九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

佐久間氏 memo

2020-10-06 | 佐々氏 バラバラ情報

佐久間氏 コトバンクより
戦国時代から安土(あづち)桃山時代の武将。出羽介(でわのすけ)、右衛門尉(うえもんのじょう)。織田信長の老臣。

佐久間氏は安房(あわ)佐久間(千葉県安房郡鋸南(きょなん)町上・中・下の佐久間)から尾張(おわり)(愛知県)に移る。
のちその家は山崎城(名古屋市南区)と五器所(ごきそ)城(同昭和区)との2家に分かれた。信盛は山崎城主。1572年(元亀3)徳川家康の援軍として、遠江(とおとうみ)三方ヶ原(みかたがはら)(浜松市)で武田信玄(しんげん)と戦い惨敗。76年(天正4)以来、石山本願寺の攻囲に参戦したが、80年開城後、戦功のないことなどを問責され、高野山(こうやさん)に追放された。茶道にも造詣(ぞうけい)がある。[奥野高広]

===*===

安房の人であったとは、意外である。
信長の家臣のイメージが強く、尾張の人だとばかり思っていた。

千葉氏のHPの原氏にも佐久間氏が出てくる。佐久間九郎入道である。(原胤高の記事中)

http://chibasi.net/hara1.htm#tanetika1

佐久間氏と佐々氏もどこかしらつながりがあるそうである。
佐久間盛政「佐久間盛次の長男。母は柴田勝家の姉だが、異説もある。 弟に 柴田勝政(※勝安>柴田勝安)、保田安政、佐々勝之がいる。 」

そして、年代はまだ確かめていないが「佐々盛政(成宗)」がいる。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春日井郡 林村 小牧市 林地区

2020-10-01 | 佐々氏 バラバラ情報

またまたこちらの情報にお世話になります! たぶん、良峯姓のことを書かれていらっしゃった方と思われるのです。

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E5%B8%82%E6%9E%97%E3%80%80%E4%BD%99%E8%AA%9E%E5%8F%B3%E8%BF%91%E5%B0%86%E7%9B%A3%E3%81%AE%E7%A2%91%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

一番気になった箇所をコピーさせていただく。

上記の拙文をしたためた後で、「佐々成政関係資料集成」 浅野 清編著 平成2年刊行 新人物往来社 を目にいたしました。

             この編著者である浅野 清氏は、以下の資料等をつぶさに概観されたようです。
                   ・ 富山市史 諸家系譜纂 系図総覧所収 佐々系譜
                   ・ 北之聖廟縁起  ( 近江国余語庄七郷出自の盛政系図 )
                   ・ 姓氏家系大辞典 ( 菅原姓余語氏流 前項 尾張の佐々氏 )
                   ・ 信長公記
                   ・ 武功夜話

佐々成政の父としては、佐々木成宗か余語盛政の二人が、主に挙げられているという。二人は、名こそ違えど、同一人物であろうと考えられているようであります。

富山市史 諸家系譜纂 系図総覧所収 佐々系譜より

                                |ー 長盛 (三州 衣 城主)
                                |ー 盛種 (濃州 坂井兵庫養子 右近将監政尚)
                                |ー 成政 (菅原内蔵介 後 陸奥守)
                盛政ーーーーーーーーーーーーーー|ー 正之 (坂井久兵衛 三州 衣 城主)
                ( 余語右衛大夫菅原入道梅哲 )|ー 某   (坂井久三郎 三州 衣 城主)
                                |ー 女   (毛利河内守 室)

氏によれば、武功夜話の余語氏も井関に城を構えていた佐々木氏も同一人物とか。
この集団は、一人の指導者の下に纏(マト)まっていたが、尾張に入って来たのは、その一族及び婚籍関係を含めた同族だと考えてみえるようであります。
氏は、琵琶湖近くの余語から複数の有力者が来たのであろうと。
一人は、佐々木成宗、又は盛政と名乗った井関城・比良城関係者
又一人は、濃州 坂井家に養子した余語右近将監の一群で、坂井右近将監や尾張 林の余語氏。
他の一人は、後の三州の衣城主 余語正勝・久三郎等の一群

同上の佐々成政は、敗軍の将となった為、確かな記録は、少ないようで、あっても敵方の資料であり、敵方に有利になるように記録されていた故に、正確さがないという制約があるという。が、上記の氏の概観は、その最大公約数的な現時点での結論かと思えました。

===*===

江州中原氏であった九里氏。
江州中原氏には余語太夫がいた。
関係があるだろうか?




奥医師に余語古庵という人物がいたようである。(江戸時代)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飽浦信胤 に関する情報

2020-10-01 | 佐々氏 バラバラ情報

【紀行歴史遊学】 さんのページ 上・中・下 あり。
https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2008/12/post-1af7.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武功夜話 気になる登場人物memo (5)佐々氏 と 九里氏

2020-09-30 | 佐々氏 バラバラ情報

前回の系図に【赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!】さんの頁にあった系図をプラスしてみると、
前野勝長(又五郎)と佐々平左衛門の娘の息が「吉康」
その吉康の息に「宗能・某・直勝」がいる。

つまり、武功夜話の系図の後に続くのが赤丸米の方の出されている系図なのである。
ありがとうございます! 
ここが、まず佐々氏と九里氏の接点の一つとなる。






忠勝の続きではなかったようである。

吉康ー宗能・某・直勝

其の某の息は九里六左衛門・六蔵となって九州へ赴く。
七右衛門が「生一男」に当たるのであろうか。

六左衛門の弟に吉左衛門もいたようだ。

此の後、養子として「九里八郎右衛門修政」となった人物は某の弟だった直勝の系からである。

===*===

ここで、佐々盛政(余語左衛門大夫盛政)に関する情報がいくつか見つかったので記載しておきたい。菅原入道梅哲とも云う。

https://6245.teacup.com/kojimakousi/bbs/159

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E5%B8%82%E6%9E%97%E3%80%80%E4%BD%99%E8%AA%9E%E5%8F%B3%E8%BF%91%E5%B0%86%E7%9B%A3%E3%81%AE%E7%A2%91%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

https://star.ap.teacup.com/tensi/67.html

===*===

飽浦三郎左衛門尉信胤が登場するなんて、想像だにしなかった。。。
真実は小説より奇なりって、いう感じ。

そこと加地余語氏 佐々氏 佐久間氏 原氏 とつながっていくのだろうか。

以前佐々木哲氏のブログにもあった部分とも関連する。

「上記の源胤時(東郷左衛門)のことが佐々木哲学校のブログにあったのでご紹介したい。

まず備前守護となったのは信実の三男時秀(東郷氏)であり、信実がのちに次男実秀(大友二郎左兵衛尉)に相続させようとしたところ、幕府はその所領を没収してしまった。実秀は幕府に所領回復を愁訴している。そのあいだ大江広元の子孫長井泰重(因幡前司・備後守護)が備前守護を兼務した。備前守護職は実秀の孫長綱(小島太郎左衛門尉、筑前守)が東郷胤時(時秀の子左衛門尉)の女婿になることで、小島実綱・長綱父子に受け継がれて佐々木加地氏が回復した。こののち備前守護佐々木加地氏(小島氏)は太郎左衛門を通称とし、東郷胤時の子胤泰(十郎左衛門尉)は飽浦氏を名乗っている

佐々木盛綱
  ┃
 信實 安元二年生
  ┃
 時秀 正治元年正月生
  ┃
東郷胤時 嘉禎元年九月生
  |
飽浦胤泰 

この続きが以下に載っている。
飽浦高信 ー 飽浦信胤 となるようだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%BD%E6%B5%A6%E4%BF%A1%E8%83%A4


===*===
上記の情報には
「佐々木盛綱の子加地信実の八男氏綱が、上総国佐々庄に住み、佐々氏を称した。」ともある。

他にも、詳しい情報があり、私もこれからじっくりと読もうと思っている。

https://6245.teacup.com/kojimakousi/bbs/157

たぶん、我が系の九里と関係があるのだと思う。

もしも佐久間氏と佐々氏が同族というのならば、原胤高の記事に出ていた佐久間九郎左衛門入道も関係者かも知れない。
まだ知ったばかりで、これから調べていこうと思う。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武功夜話 気になる登場人物memo (4)佐々成政

2020-09-30 | 佐々氏 バラバラ情報

図書館から借りている「武功夜話」。二週間弱で返却するためにはこのテンポでは進んでいては終わらない!
前野氏・佐々氏・岡田氏周辺に限って気になる人物をmemoしていこうと思う。(佐々氏含む)

P.53から
加州牢人富樫宗兵衛尉覚えの事
富樫 宗兵衛 = 前野 宗兵衛 = 坪内 為定
為定 舎弟 = 玄蕃尉 坪内 勝定 = 室 生駒八郎右衛門家定の妹
前野五郎尉(又五郎) = 前野 忠勝 = 小次郎宗康 舎弟
孫九郎尉 小坂 雄吉 = 御舎弟 前野 勝長 
前野 勝長 = 小兵衛尉
佐々成政 娘聟 = 前野 兵衛尉 

天文十六年克己未年(1547年) 先祖前野小次郎尉宗康濃州因幡山隙入りの覚え
一、
青山与左衛門・新七郎
前野惣兵衛兄弟 = 坪内 為定・坪内 勝定
岩倉衆前野小次郎 = 宗康
佐々孫助
佐々蔵助 = 成政

松平党御退治の始末の事
一、
前野党
佐々蔵助成政
佐々隼人佐 = 佐々 政次
佐々孫助
佐々平左衛門
佐々与左衛門
前野小次郎尉宗康
前野孫九郎尉 = 小坂 雄吉
前野小兵衛尉 = 前野 勝長
前野長兵衛尉 = 前野 義高
前野又五郎尉 = 前野 忠勝


p.67
尾州岩倉御城の事
一、
先祖前野四郎兵衛尉 綱宗 = 右京
前野郷大神宮 前野右馬三郎時綱 社宮司
前野右馬入道 宗安
前野三郎時正 

===*===
少々戻る
p.57
御舎弟又五郎殿=前野忠勝
p.61
佐々党
p.73
江州余語住人 余語蔵人 = 成政

p.75
柏井衆 覚 南窓庵記写し
寛永 戌晦(十一年 1634年)

小坂孫九郎尉相随い候者 = 小坂 雄吉 初名 吉田千代太郎
前野小兵衛 = 勝長 (この人佐々内と成る)
前野長兵衛 = 義高
吉田喜左衛門 
厩四郎右衛門
前野喜左衛門尉 = 義康
平井久右衛門
前野新蔵
足立源三郎
丹羽源六尉

p.79
尾州比良佐々蔵助(成政)併せ 平左衛門の事
佐々蔵人 この人尾州春日部の井関という処に居城なり。長享の江州人以来なり。
佐々党、本姓は江州余語の流れ、織田治郎左衛門敏定公の江州甲賀山の御陣所に駆け付け候衆なり。
蔵人の世に至り、度重なる軍功あり、同郡の平なる処に領地を賜り、初め小田井藤左衛門尉(織田寛維)の旗下なり。
岩倉伊勢守(織田信安)、上四郡の小守護と成るに及び、佐々蔵助、隼人(政次)、孫助、岩倉付と相成るも、落去の後は上総介様付(信長)、当千の武者輩に候。
舎兄隼人正(佐々政次)、舎弟孫助相次いで討死、蔵助は男子相なきにより、同郡岩崎郷、丹羽勘助の子、平左衛門を猶子となすなり。平左衛門の妹御は、当家前野小次郎尉宗康の三男、小兵衛尉(前野 勝長)の室なり。
したがって小兵衛尉は佐々一門衆なり。
蔵助の先祖は、余語左衛門大夫盛政。
小坂孫四郎尉吉政
と尾州に入国は同年に候なり。

===*===
武功夜話の後ろについていた系図









コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武功夜話 気になる登場人物memo (3)

2020-09-27 | 佐々氏 バラバラ情報

巻一 
尾州稲木庄宮後村安井屋敷の覚え 南窓庵記併亀斎扣 寛永寅写(十五年 1638年)
亀斎 = 小坂雄善

一、
安井屋敷 蜂須賀小六罷り住しは天文の頃初めなり
東方前野境
安井弥兵衛 土岐郡土岐氏の被官人 其の源は甲斐武田の流れ 逸見冠者の由緒の家柄
承久 尾張川の合戦以後土岐氏の被官と成る 
先祖 小次郎尉長義の室は安井女


宮後村八幡社落成につき阿州より三家臣代参の事
一、付けたりの事 達禅扣(吉田雄翟)
社人は三輪氏取り持ち候 
この家蜂須賀氏に由緒あり
蜂須賀蓬庵殿安井屋敷にてご誕生 蓬庵 = 家政 =八幡社大旦那
阿州 蜂須賀蓬庵家政公 落成のみぎり 御重臣衆名代として差し遣わされ候
野々村
佐々勘兵衛 阿州へ御伴罷り候ゆえに候なり(宮後村寺三輪若狭の家より寺入り)
稲田九郎兵衛
前野兵太夫
前野伝左衛門 三人衆

今枝重右衛門
稲田九郎兵衛 = 岡田稙元(大炊介)の御嫡子
岡田大炊介殿 御内儀は当家先祖 小次郎尉宗康の女(尾州稲木庄寄木の産)
生駒右近 = 善長 =生駒家長(雲球殿)の御嫡子
善長 = 生駒因州(利豊)御舎兄
足立甚右衛門
前野清助門 = 野田清助
吉田与助 = 正直
岩田九郎助
(親)喜左衛門 = 前野義康
(兄)清助 = 前野義詮

一、付けたりの事 p.50
前野将右衛門尉 長康 = 但馬守 =孫九郎尉(小坂雄吉)の舎弟
長康の息女於たえ殿 = 前野兵庫(小助) 忠康 の御内室 
→ 藤堂伊賀守 高虎 親子共に洛北の岡田某の家に隠し置きなされ、御庇護なされ候 高虎と長康はご昵懇の間柄

長じて前野助左衛門 助左衛門の女は前の兵太夫の妻 四国讃州 生駒雅楽守(親正)へ元但馬守内ともども御召抱え一党中多数讃州に罷り居る

===*===



長康の弟にも「勝長」忠勝の息にも「勝長」がいる。そのために混乱しやすくなってしまっていると思う。
ここで出てくる「忠康」とは舞兵庫・舞野兵庫助ともよばれている。系図には現れていない。

長康は「坪内光景(実名)」ともいわれているそうで、妻が前野 長義の娘
長康の武功夜話上の父は前野 宗康となっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%BA%B7

藤堂が前野一家を隠し庇護するために訪れた「岡田某」とは、いったい誰のことだったのかを知りたい。
洛北と書かれていた。
これはもしや、岡田堅桃斎のことではないだろうか? (見桃斎とも書く。)
藤堂は近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)の江州中原氏の出である。




===*===

稲田植元 父:稲田貞祐(大炊助)、母:前野彦四郎 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83

稲田貞祐
父・貞祐は、清洲の織田信長と内通しているという讒言により信安の命によって天文22年(1553年)3月27日に切腹させられた。植元は9歳の頃に父の朋友であった蜂須賀正勝に預けられた。なお、貞祐には四男三女があり、長男・景元は父の後を追って同年3月29日に11歳で自殺。次男・景継は永禄元年(1558年)3月29日に伊勢国で戦死。四男・吉勝はのちに植元の養子となっている。

===*===

何処にも「岡田稙元(大炊介)」の名は出てこない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武功夜話 気になる登場人物memo (2)

2020-09-26 | 佐々氏 バラバラ情報

小折村生駒氏の事
一、
縁者 生駒蔵人家広
生駒 家宗(生国 大和 藤原氏末流) 河内生駒の産
前野右馬入道宗安・右馬三郎兵衛時綱 尾州柳橋郷(生駒氏住)に相頼み隠世 (承久・六波羅の詮議厳しく…)
生駒因州公 親八郎右衛門尉家長の三男
織田内府公 = 信長 
福島左衛門大夫 = 正則
名府源敬様 = 徳川義直
隼人殿 = 生駒利豊
性高院様 = 松平忠吉


信長公の室、生駒久昌庵の事
一、付けたりの事 達禅記(吉田雄翟かつかね)

生駒因州(利豊) 我が家(前野・吉田)とは昵懇の家
祖父孫九郎 = 小坂雄吉
生駒家長 = 雲球殿
奇妙様・於茶筅様・於徳様 = 信忠・信雄・徳姫
大伯父将右衛門尉 = 前野 長康

一、
兵法指南者 遊佐河内守(越中の牢人)
富樫 惣兵衛 = 為定 (加州の牢人)
蜂須賀小六 = 正勝(尾州の牢人)= 縁者
小六の舎弟分 前野小右衛門 = 前野 長康
森小一郎 = 正成 勢州河内中江
甚之丞 = 濃州 土田 甚助 = 生駒 親正
肥田孫左衛門
木藤吉 = 羽柴秀吉

一、
蜂須賀小六 = 彦右衛門 正勝

一、
某(それがし)の家
羽柴秀吉 旗下 秀吉公創業の無二の功臣
前野小右衛門長康 = 但馬国地頭 但馬守
前野 景定 = 出雲守 (関白秀次公 連座 改易)
伯父孫八郎 = 小坂 雄長 =助六郎  百姓となる


前野村森氏の事
一、
尾州丹羽郡稲木庄前野一門中 森氏あり 元は勢州中江の産
森式部 = 正久 中江に居住 北畠の家人
森小一郎 = 正久
前野五郎九郎 = 正義
小一郎、前野女を娶り 森勘解由(正利)・森甚之丞(正成)


春日部郡柏井、小坂氏の事
一、
尾州春日部柏井の地、織田信秀の頃より織田家御台地 祖父孫九郎 代官役 (吉田城)
後年、織田信雄の傳役
前野孫九郎 小坂を称す












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武功夜話 気になる登場人物memo (1)

2020-09-26 | 佐々氏 バラバラ情報

武功夜話 第一巻
先祖等武功夜話 巻一
武功夜話の事
一、
親助六尉 = 小坂 雄善
前野清助 = 前野 義詮
山の九郎兵衛 = 前野 行宗 
恵仙 = 孫四郎 = 吉田 雄翟(かつかね)

一、岐阜の事

一、織田備後守 信秀の事
岩倉殿 = 織田 信安
前野小次郎尉 宗康 = 右京
岩倉七兵衛様

一、
織田弾正忠 信秀 = 桃厳殿
織田伯厳 = 信康
織田伊勢守 = 信安 =七兵衛尉
清須大和守 = 織田 彦五郎
常円殿 = 前野 義詮 
前野小次郎兵衛尉 = 高康

尾州岩倉の事 家伝記併南窓庵記写
一、
織田 敏広
織田 常松 = 伊勢守
織田 広近 = 敏広弟
伊勢守弟 = 信康
大沢治郎左衛門 = 正秀
中島左衛門
小次郎兵衛尉長義 = 前野

尾州稲木庄前野郷九十五貫文由緒の事
一、
前野右馬三郎兵衛尉 = 前野 時綱 (中島左衛門尉被官のはじめの人…承久年中)伊勢大神宮御厨地
武衛様 = 斯波
常松御嫡子 与次郎 = 織田 敏広
前野左兵衛 = 前野 高康
右馬三郎時綱の子 = 佐兵衛尉時基 = その二男? 宗住 (僧)
時綱菩提寺 金光山蓮華寺 妙興寺の末
宗住 = 沙弥承念 = 右京
前野氏馬飼地を寄進 弘安四年 1281年
時基の子 四郎右衛門 = 宗義 =吉田氏の祖


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前野氏 と 原氏は 兄弟からの分かれであった。(5)尾治佐迷連 と 栗原連 栗原神社 … 津嶋神社近く memo

2020-09-24 | 佐々氏 バラバラ情報

昨夜いただいた情報 訓原神社(くにはら) ダイ新の右横
http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/kodai%20owari%20sikinai%20jinja.html








http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E6%9C%80%E6%96%B0%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%82%92%E5%90%AB%E3%82%80%E6%98%A5%E6%97%A5%E4%BA%95%E3%83%BB%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%A8%E3%80%80%E3%80%80%EF%BC%92.html


http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD%E3%80%80%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%A4%A7%E7%B8%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89%E9%A0%98%E3%80%80%E9%A0%98%E6%9C%89%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t187.pdf


memo
藤原憲朝(八条院判官代、駿河守、初代千秋氏(三河国設楽郡千秋))→藤原範俊(左馬助、大学助、源実朝近習)

藤原南家熱田大宮司家の一流。11世紀末,藤原季範(すえのり)が外祖父尾張員職より熱田大宮司職を譲与されて以後,同職は尾張氏より藤原氏の世襲へと移行,季範の子範忠,範信,範雅の子孫がこれを継承した。

このうち千秋氏は範信の子憲朝(本名有範,のち信綱と改名)が千秋を号したのに始まる。その号は三河国設楽郡の地名より発したと言われている。憲朝は八条院判官代であったほか鎌倉にも奉公したと伝えられ,将軍家知行国たる駿河の国守にも任ぜられた。

===*===

親鸞の父も有範だったような気がする。(日野氏で、皇太后宮大進)


桓武天皇の息良峯安世から 尾張「良峯・原氏」が始まり、桓武天皇の裔「長田氏」は致政が大矢を名乗り、致房が賀茂次郎を名乗り、長田氏へと続く。




此の安世の母親に注目すると「百済 永継(くだら の ながつぐ)」であり、藤原内麻呂の最初の妻で、後に桓武天皇の後宮で女官となり寵愛を得た事になっている。

藤原真夏(774年 - 830年)・ 藤原冬嗣(775年 - 826年)・良岑安世(785年 - 830年)は同母異父の兄弟であったことになる。

安世の妻は丹治氏であった。四男の宗貞(遍昭)が前野氏へと続く。

以下wikipediaによる
妻 丹治氏
三男:良岑清風(820-863)

生母不明の子女

長男:良岑木蓮(806-849)
次男:良岑良松(長松)(814-879)
四男:良岑宗貞(816-890) - 法名遍昭
男子:良岑高行
男子:良岑遠視
男子:良岑晨直(農直)
男子:良岑晨省(農省)
男子:良岑晨茂(農茂)
男子:良岑行振

遍昭は「花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。」とある。

私でさえも知っている歌があった。
「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
我が家の百人一首では「乙女」と大きく書かれていた。(北海道では木の札!)

出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇った。

息は素性。俗名は玄利
弟に玄理 改姓椋橋始住尾州 と柏原織田家臣系譜にある。

【 「良峰氏系図」(『続群書類従』巻174 所収)による。子孫を尾張国丹羽郡の良峰氏とするが、この氏は丹羽郡領家である椋橋宿禰であり、素性の俗名である玄利との名の相似から、桓武天皇裔の良峰氏を仮冒したものと考えられる(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会,1986年 による)。 】という意見もある。

素性は「仁明天皇の皇子常康親王が出家して雲林院を御所とした際、遍照・素性親子は出入りを許可されていた。親王薨去後は、遍照が雲林院の管理を任され、遍照入寂後も素性は雲林院に住まい、同院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られた。後に、大和の良因院に移った。宇多天皇の歌合にしばしば招かれ歌を詠んでいる。」


雲林院(うんりんいん[1]、うりんいん)は、京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭である。かつて天台宗の大寺院として知られた、平安時代の史跡でもある

大和国石上(現在の奈良県天理市)の良因院
http://sakuwa.com/p6.html
コメント (17)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前野氏 と 原氏は 兄弟からの分かれであった。(4)尾張国二宮 原氏・前野氏 前野氏系図(武家家伝さんのページ)思っていた形である!

2020-09-23 | 佐々氏 バラバラ情報

前野氏の先祖 良峯朝臣安世の末裔 原高成の息「高長」

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%9B%BD%E3%80%80%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E7%A4%BE%EF%BC%88%E5%A4%A7%E7%B8%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%89%E9%A0%98%E3%80%80%E9%A0%98%E6%9C%89%E8%80%85%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6.html

その後、九条兼実(平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。従一位・摂政・関白・太政大臣。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれる。 五摂家の一つ、九条家の祖。1149年に出生。・・筆者注)が領有し、子 良経カに伝領されたかと。
         { 建保3(1215)年8月 後鳥羽院庁下文の内容から知る事が出来ました。犬山市史 史料編3 参照 }

前野氏の祖でもある良峯高長が宮司を務めていたであろう(?)尾張二宮 大縣神社 
九条兼実(良経もカ)の所領となっていたようである。

前野氏の系図は武家家伝さんのものが、私が思っている形になる。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/maeno_k.html




これならば、忠勝―勝長ー直勝となり、満足。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする