【大宮右大臣家による陸奥国進出の過程 】滑川敦子 著
『十世紀末期から十一世紀の初めにかけて、藤原道長が台頭し陸奥守 軍事貴族 はその関係者が就任した。また鎮守府将軍は、在地に勢力を有する
軍事貴族(秀郷流藤原氏 ・ 貞盛流平氏)が就任したが、次第に陸奥守との間に軋轢が生じるようになった。この問題を克服するべく、陸奥守には軍事貴族と姻戚関係を有する者を任じ、鎮守府将軍を牽制する方策をとった。』
源頼義のあたりから鎮守府将軍と陸奥守の兼任が見られる。
藤原師綱も兼任であった。が、秀郷流の者と婚姻関係を持つなど、軍事貴族との融和を試みていたのかもしれない。
さて、九里氏には大江氏と遡ると師尹にもつながっていく系図がある。
但し、これは五代龍作となった(九里龍作・高栖龍作)の調べてつくった系図であり、代々受け継がれたものではない。
熊野別当家とつながっている藤原師尹の公孫 陸奥守実方。
少し、当ブログにもあげておこうと思う。
この実方や師尹との関係と、秀郷流の義通とその妹と言われる源朝長・中原久経の母、この両方を繋ぐのは、藤原師綱か、その周辺の人物なのではないだろうか。
名取老女の考察をしております。
九里氏のことについて教えて頂きありがとうございます。
実方の息子の話は、おそらく、系図について藤原実方の墓が名取郡にありますが、(道祖神がある所)「穂積姓鈴木氏系譜」の資料に、熊野別当に「泰救母」とあります。
鈴木重氏の息子「重豊」の娘が藤原実方に嫁ぎ、子「泰救」が熊野別当になったとありますので、それと同じものかと思います。
穂積氏→(藤白)鈴木氏の系譜からみれば、陸奥国の熊野信仰を広めた背景に藤原実方と鈴木氏があることを伝えているものかと思います。
その道祖神は「佐具叡(さぐえ)」と呼び、藤原実方が落馬した伝承を残しているのですが、その神社を延喜式にしたのは、藤原忠平で(なぜ延喜式になったかは不明)忠平→師尹→定時→実方と、師尹系の方のようです。
「熊野別当家とつながっている藤原師尹の公孫 陸奥守実方。」ということがそれにあたるかと思います。
師尹側にしたい理由があったとすれば、師輔系譜の藤原行成は、殿上で藤原実方と歌について口論になった逸話があるのが有名です。
一条天皇から陸奥へ命じられた話です。
それで藤原実方は多賀城へきたけれど、なぜか名取で亡くなったという話です。
そこを延喜式にしたとなれば、意味深ですね。
わからないことが多い名取老女ですが、どこかで大江氏が熊野別当(陸奥)と関わっているとすれば、九里氏とも陸奥に関連があるのでしょうか?
大江氏系譜をみると天児屋根命がありますね。
熊野那智大社の「実方院(じっぽいん)」は、始祖を天児屋根命とし、藤原実方のことだそうです。
藤原家の衰退から関東武士が台等してくる転換期に
名取老女物語は誕生していますので何か関わりがみつかるとよいですね。
長々と申し訳ありません。
少しでも先祖のルーツ探しの参考になれば、と思います。
ご返事ありがとう存じます。
新しい記事を書いた後で、いただいたコメントを拝見したので、重なっておりますが、ご容赦くださいませ。
『陸奥国の熊野信仰を広めた背景に藤原実方と鈴木氏があることを伝えているもの』こちらを読みまして、なるほどと思いました!
其の鈴木氏は、義朝の近臣であった重倫や、亀井重清、また、重邦の妻が秀郷流からであったりと、なにかと九里氏とも接点がありそうなのです。
穂積姓ともご縁がありそうです。
聞いた話ですが、我が系の九里が明治36年に北海道に移住した際、東北の方々の多い場所を選んで入植した…と。
きっと、何等か東北ともつながりがあったと思います。
近江国九里氏はもと中原氏、
石見国久利氏はもと清原氏です。
そして、秀郷流、大江氏、佐々木氏、等が加わったと思います。
実方や、熊野関係、もう少し調べてみようと思います。
御師の尽力もあったとはいえ、広範囲に存在する熊野神社や熊野信仰も、気になってきました。
名取老女研究会様のブログも、まだ見つけたばかりですので、これから読ませていただきますね!!
ありがとうございます。
ぜひ、参考にして頂けると嬉しいです。
亀井氏などについても、源義経と関わりをもってきた「信夫佐藤氏」も調べてみるとわかるかもしれませんね。
また、今後ともよろしくお願い致します。
信夫佐藤氏も、何処か九里と関係していると思います。
秀郷流と源氏・中原氏の接点に中原久経がおります。