修理大夫とは?という箇所から。
修理大夫範兼が「中原範兼」であるとは、どこにも記載がない。
中原範兼は同姓同名が二人はいる。
一人は平安の大治1120年代に「中右記」で確認でき、
もう一人は弘長1260年代「大日本史」に確認できる。
この大治の範兼は、源朝長の母方の祖父であったとしても年代が合う。
もう一人、藤原範兼という人物も平安後期にいたようであり、「和歌童蒙抄」という本を十巻も書いている。
さて、この藤原範兼と、中原範兼は別人なのであろうか?
「和歌童蒙抄」は久安に作られたそうで、中原範兼の生きていた時代と重なっていそうである。
同一人物か、はたまた別人かはわからないが、
藤原範兼(1107-1165年)の叔母は源頼政の母であるそうである。
この人物は、源義経を調べていた際に関連で登場した「藤原範季」の兄であった。
修理大夫とは、従四位下の位以上に相当する職のようなので、中原氏にも稀にはいるが、なかなかいない位階なので、藤原範兼の方が妥当かもしれないと思う。
この藤原範兼にも「修理大夫」の記載は今のところ見当たらない。
検非違使補任2によると、中原氏は修理左宮城主典には多い。修理右宮城主典にもいる。修理東大寺大佛主典もいる。(この本の記載は年代が鎌倉時代ではあるが…)
横道にそれるが、和歌童蒙抄の藤原範兼も範季の兄範兼であるかもしれない。
なぜならば、この和歌の弟子であった源通親の妻は藤原範兼の娘(従三位範子 )であり、久我通光を産んでいる。
修理大夫範兼の存在は確認できなかった。
大膳大夫則兼の「大膳大夫」は従五位下でも可能なようなので、それも当たってみようと思う。
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memo
閑院流の
藤原実清の情報…「公信の息の実清」が、右馬権頭だったようだ。つまり、秀郷流ではなかった可能性がさらに大きくなってしまったのかもしれない。
全く勉強不足ですね😓
少し調べてみますが、たいした成果はなさそうです。
又お邪魔しますね😃
仙覚以前の研究という事でしたが、その内容はよくわかりませんでしたし、部分で紹介されているのですが、酷評されているみたいです。
歌の病についても書かれているようです。
和歌に関わると、病みつきになるのですね。
頼政の母親とも繋がっているようですので、その人脈に興味があります!
またいらしていただけますと嬉しいです!