九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

源光行の周辺 (4)南部氏と蒲生氏 そして蒲生氏と小倉氏の結びつき

2024-11-15 | 九里バラバラ情報
南部氏と蒲生氏に関して

もう一つの情報が入ってきた。
前回、南部重直の母が蒲生氏郷の妹とあったが、氏郷の妹に小倉行春の室とあった。(wikipedia)






蒲生賢秀の息であった氏郷。
氏郷の母は、後藤賢豊の妹であったそうだ。

小倉実隆と兄弟でもあった父賢秀
まだまだ知らないことがありそうなので、調べてみようと思う。

九里浄椿は、小倉実隆の父という説もある小倉実澄のもとで文化的なことを学びつつ、共に暮らしていた時期があるという本もある。




小倉氏

1506年に実澄は歿している。


行春は小倉西家の秀実の息となっているであるようだ。(行春の娘は蒲生賢秀の室である。)

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源光行の周辺 (3) 甲斐源氏の【南部光行】の息 行朝からつづく野田氏

2024-11-14 | 九里バラバラ情報
当ブログ内の【南部】を検索してみると、野田氏、三上氏(佐々木氏含)、蒲生氏との関係があることが分かってきた。








さらに、近世こもんじょ館のHPより、重要な情報を得た。↓
蒲生氏郷の妹が南部重直の母となっていたことが分かった。
この女性は、実は小倉作左衛門行隆の女でもあるという。



考えると、新羅三郎の裔という事でつながっているのかもしれない。
新たな、つながりが見えてきた。
しかも、近江国のメンバーがいるあたりも希望の光ではないだろうか。

当ブログの検索ワードの「野田」と入れるとそのつながりが見えてくる!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源光行の周辺 (2) 甲斐源氏の【南部光行】(信濃三郎光行) 1165年生まれ

2024-11-11 | 九里バラバラ情報
源光行は、まだ他にも存在する。
加賀美氏から南部氏となった【南部光行】である。
此の人の息実長が波木井氏となり、日蓮の支援者、そして弟子であった。

wikipediaより実長と日蓮の関係を写すと以下のようであった。
「文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。文永11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡国から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。」

この源光行の妹に大弐局がいる。
富木常忍の母下総局とともに、頼家・実朝の介添え人・乳母・養育係となっていた人物でもあるか?
また、此の大弐局は大井朝光とのつながりも密である。
そして大井朝光の母は上総広常の娘である。

更に大井朝光の娘は出雲源氏の佐々木泰清の妻となっている。
隠岐時清の母である。
更に時清の妻は大曽根長経の娘で、長経の父は安達長泰である。

こちらの源・南部光行は富木常忍の周辺に近いような気もする。


 






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源光行の周辺 (1)

2024-11-02 | 九里バラバラ情報
以前書いた記事より



多氏と[源光遠などの満政流の繋がり]
舎人親王の下で日本書紀の編纂に携わっていた
太安万侶の父と言われている多品治が天武天皇と関りがあり、
系図では天武天皇の裔とされる江州中原氏にどこか接点がありそうなのである。

まず、源光行の周辺を調べようと思う。

下記の記事によると

    * 満政の曾孫 重宗(中央政府 右兵衛尉という官職についている。)は、佐渡源太とも八島冠者とも名乗り、安八郡、方県郡、本巣郡に勢力を張り、その子孫は、”山田、葦敷(あじき)”、生津(なまづ)、小河高田、鏡、白川、小島、木田、開田の諸氏にわかれている。( 詳しくは、多治見市史 通史編 上 昭和55年 刊 参照 )

尚、重宗流源氏の略系図が、瀬戸市史 通史編 上 平成15年 刊 P、90にありますのであわせて参照されたい。*

2.重宗流源氏についての概略 ( 以下の文は、瀬戸市史 通史編 上の要約であります。)
重宗には、重実・重長・重高・重時・重親という子がおり、はっきりするのは、重時で、白河上皇に使え”検非違使”として警察能力を発揮した事。
重実は、鳥羽院武者所と言われ、美濃国河辺郡での狩猟が伝えられると。
重長は、美濃国木田郷に居住し、木田三郎とも名乗っていた。

その後重実の子 重成は、鳥羽院のもとで活躍。
重実の子 重貞は、保元の乱(1156年)の時、後白河天皇方で戦功をあげている。

重実の長子 重遠は、美濃国を生国として、尾張国浦野へ進出し、居住。浦野を名乗ったのでありましょう。この浦野は、尾張国のどこであるかは不明。(一説では、春日井郡浦野邑という方もありますが、どのような資料から言われているかは不明・・・私の注)ですが、重遠は、12世紀はじめ頃には、尾張国へ進出したのでしょう。

その後重遠の子 重直は、尾張国河辺荘に住み、山田氏を名乗ったという。

* 参考までに、小牧市史・春日井市史等の記述を列記します。
尾張の歴史 展示解説Ⅱ 中世 名古屋市博物館 P.14 尾張の荘園・国衙領の分布図では、山田荘は、現 小牧、春日井であるような記述であった。

・・・・と気になる情報が載っている。

さて、此の浦野氏となる重直の系と柏原藩にいた【岡田氏】とが繋がっている。
浦野氏ー山田氏ー岡田氏と変遷し、九里政敬として九里に養子として入り、その孫が私の高祖父の養父である。
高祖父の父(九里文之丞)は、同藩の(明治時代になってからだが)大井氏より養子を迎え、米穀商を営み、人生後半に釧路へと11月にやってきて、翌年の一月に亡くなってしまうのである。

*****

さて、Wikipediaの源光行の系図によると二系あり、
  • 源経基 - 源満政 - 源忠重 - 源定宗 - 源重宗 - 源重時 = 源季遠 - 源光季 - 源光行 - 源親行 (正木喜三郎説)
  • 源経基 - 源満仲 - 源頼信 - 源頼義 - 源義家 - 源義忠 - 源忠宗 - 源季遠 - 源光季 - 源光行 - 源親行 (奥富敬之説)
此の光季は、光遠と改めている。




満仲の息
源頼光は大江山の酒天童子を退治したことで有名だが、その場所は、九里太郎経久(沙弥蓮忍)の荘園であった河守荘とほぼ同じ場所である。

源頼信は1019年に石見守となっていて、その石見守の許で働いていた久利氏がいる。さらに、母親が藻原の開拓領主であった藤原黒麻呂の系の元方、または、その息である致忠の娘となるのである。

他に何カ所にも接点が見られるのである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

源季貞の兄弟光季の息であった【源光行】 

2024-10-24 | 九里バラバラ情報
源季貞(飯富季貞)の兄弟【源季光】その季光の息が【源光行】なのだそうだ。

【 平家物語と源光行】第1巻 に光行の系譜があった。
それによると、

清和源氏満政流
満政ー忠重ー定宗(大懸)ー重宗ー重実・重時他ー季遠(養子)(若狭住人)ー光遠(養子・改め光季)ー光行ー親行他・建礼門院美濃



二代にわたり、養子が続いている。
しかし、大懸というキーワードが出てきた。
関係があるかどうかは不明であるが、上総介広常の妹か娘かと婚姻関係のある原氏大懸神社の宮司であったと思う。

さらに、千葉氏の執事的な役割を持っていた法橋長専や常忍のすぐ近くに光行がいたかもしれないのだ。

闘諍録という平家物語の異本があるそうで、源光行も関わっていたかもしれないという。

三善康信(1140年生)と源光行も、年齢は18歳違うが同じ時代を生きていた。ともに京から鎌倉へやってきた仲間である。鴨長明とも親しかったそうだ。

源光行は1163年生まれという。もしも、もしも、だが、土岐光行ではなく、この源氏物語の研究者であった源光行が常忍の父であったならば53歳の時に生まれた5男であった・・・・となるのだろうか?

調べていくと、どんどん今まで知らなかった情報が集まってきた。
もっと調べ、まとまってから記事にしたいと思う。
法名は「寂因」であったそうだ。(1235年歿か?)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松田中左衛門尉 と その娘【京極局】 (1)河村秀高

2024-10-15 | 九里バラバラ情報






松田義常の母である中河辺清兼の娘。其の姉妹が源朝長の母であり、中原久経の母である…との説で、今まで調べてきたが、ふと、義常の母の義理の姉妹に当たる女性もいたのではないかと思い、調べてみることにした。

義通の妻が中河辺清兼として、河村秀高の妻は義理の姉妹にはならないのだろうか?

秀高の妻は松田中左衛門尉の娘で、源頼朝の女官を務めた京極局であった。
此の松田のあとの【中】は中原氏の中ではないのだろうか?


コトバンクより
河村義秀

生年:生没年不詳
鎌倉前期の武士。相模国の住人。藤原秀郷の子孫,波多野氏の一族。秀高の子。治承4(1180)年,源頼朝の石橋山挙兵の際,平家方に属し頼朝軍と戦い,のち捕らわれて大庭景能の許に預けられた。斬罪になるところを景能の計らいで死を免れた。建久1(1190)年8月の鶴岡八幡宮放生会の際,景能の進言で流鏑馬射手に召し出され,三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き,頼朝より罪を許された。9月には本領河村郷(神奈川県山北町)を安堵され,以後御家人として活躍。頼朝の2度の上洛や曾我兄弟の仇討ちで有名な富士野巻狩りにも随行。承久3(1221)年の承久の乱では,幕府軍に属して軍功を挙げた。
(澤野泉)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臼井常康 と 臼井親常 そして 匝瑳常成 と 匝瑳常広

2024-10-07 | 九里バラバラ情報
山田町史 千葉氏略系図より


上記の系図によると
臼井六郎常康上総介・下総権介常兼の息であり、下総権介常重の弟と見える。
臼井十郎親常…上総権介常隆の息であり、上総権介広常の弟と見える。
臼井親常と金田頼次は兄弟である。(上総権介広常とも兄弟)
頼次は三浦義澄の娘聟であった。

上の系図では、匝瑳八郎常広は見えるが、匝瑳常成は見えない。

幸いなことに野栄町史に以下の系図があった。
常澄(青いポイント)の下に常成がみえる。匝瑳三郎とある。



常兼の息に匝瑳八郎常広がいて、
常兼の弟の相馬五郎常晴の孫に匝瑳三郎常成がいることになる。

よく見ると、疑問が湧く。
匝瑳氏の系図では、常成の弟に広常がいる。
つまり父は『常澄』
ところが、一番上の上総氏の系図では広常の父は常隆である。

  

どちらが正しいのかは、わからないままということのようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

香取郡白井郷の白井胤時 白井氏から鏑木氏へ  その鏑木氏へ 金田成常の子、胤泰 ⇒ 伯父鏑木胤定の養子となり家督を継ぎ鏑木胤泰となる

2024-10-05 | 九里バラバラ情報

白井鏑木氏

鏑木城は、下総の名族千葉氏の庶流鏑木氏の居城である。鏑木氏は、千葉常胤の孫胤時の子九郎胤定が下総国鏑木郷に分封されて鏑木氏を称したことに始まる。原氏・円城寺氏・木内氏と共に「千葉四天王」と称される。


 鏑木城は、比高40m程の台地上に築かれた城である。城の南は現在は一面の水田となっているが、中世の頃には椿海と呼ばれる広大な内海があった。

香取郡誌
↓ 文永十年 1273年



そして宝治合戦。
再びここに舞い戻ってきた。
確か稲毛十郎と深江平朝澄の時である。


上記の第二章 鎌倉時代の上総金田氏 その二 も言及しているように、まるで討伐を知っていたかのように、用意されていた感がある。

あの、肥前国高来郡の深江の譲り渡しの文書もそうであったように‥‥
何処かに違和感を感じるのだ。

そして上総・下総にも「原氏」が見え、肥前の深江の「原城」がみえる。
共に上総介との関係のある「原氏」なのではあるまいか。

白井氏と臼井氏 文字が似ているため混乱してしまうのだが、臼井氏は後に原胤定に乗っ取られてしまい、其の原氏から胤信(ジョアン原主水)が出るのだ、何だか近いような気もするのである。(場所も臼井と白井は隣である。)

さて、此処を間違いのないように進めないと‥‥

鏑木氏の居城のあった現在の旭市と椿海を挟んで反対側に匝瑳があった。
[荘園名]匝瑳 ... 椿海の東端に位置す …とある。(匝瑳庄)



新たに気にかかっているのが匝瑳氏である。
此の一族は、熊野と縁が深く湯浅氏とも養子縁組でつながりがあるのである。
しかも場所は九十九里の浜に面している。


匝瑳常広の子息宗光が紀伊国在田郡湯浅残党の湯浅宗重の養子と記されている



更に金田頼次は、三浦義澄の娘婿であった事がわかり、三浦半島の佐原城跡
より15キロほどのところに金田港がある。こちらは久里浜で、やはり久里や九里という文字がある。
娘婿の金田頼次に譲った領地だったのではないだろうか?

木更津にも金田があり、三浦半島の金田港と行き来をしていたのではないだろうか?(全くの仮想)

鏑木氏と金田氏
金田氏と三浦・佐原氏
匝瑳氏と湯浅氏
湯浅氏と紀伊国
・・・とつながる。
そして熊野本宮!

九里氏の始まりは藤原秀郷流の一員であり近江国の中原氏の息となった人物(久経)であったろうと思っているのだが、その後は、千葉氏とも、三浦氏とも関係があったかもしれないと思っている。

匝瑳氏のように匝瑳南条荘が熊野宮の領地であったこと、
匝瑳氏から湯浅氏となった人物がいたことから、九里氏も熊野本宮とつながりを持つに至ったのではないだろうか?
その系が和歌山の系図のある九里氏となったのではないだろうか?

そして、柏原藩の九里の系も元を遡ると、藤原秀郷流と近江国中原氏であったと思うが、上総介広常の周辺である原高春・前野氏と関係があったように思う。
という事は、鏑木氏や金田氏とも関係してくるのではないだろうか?

しかし、
『臼井氏と匝瑳氏とは千葉常胤の叔父臼井常康・匝瑳常廣を初代とする一族。上総広常の兄弟臼井親常・匝瑳常成とどのような関係なのか不明である。』・・・とある。
 
さらに、近江の金田庄にいた九里氏は、下総・上総・三浦半島の金田氏ともつながりを持っていたのではないだろうか?

此の東国と近江国のつながりは、藤原秀郷の時代から続いていたのではないだろうか?

今後の課題としては、湯浅宗重と匝瑳常廣の息宗光
臼井常康と親常
匝瑳常廣と常成




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下総国香取郡小見川町 上小堀・下下小堀 (2) 木内荘は二位大納言領 粟飯原氏は上小堀の一部を領す

2024-09-29 | 九里バラバラ情報
気にかかっていることをメモしていこう。

木内荘、その中に上小堀。
では、下小堀も木内荘内となるのであろうか?
浄福寺がある場所のようである。
二位大納言領とあり、藤原隆房のこととある。

下小堀もまた木内荘のようである。

小見川城には粟飯原氏
そして片岡氏の佐貫城近くには、鏑木城があり鏑木氏がいた。
この子孫が後に金田氏となっていく。

また、明智光秀を調べていた際にその時代の【淡海温故録】に白井氏が出てきたことがあった。

これも関係してくるかもしれないので、頭の片隅に残しておこうと思う。








上総国の金田保 
金田頼次 上総広常の弟である。
上総国長柄郡金田郷(現・千葉県長生村金田)の領主

広常の娘(妹説もあるが)に良岑高成室がいる。

良岑高成

前野家に通じている。

さらに前野高長の姉妹に忠盛の室=忠度の母がいる。
忠度に熊野別当湛快の娘が嫁いでいる。
ここで、上総広常、良岑高成、原高春、前野高長、平忠度、熊野別当家とつながる。

金田頼次の周辺でもある。

この「金田」と九里の居た近江国金田庄

近江国の金田庄

菖蒲氏(波多野氏)、菖蒲金田家(佐々木氏)もある。

下総国(後に上総国)と近江とは、佐々木氏と関係がありそうなのである。
千葉介平成胤の母は上総介平広常の娘であった事。
胤正の五女が佐々木盛秀の妻となっていること。(佐々木盛綱の息盛秀
盛季のことと思うが…)
この辺り、すこしでも解明できれば嬉しいのだが。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小堀五郎と九里小五郎から予測してみよう!(2) 佐野氏・小山氏

2024-09-09 | 九里バラバラ情報
1280年前後~1300年前後生まれ、と思われる小堀五郎と九里小五郎兄弟。
このころには、まだ系図上には「熊野」という文字は見えず、
助恒に『六角・道誉 元弘・建武 袖切』とあることから、(小堀は後述)、九里は近江にいたと思われる。活動期は1331-1336年であったようだ。



九里は京極の祖となった佐々木氏信の四男と言われた宗綱と関係があったのではないだろうか?
なぜならば、一説では、佐々木宗綱の妻は野尻時光の娘で、野尻時光=波多野義重の息である‥‥というのだ。
このあたりで、佐々木氏と波多野氏との接点ができている。
更に京極氏のテリトリー内に小堀氏が住んでいたように思う

京極氏遺跡群


赤い矢印 が 小堀町



小堀の祖は秀郷流の佐野氏という説と系図があるが、私は小山氏もまた関係があるような気がしていて、佐野氏と小山氏の両氏と関係があったのではないかと思う。小山氏と共に熊野にやってきたのではないだろうか?
それは、家臣としてかもしれない。

その辺りを調べている。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする