九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原久経の母が中原範兼の娘として…実の父は? 

2022-01-12 | 九里【まとめ】

吾妻鑑

10月17日 丙申
  波多野右馬の允義常を誅せんが為、軍士を遣わさるの処、義常この事を聞き、彼の討
  手下河邊庄司行平等未到の以前、松田郷に於いて自殺す。子息有常は、景義の許に在
  り。この殃いを遁る。

義常姨母は、中宮大夫の進朝長母儀(典膳大夫久経が子たり)。
仍って父義通妹公の好に就いて、始めて左典厩に候すの処、不和の儀有り。

去る保元三年春の比、俄に洛陽を辞し、波多野郷に居住すと。

[玉葉]
  伝聞、追討使遠江の国に於いて、彼の国の住人の為射危せらると。後聞謬説と。
  

典膳大夫中原久経の養女(吾妻鏡・治承四年( 10 )十月十七日条)。

波多野氏の所領、相模国松田郷(神奈川県足柄上郡松田町)に邸宅があった(同・同月十八日条)。母の義父久経は義朝に仕えて功あり、文筆に携わったという(同・元暦二年(一二五)二月五日条)。

 

以上はweb情報とgooglebooksからのものだが、

 

波多野義常のwikipediaを見ると「中河辺清兼娘」とある。上の【養女】は間違えているのではないだろうか?

 

松田義常の母は、久経の養女であったという事なのだろうか?

そう、ではなく義常の母は、久経の母と姉妹であり、義常の叔母が久経の母であったと思う。

義常と久経は従兄弟である。年も同じくらいであったと思う。

で、久経の母が嫁いだのは【菖蒲実経】であったのではあるまいか?

中原の系というのは祖父を踏襲したものであり、母が再嫁した相手は【菖蒲実経】=【紀実経】【長田実経】であったように思うのだ。あるいは、大友経家か?

 

私は、今まで調べてきて【菖蒲実経】のように思う。

石見国にも菖蒲氏が入っていて、その辺りから石見国の久利氏とも繋がる要因はあったように思う。

次回この辺りを詳しく書いてみようと思う。

久利と九里が繋がってきた。

 

 

 

https://ameblo.jp/macross-vf1j/entry-12242404304.html

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しんごん 親厳 

2022-01-09 | 九里【まとめ】

周囲を見ることで、より大江=中原一族の中のメンバーであった事に自信がついてきた。笑

 

そして、大江氏は村上源氏とも関係している。

まず法橋昌明も祖は村上源氏と云われている。

大江広元の息親広の養父は村上源氏久我流 源通親であり、親広の妻であった北条義時の娘 

竹殿を源通親の息土御門定通に渡してしまうのである。

 

更に平安時代になるが、近江国佐佐木庄の領主であった源有仁の配下にも村上源氏の者たちがいた。

源有仁の母も源師忠の娘であり(輔仁親王室)、村上源氏である。

https://geocity1.com/okugesan_com/minamoto3.htm

 

しんごん 「親厳」をこのように読むようである。

この方のweb情報(googlebooksより)

しんごん[親厳] [越後大僧正・随心院大僧正・唐橋大僧正] 1151 (仁平元) ~ 1236 (嘉偵 2.11.2 ) [ 86 ]高京都の人。唐橋飛騨守中原親光の息。初,尊念僧都に密教を学び, 1181 (養和元) ,法住寺で顕厳から伝法灌頂を受け,伽を研修し,最も法験に秀れ・・・

 

飛騨守中原親光息」とあり、隨心院大僧正、唐橋大僧正と称せられ、東寺長者、東大寺別当に補せられた。その義父の廣季は博士、廣季の子廣元は明経博士であり、博士家の一である中原家と血縁ある人であった。嚴瑜は「傳法灌頂師資相承血脈」によると

 

寛喜四年1232、三月十七日は親厳が宮中で如法愛染法を修した日です。
親厳は越後大僧正・隋心院大僧正・唐橋大僧正といわれ仁平元年1151年生まれ1236嘉禎二年十一月二日に八十六歳で遷化。平安後期-鎌倉時代の僧。唐橋飛騨守中原親光の息。尊念にまなび,法住寺で顕厳から伝法灌頂をうける。瑜伽を研修。法験にすぐれ神泉苑に祈雨すること数度。天変の御祈、中宮安産修法も務める。東寺長者・京都小野随心院初代門跡・東大寺別当。

 

此処に唐橋と出てくるが、広橋となっている物もある。

唐橋氏は1200年代からなので、もしかするとより古い「広橋」の方かもしれない。

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九里(久里)双水古墳、九十九里、九里八丁、九里尻、、、

2021-10-03 | 九里【まとめ】

父が退院延期となり、少々気分的にもゆったり。

さて、以前から気になっていた[九里]の付いている地名。

なぜ九里と言う名がついている場所に九里が居るのだろうか?

繋がりが、有るのか、無いのか、

卵が先か、ニワトリが先か、問題になってしまうが、

地名が先で九里を名乗ったか、九里が居て地名に九里を付けたか、

九つの里があったからなのか?

九里という測量の単位だったのか?

木の実の栗からきているのか?

 

九と里、久と里、久と利、と、栗

 

では、我が家の[クノリ]は、ノが入っているから、また別流か?

久徳氏も[きゅうとく]と読ませているが、私は、佐々木京極家に仕えた[九里]のことだと思う。

佐々木六角家に仕えた方は、そのまま九里であったので、違いがわかる様に替えたように思う。

 

栗は、天皇に献上されたり、食された木の実であり、鹿島神宮にも使われた材木でもあり、かなり身近ながら役に立つ樹木であった。

しかし、もし栗から九里ならば、もっとたくさん九里さんが居てもおかしくないのでは?と思う。

 

九の文字には、長く続く、と言う意味が含まれている様で、ひょろ長く続くイメージが湧く。

それは、久もまた、長く続くイメージで共通である。

となると、地形が先で、後にそこに住んだ為に九里となった可能性が高いのではないだろうか。

つまり、地形からの説では同じ一族ではないかもしれない。各地の九里族となる・・・・?

 

私が今まで探していた九里は、

近江と鎌倉•上総など東国に繋がる一族と、

九州と出雲に繋がる一族の二流がいた様に思う。

和歌山の九里も、系図の註にあるように近江と関係が深く、つまり東国と繋がっていたと思う。

 

ところが、出雲の久利 は清原氏と結び付いていて、近江九里は中原氏に結び付いていた、のである。

ということは簡単には別の氏族とは言い切れない。

そこから考えると、二流はもともとは、同じ氏族の可能性があるのでは、と言う説になる。

 

では、地形ではなく、クリと言う言葉自体に意味があったのではないだろうか?

クリは御厨のミクリのクリだったのだろうか?

 

***?***

 

という時に、まさかの丸御厨に関する情報が入ってきたのである。

 

上総に丸御厨があり、丸は和珥族のことのようである。

そこにいた人物「丸五郎信俊」が吾妻鑑にその名が残っているのであるが、

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%B8%E4%BA%94%E9%83%8E%E4%BF%A1%E4%BF%8A-1420867

「旧朝夷郡の丸山川流域にひろがる丸御厨は,古代豪族丸氏の根拠地であり,1180年(治承4)源頼朝がこの地を巡見したとき丸五郎信俊が案内者として随行した(《吾妻鏡》)。この地は源頼義が奥羽遠征のとき恩賞として与えられ,1159年(平治1)伊勢神宮に寄進したものである。」とある。その前に平久里川という川の名も載っている。「へくり」「へぐり」、だろうか?

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%BE%A1%E5%8E%A8

源頼義に仕えていた人物というので、多賀氏にも通じる。

丸氏は今まで全く注目していなかった。

 

丸本郷、という名も見える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%BE%A1%E5%8E%A8

 

丸御厨の場所

 

一宮から九十九里が広がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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下河辺行秀 = 智定房(坊) 

2021-04-07 | 九里【まとめ】
天福元年 1233 智定坊熊野那智浦より渡海 吾妻鏡・観音冥応集・北条九代記・和漢三才図会

下河辺行秀 = 智定房(坊)

こちらの講演会のレポートの5ページに書かれていて、興味深いものがあった。以前ブラタモリでも補陀落渡海を取材?していたと思う。

 

【南方往生の企て― 補陀落渡海の諸相】 根井 浄 著

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30141/kbb09-02nei.pdf

 

下河辺家は代々「弓術の家」であったようである。

更に面白かったのは、弓馬の友が「北条泰時」という箇所である。

 

早熟で堅物のイメージの泰時にも友人がいた!よかった~!

北条泰時は九里にとっても大事な時期の執権であったと思う。

ちょうど大きな族であった中原氏から独立しつつ、違う氏となっていく過程である。

中原太郎経久は九里の祖と系図の註に書かれているが、実際は、遡るとこの人物が祖だよね?という事なのではないだろうか? 

 

確信は持てないのだが、やはり上総の常衡の息か孫の片岡常春の弟となった為春(または弘経)の息の片岡太郎経久だったのではないか?

そこが、始まりのように思えてならない。

 

片岡氏は確かに大和国出身だったが、ある時に上総に来たのである。

更に上野国に所領もあるという。

大中臣秋家が中原秋家であったように、この片岡も大中臣氏の一部で、やはり中原氏であったのではないだろうか?

 

片岡氏に関しては、まだ続きがあります!

 

 

 

 

 

 

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1525年より前の九里書き出しを再考してみました!

2021-03-27 | 九里【まとめ】

上記はある時に書き出したものだが、間違いもある。

間違いを訂正しつつ、今回気が付いたことを書き留めておこうと思う。

間違い*14行目 九里三郎左衛門高雄 永源寺殿ともいわれ…は疑問。

間違い*16行目 九里伊賀守(高雄か?伊賀守刑部少輔… は高雄ではなく、浄椿のこと。翰林故處集

間違い*23行目 九里員秀は源員定の子か孫…ではなく、子孫かもしれない。 約200年ほど間がある。

間違い*25行目 九里信隆は員秀の子…は微妙である。養子ならばありえそうであるが。保留

間違い*30行目 九里三重郎は玉松。は、…微妙である。水茎岡山城に残っていた方の子どもなのではないだろうか?

間違い*36行目 九里宗恩と宗忍は別人… 浄椿が宗忍 小袖を足利義晴に返還している だが、本には宗恩も使われているので、ほんとうは? 津田庄にいた人物は宗恩なので、兄弟かもしれない。

===*===

今まで忘れていた人物

 

水茎岡山城を始めた『九里対馬守』のことが、八日市市史よりの情報だったようだが他にはそのようには見えず、

水茎岡山城が崩れた後の事なのではないだろうか?

 

その後ならば、一番早いもので、後法成寺関白記・享禄元(1528)に「九里源兵衛」の活躍が見える!(その後は、鹿苑日録・天文日記にも登場。)

「『後法成寺関白記』享禄元(1528)年7月3日条に「九里源兵衛が堺に下向するので、近衛尚通が近衛家領のことを源兵衛に申し付ける」という記述がある。」とのことなので、

 

こちらの九里源兵衛のことではないかと思う。この人物も対馬守である。九里対馬守源兵衛 である。         

1525年以降は、この源兵衛から、九里の活躍が始まっているように見える。

九里但馬は、1564年の相良家文書に出ているので、年代的には源兵衛の息の世代であろうと思う。

 

 

 

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後深心院関白記 下家司中原氏春 近衛家下家司

2021-03-25 | 九里【まとめ】
氏春、中原 貞治1年4月27日 後深心院関白記 2 192 家司中原氏春、近衛家下家司

 

 

 

 

中原氏春、近衛家の下家司 後に左衛門少尉

1362年のことである。

このあたりと、九里氏とのつながりとが関係してくるようである。

【後深心院関白記】とは?

南北朝時代北朝の公家近衛道嗣の日記だそうである。

 

一条家では三左衛門事件で失敗し、以来は、近衛家の家司という役目に就くようになっていたのかもしれない。

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山内政綱の内の者、と書かれていた九里

2021-03-23 | 九里【まとめ】

山内政綱の息である就綱は、明応2年(1493年)4月の明応の政変時に足利義澄により六角氏惣領に任じられている[1]新谷和之『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』p.13

===*===

山内政綱が歿する以前のこと、「九里は豊浦庄代官を所望」していた。(延徳三年14917月)

この山内氏のもとにいた時代が、九里氏が大きく発展した時代だったのかもしれない。

もっと詳しく山内氏のことを調べてみようと思う。

 

 

佐々木哲氏のメルマガより、気になる部分をコピーさせていただこうと思う。(私が付け加えた部分は青色)

沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、近江守護佐々木六角時信に始まる六角氏庶流に、次子四郎左衛門尉直綱から始まる愛智・鳥羽氏(愛智直綱―鳥羽五郎左衛門尉高信―五郎左衛門尉高頼)、三子五郎左衛門尉信詮(定詮)から始まる山内氏(信詮―二郎左衛門尉義重―三郎左衛門尉義綱)、末子六郎左衛門尉光綱から始まる森氏がある。

 六角氏頼の次弟四郎直綱は、足利尊氏・義詮父子と足利直義・直冬父子が対立した観応の擾乱で、足利直義派の近江守護に補任されたが没落した。

それに対して三弟五郎信詮(定詮)が兄氏頼を補佐して又守護となり、さらに氏頼の嫡子義信を後見して守護を預かり、六角氏一門として惣領六角氏を支えた。信詮の跡は二郎左衛門尉義重―三郎左衛門尉義綱と続き、義綱は相国寺供養で六角満高(氏頼養子)とともに列している。(山内義綱となる)

***

 しかし義綱以後の山内氏の系譜は未詳であり、尊卑文脈では義綱の弟に備中守詮綱を記し、沙沙貴神社本では義綱の子に左馬助教重を記す。また『応仁記』では新左衛門尉入道勝綱を記しており、記録にあらわれる宮内大輔政綱―小三郎就綱と続くと推定される。そうであれば、信詮―義重―義綱―左馬助教重(備中守詮綱)―勝綱―政綱―就綱と考えられる。

 記録であらわれる山内政綱(宮内大輔)は、康正二年(一四五六)十月の六角久頼の没後に、その嫡子亀寿の後見となり、応仁・文明の乱でも六角氏をよく支えた。六角氏が公家寺社の荘園や幕府奉公衆の所領を押領して足利義尚の六角征伐をうけても、政綱は守護代伊庭貞隆とともに六角軍を率いて、六角氏をまもった。しかし延徳三年(一四九一)の将軍足利義材の第二次六角征伐では、大津に誘い出され、将軍の命をうけた尾張守護代織田氏と播磨守護代浦上氏に討たれた。

***

資料では政綱は「六角宮内大輔」と記されており、「山内宮内大輔」とは記さない。政綱を六角氏と見なすのが、当時の人びとの認識であったのだろう。足利義材は高島頼高の子八郎を近江守護にして六角氏征伐を終えた。

 

上の資料では「山内宮内大輔」となっている。

 

 ***


しかし明応二年(一四九三)の管領細川政元が明応の変で将軍義材を廃して足利義澄を擁立すると、六角八郎に替わり山内就綱(政綱の子)が近江守護に補任された。足利氏の血筋である満高以来の六角氏惣領に対して、佐々木氏の血筋である山内氏を対抗させる構図ができた。明応三年(一四九四)に山内就綱は延暦寺の支援を得て近江に侵攻するが、美濃守護代斎藤利国(持是院妙純)の援軍を得た高頼によって近江を追われた。こうして山内氏本宗は滅亡する。

 

***

佐々木小三郎であった「山内就綱」は京に逼塞したようである。(生きている)

***

この先が、永原氏のことと関係がある! 鳥羽氏・江辺庄が出てくる。

 また山内信詮の長子五郎左衛門尉詮直の子孫は鳥羽氏を称した。五郎左衛門尉詮直は山内氏の所領のうち近江富波(鳥羽)・江辺(江部)庄を継承した。詮直の子五郎左衛門尉高信は『尊卑分脈』では愛智直綱(氏頼の次弟)の子にも記しており、直綱の養子となった可能性が高い。鳥羽氏は高信―信清と続き、さらに山内義重の子高頼(五郎左衛門尉)が養子に入った。この江辺庄は永原氏の本拠であり、地頭源信清のほか正公文源正満丸が見える。この源正満丸が永原氏の祖永原新左衛門入道正光であろう。

 

***


山内信詮(五郎右衛門入道・備中判官入道崇誉)の孫佐々木備中四郎高信(前田家文書)が、山内氏所領のうち近江国富波(鳥羽)・江辺庄を継承した。

 戦国期の山内就綱が「小三郎」と呼ばれていたことから、三郎が山内氏家督の仮名となったと考えられる。

***

上記の直綱のことは、系図に「上野国 片岡」との関係が書かれていた記憶がある。(真偽のほどは?)

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/52d2b5128486e7893ceb7359afbe32d8

伊庭氏被官の前は、九里は山内氏被官であったのだろうか?

それともその頃は九里一族の人数も多く、六角氏・京極氏・山内氏などと いくつかのグループに分かれていたかもしれない。

 

ココで突然片岡氏が関係してくるのだろうか?

深尾氏の祖母か母が「永原氏」であることと、九里が山内氏被官であったことは、何等かつながりがあるのではないだろうか?

山内氏と九里氏、掘り下げるべし!

 

 

 

 

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小野門跡(隋心院) 顕厳は中原廣忠の息であり、親厳は飛騨守親光の息であった。

2021-03-21 | 九里【まとめ】

あまり詳しくないので、見つけたものをここに留めて置く。

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/

 

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006554#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-3132%2C-114%2C9335%2C2275

 

 

 

京都大学、素晴らしい! Free License

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/license_icon/free-license

 

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佐々木小三郎 後法興院記より

2021-03-21 | 九里【まとめ】

「佐々木小三郎」のことである。

「後法興院記」に何度も記載がある。

この人物、よく近衛政家の家に顔を出す。ちょくちょく…と云ってもよいほど。ご近所さんだったのだろうか?

 

調べてみると、佐々木小三郎=山内政綱の息=山内就綱 であった。

 

この二行目に「山内宮内大輔之内者、クノリ方ヨリ内々所望

この山内宮内大輔は、政綱のことであり、先の小三郎の父である。

つまり、山内氏の許で働いていたようなのだ。

 

六角氏一族の群像 著者: 川村一彦 より ↓

山内就綱

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E5%B0%B1%E7%B6%B1

 

父の山内政綱のwikipediaには以下のようにあった。

「就綱は、明応2年(1493年)4月の明応の政変時に足利義澄により六角氏惣領に任じられている。」

 

という事は、足利義澄は、やはり水茎岡山城を頼ってくる以前から、九里のことを知っていたのだ。

ますます、そう思う。

 

 

   

 

近衛氏とも、延徳三年1491年あたりからつながりがあったのではないだろうか?

だから、九里(三郎)の討死も記載されていたのであろうと思う。

 

 

 

 

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間違い訂正!  後法興院記より

2021-03-21 | 九里【まとめ】

さて、後法興院記の記載から様々な想像を展開したが、間違いがあったので訂正を入れて置きたい。

 

この、後ろから二行目に登場する「九里四郎次郎」(員秀の事と思われる)、

私のコメントでは「座布団」の関係のことか?と書いていたが、これは大きな誤りであったと思う。笑

 

「有蹴鞠、飛鳥井宰相、左小辨伊長、極臈資直、藤蔵人、興基僧都等来、九里四郎次郎進圓座、廿枚先日便宜時令所望了」

と、全部が関係あったようで、コメントに詳しく自閑様が書いてくださった!

 

それを基に、書かせていただくと、

この蹴鞠のメンバーは

飛鳥井雅俊 1498 参議(宰相の事)
勧修寺尚顕 1501 左少弁 確定
甘露寺伊長 1501 右少弁 確定
富小路資直 文明16年(1484年)六位蔵人兼左近衛将監に任官。蹴鞠・医学にも通じたとwikiにあるのでほぼ確定

となる。

 

こんなすごいメンバーに誘われた九里四郎次郎、どうやら近衛政家に何か便宜をはかり、その時に何か欲しいものはないか(仮)と聞かれ、蹴鞠がしたいと答えたようである。

彼は、無事に蹴鞠は出来たのだろうか。

飛鳥井雅康に頂いた「蹴鞠五部抄」を読んでいたはず。

是も興味(憧れ)があって、何かの折に所望した物だったのかもしれない。

 

極臈資直の「極臈」は、↓

六位の蔵人(くろうど)で、最も年功を積んだ人。一﨟。ごくろう。(コトバンクより)

 

また、もう一つは和漢会、私の想像では漢方に関する記述がいくつか見られたため「和漢方の会」だったのだが、

 

実は下記のようである。

月次和漢会とは、漢詩と和歌の会だと思います。」

漢方ではなく漢詩と和歌。

そういえば、医師の名が見えないかも。(笑)

===*===

近衛政家と丹波親康のことが書かれていた小論があったので、ココに載せておこうと思う。

 

http://jsmh.umin.jp/journal/45-2/168-169.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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