九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

永田時信の周辺 再考 (3) 東殿と呼ばれていた

2022-10-17 | 永田氏

前回の「つまり下総局の夫は「原氏」であったのだ。」は怪しいかもしれない。

が、佐々木氏の永田氏の系図の中に永田長綱(原殿)とある。「原殿」

 

そして「下総房」の妻が「下総局」であった、という可能性もある事に気が付いた!

永田時信次男下総房と書かれている本があった(小浜市史)

 

永田時信の妻は小槻氏という。

更に時信は【東殿】と呼ばれていた。

そう呼ばれていたからには東国に居たことがある可能性もある。藻原の近くにも「永田」と云う地名があった。

 

永田時信・妻 小槻氏

時信次男 下総房・妻 下総局 

本郷頼忠・妻 藤原守綱(本郷・重代公文)娘  妻の「本郷」を頼忠が名乗る。

   私のなかでは、この公文職の本郷氏は大江・中原氏であろうと思っている。  

   大江広元の妻は多田氏(山縣氏と多田氏は近い 山縣系図に原頼忠が存在する。)

頼忠娘・夫 三浦家村(道阿)

頼忠娘 山田局・夫 願生房

頼忠娘(真阿) 夫 若狭一宮・二宮 禰宜景継(善真)導師は多田妙観阿闍梨

 

真阿と景継の娘・夫 和田平井実家

 

ここで、平井氏とつながる。

 

神官牟久氏多田氏・和久利氏・木崎氏などの有力国人層と血縁を結び、本郷氏・和田氏などとも婚姻関係をもつなど、つながりは広範囲に及び、また国分寺大別当・多田薬師堂との関係もあった。加えて、一二代景継の妻は太良庄開発にかかわる長田下野守師季の曾孫進士刑部允頼忠の母で(一二宮社務代々系図)、当社神官が若狭国中枢部の在地勢力と融合を図りながら、勢力を拡大していったことが推定される。
   

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-04-04-04.htm

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永田時信周辺 再考(2)

2022-10-16 | 永田氏

仮想なのだが、「下総房」ではなく、「下総局」(富木常忍の母)と仮定しながら進めてみようと思う。

「下総房」(男性かな?)が正しいのかもしれないが、、、、

仮想の実況なので、間違いも多々あると思う。

下総局は、富木蓮忍の妻であったか、蓮忍の妻の姉妹であったかのはずである。

千葉胤綱1198-1228・の妻は佐々木信綱娘だったが…何処とつながるか。)

 

下総の局の父は「永田時信」

(以前は千葉胤正の娘と仮定しつつ進めてたが、今回は永田時信の娘と仮定)

 

(近江中原・九里)蓮忍の妻ならば、息が本郷頼忠(善願)となり、頼忠の妻が藤原守綱の娘となる。

つまり、近江国近江八幡の九里という場所にあった本郷城が、久里城でもあったことの理由ともなるかもしれない。

 

本郷公文藤原守綱 大和興善寺阿弥陀像胎内文書にその名があったようだが、他にはまだ見つかっていない。

 

この本郷氏は一説には「大飯の本郷氏」の従兄弟筋のようである。

本郷美作左近大夫将監隆泰の従父兄弟となる筋と繋がってくるようなのだ。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-03-01-04.htm

 

従兄弟、従父兄弟、という事は、父や母、もしくはその兄弟姉妹の子ども同士。

ということは、やはり近江国近江八幡に美作氏から本郷氏になった周辺の人物がいたのだ。

朝親、有泰、虎王丸・・・・

 

この朝親、以前しらべていた大江(中原)氏であった人物なのではないだろうか?

大江朝親の兄は、僧の親厳であり、小野の隋心院の大僧正であった人物で、その関係か近江八幡の九里の場所は隋心院領だったのである。

父は飛騨守親光(大江中原氏)である。

 

 

頼忠という名前は九里の中では聞いたことがなく、

「清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏が知られる。」というのが一番近い説だろうか?

 

つまり下総局の夫は「原氏」であったのだ。

 

清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏もあるそうだ。
(こちらは良峯姓ではないようなのだが。)
源国政は、系譜上従兄弟にあたる源頼政の養子となっていたとされ、父より美濃国山県郡の所領を継承する一方、都で斎院次官などを務めて従五位下に昇ったとされる(『尊卑分脈』)。
その詳しい動向は不明であるが、以仁王の挙兵で自害した頼政の首は郎党の渡辺省・猪早太らによって国政の美濃の領地内(現在の岐阜県関市蓮華寺)に運ばれ葬られたという伝説が存在する。

四人の子息たちもそれぞれ美濃国内に所領を有し、美濃源氏山県氏族として勢力を持った。

日本通信百科事典によると
「山県国政 : 通称は山県太郎/美濃太郎、「山縣国政」とも呼ばれる。源頼光の玄孫、頼国の曾孫、多田頼綱の孫、国直(山県冠者)の子、能勢国基・敦光の兄、飛騨瀬国成(飛騨瀬氏の祖)・頼清・福島国時・頼兼(清水冠者)の父。山県氏(山縣氏、美濃源氏)の祖となった。同時に従兄の馬場頼政の猶子となった。 」

 

私の以前の記事で恐縮だが、以下とつながってくると思う。
佐竹義重の母が、山縣先生源国政の娘カ…とカがついている。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/5601751f14e49e63875d205682a98516

 

この記事を読むと佐竹の関係から、片岡経春(妻:佐竹義政)にも繋がるのだ。

 

《 符合すること 》

 

☆ 平時忠の姉時子が二位局であり、法美郡 岡益の碑(伝:安徳天皇陵)のすぐ近くに冨城郷(この地図では冨来郷)があったこと。

こんな偶然はありえないので、この安徳陵を守っていたのだと思う。

 

☆  近江八幡の 本郷城がイコール久里城であったこと。

 

☆  近江八幡九里 が 隋心院領であったこと。(美作朝親=大江中原朝親=朝親の兄が小野隋心院大僧正の親厳であったこと)

 

☆  永田時信の娘と思われる「下総局」の夫が「原氏」であった可能性があること。(頼忠の父は原氏・清和源氏で山縣先生国政の孫原四郎頼忠に始まる原氏と思われる。)ここで、土岐氏とのつながりができるのではないだろうか?しかも母は「宇多源氏佐々木党木村兵部大輔定通女」養父は源頼政

 

☆  佐竹義重の母が源国政の女(娘)で、片岡経春の妻が佐竹義政の娘でもある。

 

完璧すぎるくらい。

此処で思い出すのは、土岐氏が近江の船木庄周辺に隠れ住んだこと。

「頼重三代の後胤舟木兵庫大輔(助)頼夏・志・朝家に篤しと雖も、父祖頼重落城後・本領内江州舟木庄に引籠して、敵色立てず。」

 

 

もう少しこの辺りを詳しく調べてみようと思う。

 

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永田時信周辺 再考 (1)

2022-10-15 | 永田氏

永田時信 周辺の系図

「下総房」ではなく、「下総局」だったのではないだろうか? その疑問を探ろうと思う。

そうすると、息子(もしくは甥)が【本郷進士刑部允頼忠(善願)】となり、後に本郷城が久里城になったとしても自然! この頼忠は常忍の兄弟という事になる。

 

丹生二郎隆清 ↓

隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,

平師季は父師妙と、略奪したり放火したりなのだが、平時忠の従兄弟(この従兄弟は永田にかかっている言葉とみた場合)が永田時信となる。

時忠の母と平時子(二位尼)の母は同じである。

永田時信と従兄弟と云うからには時忠の父平時信の兄弟姉妹の息ということになろうか?

 

富木蓮忍・常忍は因幡国では岡益の碑と安徳天皇陵のすぐ近くに住んでいたこともあり、そこがまず気になる点である。

で、系図の時信の次にある「下総房」が、「下総局」で蓮忍入道の妻か姉妹で、常忍の母親となる人物ではないだろうか?と、今朝思いついた。(もしかすると妻の姉妹かもしれない。)

「房」「局」 

 

図書館のレファレンスに以下の情報があった。

【1093年(寛治7)、出羽国で平師妙(もろたえ)、その子師季(もろすえ)が、出羽守信明(藤原氏か)が上洛しようとした隙をねらい、その館をおそって放火し、財宝をことごとく奪い去るという事件がおこった。

(中略)

かれらは前九年の役に安倍氏の武将として勇戦し、『陸奥話記』に(中略)伝えられた平国妙の子であろう。奥州藤原氏の始祖清衡の実父藤原経清(つねきよ)は、国妙の外甥と『陸奥話記』にあるから、藤原清衡と平師妙とは遠縁にあたる」「賊の首および降人らは前九年の役の先例にしたがって京都におくられ、検非違使に引き渡されたが、その日のありさまを詳しくかきとめた『中右記』によると(後略・引用記載)」との記載あり。・・・】

【『中右記』に、寛治8年(1094)3月に陸奥守源義綱が、出羽守信明の館を襲撃してこれを焼き財宝を奪った賊平師妙・師季父子の首と、一味の降人貞宗・貞房等を捕えて都に入る、という記述がある。(中略)国守の館を襲った平師妙は、前九年の役の際源頼義の武将で「平不負(へいたいふ)といわれた出羽国人平国妙の子ではないかといわれている」との記載あり。】

 

寛治7年(1093年)、平師妙師季親子が出羽守源信明の館を攻め、翌嘉保元年(1094年)、陸奥守源義綱郎党により鎮圧されたが、『中右記』によると、前年の寛治6年(1092年)6月には陸奥守・藤原基家の解文により、経清の子・藤原清衡に合戦の企ての嫌疑がかけられていることから、両者を関連づけ、この師妙親子を清衡の大伯叔父である国妙の子及び孫ではないかとする見解がある。 】(wikipedia)

 

この平国妙の姉か妹が藤原頼遠の室となる。(藤原秀郷流との接点)

藤原頼遠は「下総住人・五郎太大夫」だそうである。(藤原経清の父)

経清の息はあの奥州藤原の藤原清衡となる。

 

twitter情報では「【平国妙】平安期の出羽国の武将。散位大夫。字は平大夫。武勇の誉れ高く、常勝の武将として「平不負」と称した。天喜五年、源頼義殿に属し黄海合戦に参戦。敵軍の捕虜となるが、外甥藤原経清殿の嘆願により一命を取り留められた。奥州藤原氏の初代清衡殿の大伯叔父。

千葉氏一族のHP(三浦氏)では【頼義の郎党。出羽国人。武勇あふれる人物で善戦し、敗北知らずであった。そのため、俗に平不負、字を平大夫と呼ばれた。しかし、黄海合戦で馬が斃されて捕らえられ虜となった。そのとき、敵将で婿の藤原経清(奥州藤原氏祖)によって助けられた。「武士猶以為耻矣」とされた。】

 

 

拾い集めたヒントは 以下である。

天喜五年1057年 

藤原秀郷-千晴-千清-正頼-頼遠-経清-清衡-基衡-秀衡-泰衡

景継母ハ本郷重代公文掃部丞藤原守綱二女也。

時信は師季の兄弟の曾孫(ないしは孫)に当たる人で、このころこの国の東郷となにかのかかわりをもっていたとも考えられる。同じ年、若狭国は鳥羽院の分国になって ... 寡婦となった妻小槻氏は、隆清の遠縁にある「東殿」平時信をたより土着した。

和田平井実家

源頼義

平直方

久利氏(清原定隆は石見守・小野吉柯は石見・伊豆守)

大江親広・広時・政広・元顕(寒河江)

 

 

もう一度組み直していこうと思う。

 

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岡田重矩 と 同時代の 永田廣豊 奈良県宇陀郡史料

2022-09-22 | 永田氏

https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E5%AE%87%E9%99%80%E9%83%A1%E5%8F%B2%E6%96%99/9kqn3QUq4AYC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E5%B2%A1%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%9F%A9%E3%80%80%E6%B0%B8%E7%94%B0%E5%BB%A3%E8%B1%8A&pg=PP928&printsec=frontcover

 

同じ時代に同じ「用心」という職に就いていた二人。

養子をもう一度確認してみようと思う。

永田昌廣(称 宗富)ー永田廣昌ー永田廣豊(用心)= 永田廣満(佐々宗明二男が養子として入る)

 

永田廣満の息 ↓

二男 岡田重矩の養子となる(岡田重容のこと)

三男 佐々直賢の養子となる(佐々直期のこと)

岡田重容ー岡田重昌

岡田重昌の息 ↓ 

兄・岡田重禮

弟・岡田嘉膳(九里政敬

 

岡田嘉膳(九里政敬)の養父は佐々修政九里八郎右衛門修政

一見、岡田氏と佐々氏なのだが、共に永田氏の血が入っている。

 

九里八郎右衛門政敬ー政忠ー政得

 

この政得が敬三となり、私の高祖父となる。(もと文之丞)

敬三は、明治二年頃柏原藩を離れ商売を始めたようである。

敬三の行動がはっきりとわかるのは柏原藩史までしかない。

明治36年11月、北海道釧路に入って来た時には「米穀・雑貨商」であったので、はじめからお米を扱っていたのかもしれない。

敬三は厳しい寒さに身体がなじまなかったのか、またはインフルエンザか、次の年の一月に歿してしまう。

 

そこから、息子(大井家からの養子)九里圭治の大奮闘が始まる。妻は19歳 荻野りんであった。

 

 

 

                    

 

 

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九里政方の妻は永田廣豊(用心 郡町奉行)二女であり、其の母親は城州 西岡氏であった。

2022-07-13 | 永田氏

機会があって「柏原織田家臣系譜」(国立国会図書館デジタル)を再度見た。

 

おお、新しい私的発見が!!

キーワードは【岡田】なのだが、

永田氏と西岡氏、其の西岡氏は岡田村にいた。

そこで岡田が一枚かんでいるようなのだ。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/31-40/okada.html

 

『城州西岡氏』

https://otemae.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1266&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

 

中世の土豪と村 -西岡家系図を中心に- 藤井 直正 著

紀伊の「岡田に西岡家という庶流がある。」

西岡家系図

この西岡氏の娘が永田廣豊の妻となり、そのまた娘が九里政方の妻となった。

西岡家の系図内には長谷川利七室が見え、また、佐々氏の中の系図に長谷川権六室が見える。

 

 

 

 

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平師季の孫 永田時信 周辺を再考してみる。

2021-05-30 | 永田氏

 

大江氏の中に進士になっていた者もいた事を念頭に置いておく。

 

 

 

太良荘の開発領主丹生二郎隆清の父師季は「長田下野守平朝臣師季」と称され(東寺百合文書ア),また,この隆清の遠縁にあたる平時信は,若狭国鎮守一二宮社務代々系図(若狭彦神社文書/小浜市史社寺文書編)に「平大納言時忠卿従兄弟下野守師季之孫永田太郎時信」とあり,長田(永田)を名字地とする平師季流があったこれが当地と同じものとすると,当地名は平安期にさかのぼる可能性がある.

上記の箇所、上総広常の娘が嫁いだ『平時家』と絡めてもう一度考えてみる。

平時家の父が平時忠なのである。

時忠の従兄弟というならば、親宗の息か?

女性の従姉妹も入るならば時子、冷泉局、滋子、清子、藤原親隆室、帥局、坊門殿(平時信娘)

これらの誰かの息に『下野守師季』がおり、その孫が『永田太郎時信』という事になる。

 

網野善彦先生の著書には

永保三年(一○八三)、前下野守師季は、前年正月に官使を射殺した罪により、位記を奪われた。のちにこの荘の公文職と末武名の相伝次第に、「長田下野守平朝臣」と記される師季は、この人のことであろう。親信の孫、行義の子...   
(と、このgoooglebooksの部分をヒントに「師季」に当たると、以下のように親信の系にいることがわかった。)が、↓

私にはこの師季や、行義の系で範国の弟の師季とは年代的に別人のような気がするのである。

上記の網野氏の本は部分のみなので、全貌がわからないのだが、他に師季がいたように思う。

 

1151年の当時百合文書が残っているので、本人(平師季)が存在していたことは確かである。

 

 

長田下野守平師季の系譜をひく丹生氏と同系であることが「系図」から明らかになる。丹生氏が太良保に本拠をおき、進士頼忠の祖父永田大郎時信が恐らくは恒枝保に名字の地をもっていたと思われるのに対し、頼忠自身は前述したように、大飯本郷と深い関係があった。(網野善彦著作集第14巻より)

 

進士頼忠の娘と景継本鄉公文藤原守綱女山田局祢宜景継・妻真阿 関係系図 注 1 作図の便宜上、兄弟姉妹の順を入れ替えている場合がある。注 2 四郎式部丞道阿は、四郎式部丞と子の道阿であるとも記されている。

(福井県史より)

 

このことから、大飯の本郷は、長田(永田)氏の裔である可能性があることがわかった。

美作氏=本郷氏=進士氏=長田氏… さらに長田氏はその後大江氏とつながり那波氏となる系が出る。

大江の親厳が随心院の大僧正であった事と近江八幡九里が隋心院領であった事と関係があるとすると、本郷城ともよばれていた九里城、しかもそこには長田という地名もある。

本郷氏は長田氏であり、大江氏につながる事にもなるのではないだろうか。

そこで、一番初めに貼った進士大江氏(大江泰基)が関係するように思ったのだ。

 

 

以前大飯の郷土の方々が、美作氏の先祖は桓武平氏という可能性を示唆なさっていらしたが、私もそのように思っている。こことつながってくるのだ。しかも大江氏と絡んで!

 

系図には平井氏の名は出ていないが、和田が他の本によると「和田平井実家」となっていた。

(和田平井実家に嫁いでいる者もいる。)

 

   

 

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永田氏 と 後藤氏 そして 出雲佐々木氏 との つながり 訂正版

2020-12-01 | 永田氏

後藤氏に関係する系図をweb上で集めてみた。
ずいぶんと前のことで、どこからコピーさせていただいたのかが思い出せず、申し訳ないのだが系図の部分のみここに貼らせていただくこととする。
(もしも、御支障のある方は御一報いただけますと助かります。)









西行の甥基清が後藤氏に入っていることがわかる。

系図の中女性が大江能範嫁いでいる。(間違っている!私)。
系図の中では、「後藤基政の母親が大江能範の娘!である。」が正しい。

大江能範 本朝通鑑 第一巻








そして、昨日家系図学会から届いた小冊子にあった永田氏の系図から
永田四郎左衛門政国の娘の註に後藤但馬前司妻」とあることがわかった。

更にその小冊子に記載のある近江国に関わる後藤氏の系図の最初に書かれている「基明」。
1354年討ち死にとあるので、1200年代後半に生まれた人物と思われるのだが、
佐々木泰清の五男が後藤氏に入り「後藤基顕」となっているが、この人とは違うのだろうか?

また、もう一人美作後藤氏に「基秋」(基明)がいる。こちらもさらに怪しかったのだが、年代がまだわからないでいる。





いずれにせよ、近江国の永田政国の娘と後藤氏に婚姻関係があった事から、九里氏とも、また遡ると中原氏とも近いことがわかってきた。

三左衛門事件の一条能保の家司であった「後藤基清と中原政経」、そして三善基連が後藤氏からの養子であったことも含めると、九里の周囲には後藤氏が見えている。(三善=太田乗明の姉が富木常忍の妻であった。)

この辺りを探ってみたい。

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高庭介資経 のこと 長田氏 と 日野氏・藤原山内氏 との関係

2020-10-11 | 永田氏

千葉氏のHPの中の安達盛長の上方の囲み部分にあった「高庭介資経」に関する記述である。
https://chibasi.net/adachisi1.htm 

【藤七資家 因幡国の高庭介資経が付けた親族 高庭介資経の出自は伝わらないが、「累代芳契輩」の一人と推測される。
源氏累代の家人で「資」「経」字を伝える「藤」姓の人物であることから、源義家の郎党であった藤原資道の流れを組む人物の可能性があろう。 『吾妻鏡』寿永三年三月十日条】

藤原資道とは、調べてみると助清の息である助道のことである。その系は山内氏・小野寺氏となっていく。 
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html

山内氏は戦国時代に九里氏と縁のある深尾氏・片岡氏・乾氏とも関係が深い。


もう一つ気になったのが 藤原(日野)資憲の関係者となる高庭介資経の記述である。一番下の部分である。

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1087.html

【頼朝は自らの祖父為義の祖父有綱親光の曾祖父(父方の有信、母方の有定)が兄弟であったため、親光を「御外戚」と呼んだのである。
さらには親光の父資憲が頼朝が仕えた上西門院の兄崇德院の側近であったことから、これを大切に扱ったのである。
頼朝への大功により出雲大社神主に補任された内蔵資忠、平家方となったが罪を許されたのみならず本領を安堵された因幡国住人長田実経(父高庭介資経が頼朝が伊豆に配流された際に一族の藤七資家を派遣。「藤七」から長田氏が藤原姓であったことがわかる)はいずれもその父等が日野資憲との緊密な関係を結んでいた。

今までも藤原親光の周辺は調べていた。が、今までは長田氏(高庭介)の視点はなかったので、そのことをプラスすると、益々、九里氏は長田氏と関係がありそうだと思ってしまう。 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E5%85%89

つまり長田資経や実経もまた日野氏と関係があったという事が、様々な今後の関係にも繋がったのではないだろうかという事である。

経任(九里の祖経久の父)の兄・中原景経は判官を広橋経光に推薦されている文書が残っている。(1244年)

冨城氏(富木氏)の親戚であった者(伊賀国御家人中原能兼)も日野氏の家司的な職に就いていたのではないかと思われることがあった。
それは、『兼仲卿記』の背面に「能兼申状」が書かれてあった事である。
ともかく近くにいた事は間違いないと思われる。

能州の若山荘の久能利氏として日野氏の被官と成っていた事。

足利義澄を匿うことになったのも、日野氏との関係もあったかもしれない事。

等である。
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平忠常の妻に平公雅娘、長田氏の祖は公雅の息平 致頼のようである。

2020-09-13 | 永田氏

公雅の息致頼(むねより)の姉か妹に平忠常の妻がいる。
忠常の子孫は房総半島の有力武士として残り、後に鎌倉幕府の御家人となる上総氏、千葉氏が出た。

忠常の息常将の妻が中原氏であろうと思われる「天女伝説」があり、その息が常長で、
前九年の役・後三年の役で源頼義・義家父子に従って戦功を立てたとされる。
戦後は上総国大椎に館を構え、さらに下総国千葉郷に進出して千葉大夫と号したとされる。

ココや忠常が源頼信の家人であった(『今昔物語集』)事の情報をプラスしてみると、源氏にもさほど遠くない。

致頼はwikipediaによると、「寛弘(1007年)4年8月に藤原伊周・隆家兄弟が藤原道長暗殺を計画し致頼に命じていたという噂が流れていたとある、ように、藤原氏の近くにも居た。

また、致頼の姉妹が既に薨去していた伊周・隆家の父藤原道隆の家司の有道惟広の室であり、その息子で致頼の甥に当たる有道惟能が伊周の家司だった事から伊周らはその繋がりで致頼と通じ接触した可能性もある。…」という事で、藤原氏の家司であった有道氏とのつながりもあったようである。

有道氏も「藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、児玉郡を開墾した官人であると伝えられ、子息は武蔵七党の一角を占める武士団である児玉党(児玉氏)の祖である児玉惟行。」という経歴であり、長田氏の祖も「丹党」かも知れないし、、、

武蔵国には秘密基地のように京から流れてきた武士が徒党を組んで生きる場所があり、結構な人数がいた事になりそうである。

どのような場所かを調べてみた。









下の地図に注目していただきたい。
土師神社のぐっと上の印(「佐野のわたし」付近)は「片岡氏」が拠点としていた上野国片岡と思われる。
土師神社の近くには丹荘とあり、丹党がいた場所でもある。










意外な展開になってきた。
丹党であった可能性のある「長田氏」と「片岡氏」のいた片岡とが近い!

もう一度、片岡氏の系図をよく見ると(大和北葛城郡史)161頁
片岡為利は源頼義に従い奥羽に戦い功あり、伊賀守に任ず 永保元年に卒す 91歳とある。(990年生まれとなる)





長田氏の先祖は源頼信に仕え、片岡氏は源頼義(頼信の息)に従い…

難しいので、この周辺の本を読んでみたい。 


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長田氏一門  丹姓平氏良兼流

2020-09-12 | 永田氏

日本通信百科より

丹姓平氏良兼流の長田氏一門の浦野氏の系統である葦敷氏を中心に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏)・尾張木田氏・小河氏(庶家に水野氏・毛受氏)・平野氏(三河平氏の大浜氏・永井氏は除く)の諸氏は、満政流八島氏の系統と自称(仮冒)した(『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)による)。 羽島氏も同じく。

木田氏 (尾張国) : 「尾張木田氏」とも呼ばれる。丹姓平氏良兼流長田氏(尾張平氏)の一門の浦野氏の系統である葦敷氏の庶家。尾張国海東郡木田郷(現在の愛知県あま市木田大字)を拠点とした。同族に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏))・小河氏(庶家に水野氏・毛受氏)・平野氏や三河平氏の大浜氏・永井氏などがある。

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満政流八島氏と仮冒した、とあるが、その仮冒先には下の美濃木田氏も含まれていると思う。

木田氏 (美濃国) : 「美濃木田氏」とも呼ばれる美濃源氏の一門。陽成源氏頼親流八島氏(羽島氏)の庶家で、木田重長を祖とする。美濃国方県郡(稲葉郡)木田郷(現在の岐阜県岐阜市木田大字)を拠点とした。庶家に美濃古田氏(開田氏/改田氏)・竹中氏がある。

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丹姓平氏とは?

平氏 (丹氏) : 紀伊国高野山付近にある丹生都比売神社の神官である大丹生直の後裔と称した武蔵国入間郡・秩父郡・および児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した土豪である丹姓(丹治/丹治比)の系統で、「平姓」を冠とした平直良を祖とする。常陸国南部~上総国・下総国を拠点とした篠田氏・下総村岡氏や千葉氏・上総氏を惣領家とした坂東八氏(坂東平氏/房総平氏)および尾張国の長田氏(尾張平氏)などの祖という。

平直良とは?
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%B4%E8%89%AF


平良兼 : 別名は良致。上総太郎または上総次郎。嵯峨源氏の源護の娘を妻とした。甥の将門と仲が悪く、良兼の女婿で妻の甥でもある従子の貞盛(良望の子)とともにこれを争い939年6月に没した。子の致兼(むねかね)・致時(むねとき)兄弟は従弟の将門を滅ぼした戦功で尾張国を賜り、同国知多郡野間郷内海庄長田村の地名をちなんで長田氏・毛利氏(相模平氏/尾張平氏)の祖となった。


この中に出てくる毛利氏とは?
毛利氏 (平氏) : 相模国愛甲郡毛利郷(現在の神奈川県厚木市毛利台)拠点として(相模平氏)、後に尾張国を拠点とした(尾張平氏)。丹姓平氏の平致時の子の致孝・致良父子を祖とする長田氏と同族であり、この家系は戦国時代に織田信長に仕えて、今川義元を討ち取った良勝(新介秀高、致勝の子)と天文16年(1547年)に美濃国稲葉山城攻めで戦死した毛利敦元の孫で、敦秀(十郎)の子の秀頼(長秀)・秀秋(秀政)父子は豊臣秀吉に仕えた。さらに豊臣秀頼の武将として活躍した勝永(良政、勝信(良成)の子)などが出た 。



肝心の【長田氏】
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%95%B7%E7%94%B0%E6%B0%8F

長田氏(おさだし)は、丹姓平氏良兼流致兼の系統で、尾張平氏とも呼ばれる。
尾張国知多郡野間郷内海庄長田村を拠点とした。

同族に、尾張毛利氏があり、庶家に浦野氏とその系統である葦敷氏を中心に尾張山田氏(庶家に尾張岡田氏・足助氏(三河平氏)・尾張木田氏・小河氏(三河小川氏)・平野氏と三河平氏の大浜氏・三河永井氏などがある)。

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加嶋屋 長田作兵衛は、どうなのだろう。新田氏が祖?というが、それならば佐々木氏に近く(経方の妻が新羅三郎)

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村岡とは、どこから始まっていたのだろうか?

高望王の子・平良望(国香王)が常陸大掾(国司)として、現地に赴任したときに平直良は目代として随行したという。

平 良文・良忠(たいら の よしぶみ/よしただ、886年4月29日(仁和2年3月18日) - 953年1月11日(天暦6年12月18日))は、平安時代中期の武将。通称は村岡五郎。官位は従六位下・陸奥少目。

父は丹姓平氏の平直良生母は高望王の末妹で、その5男(末子)である。異母兄は良兼と良広、同母兄は良将がいる。甥の将門(良将の次子)とは年齢が近かったと伝わる。

村岡五郎…三浦氏の祖
そして三浦氏を調べていくと「三浦平大夫為通の子」として「平為俊」がでてくる。
その内容を読むと、、全く「佐々木経方の子」としての「佐々木為俊」である。

https://chibasi.net/miurasoryo1.htm

http://blog.sasakitoru.com/200505/article_14.html

1108年駿河守となったことも同じ。やはり、同一人物なのではないだろうか?

疑問ばかり…の状態。
コメント
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