富岡城は別名臥竜城と呼ばれ、慶長9年(1604年)天草統治の本拠地として肥前唐津の城主・寺沢志摩守広高によって築城されました。三方を海に囲まれ、一方だけが街に通じている天然の要害です。天草四郎が率いる一揆軍の2度にわたる猛攻撃にも落城せず、やむなく一揆軍は島原へと渡っていきました。

===*===

九里惣右衛門・九里源左衛門・九里孫左衛門 長岡藩
九里治兵衛(次兵衛)小松藩 徳島藩
九里三兵衛・ 三郎左衛門 置賜 米沢藩
九里五郎大夫・惣右衛門 長岡藩(もとは上野国大胡であったかもしれない)
九里六左衛門?
九里加兵衛・九里七郎右衛門 ?
九里八郎右衛門 大和宇陀松山藩・柏原藩
九里又九郎  大和郡山藩 
九里十左衛門・勘左衛門・覚右衛門 加賀藩 
九里弾右衛門 三重伊勢 桑名藩
九里庄兵衛  九州 東松浦史
九里小一郎  高崎藩
九里十左衛門 会津藩
九里武兵衛  津軽藩 

九里九郎右衛門 対馬藩の研究という冊子の中に名前あり

九里啓蔵 大田区史 加藤家文書・横溝家文書

九里平左衛門 京都

戦国時代以降となる。まだまだ存在していると思う。

六左衛門一家を調べていこうと思う。



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佐々成政

2019-01-04 | 佐々氏 バラバラ情報

佐々成政が豊臣秀吉から肥後国(現熊本県)の支配を認められたことを示す書状の写しが東京大史料編纂(へんさん)所で見つかった。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190104-00118805-kitanihon-l16
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佐々淳行様の御冥福をお祈りいたします。

2018-10-11 | 佐々氏 バラバラ情報

wikipediaには「戦国時代の武将・佐々成政、それより下って時代劇『水戸黄門』で知られる助さんのモデルとなった佐々宗淳の兄・佐々勝朗を祖先に持つ。祖父に西南戦争で西郷軍に与し、後に済々黌の創立や衆議院議員を務めた佐々友房がいる。 」とあり、九里氏と近い。

淳行様の著書で、佐々氏の歴史に関する本があったがカビの匂いがひどかったため炭と一緒に袋に入れてあったのを思い出した。

存在感の大きかった方だったので、とても残念です。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

                合掌


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