九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

古文書の中の【等】に関する件

2024-03-04 | 九里【只今の状況・まとめ】



後半部分であるが、二つ『ホ』に似た文字がある。

右件 山林者為観音寺御本尊の敷地幷坊敷寺之寄進〇然者奉存天●(切れている)
〇久兼者御領主の子孫繁富故
領内の沙汰人亙(わたる)存代旨仍寄進〇件(必件?)以下
              
延應元年己亥 十一月六日 地頭沙弥蓮忍

*****

緑の〇は「也」とご教示をいただき、「故也」と分の最後が決まる!

東京大学史料編纂所からアクセスできる「史的文字データベース連携検索システム 」で「等」と検索をかけてみた。

 


河守御荘の寄進文書に中の文字は以下である。


違うようにも、同じようにも見える。

文脈的には「等」で良いようにも思える。


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中郡那珂氏の河辺大夫 / 中郡那珂氏は多氏の系 和邇氏とも

2024-03-01 | 九里【只今の状況・まとめ】

気になる部分をコピペ(略有)して留めて置こうと思う。

河辺〔川野辺〕の地は、那珂川の上流の現那珂郡御前山村東部の野口平(その小字に川野辺がある)を中心とする地とされており…

中郡那珂氏一族がまさしく古代仲国造の宗族後裔であることが分かります。『新編常陸国誌』に引く『丹波志』に「天田郡…金山城主金山大膳大夫大中臣那珂宗泰」という表記も、古伝を記したものと考えられます。

 中郡那珂氏の祖とされる上総介頼継が新治郡の中郡荘六十六郷を与えられ、その子頼経はこれを譲られて中郡を名字とし、その子経高は保元・平治の乱に参加した。鎌倉前期には、中郡荘地頭として中郡氏は幕府の有力御家人となり、承久の乱等で出雲や丹波・山城・安芸等に恩賞地を得た、と系図に記される。中郡荘の下司で中郡氏を称する経高は、『吉記』に見えており、承安四年(1174)には乱行で京に召喚されている。 

鎌倉初期の那珂実久が十一年間京都守護職を務め、丹波・摂津・山城の守護人であったと記載されており、網野氏は十分肯けるとするも、その職掌には誇張があるのではなかろうか。 

中郡那珂氏こそが多氏系であるとの事についても一つ。
大井神社の西・朝房山の北に、古内という地があり、昔は鹿島郷と呼ばれ、鹿島神宮の二十年に一度の修造の用材を採っていた地だといいます。鹿島神宮の宮司も大中臣氏ですから古代においてはずいぶん行き来があった事が伺われて興味深いです。

大和の意富(多臣の本拠で、現田原本町多)は三輪山型蛇神伝説の発祥地・三輪山の真西に位置しますが、常陸では逆に朝房山の真西に意富と大井神社があります。大井神社(=鹿島明神)の祭神には、「建借馬命、木花開耶姫命」があげられます。多臣氏は、神武天皇の皇子神八井耳命の後裔と称しましたが、実際には竜蛇神信仰をもつ和邇氏族の出であったことに留意したいものです。「那賀」は長で、蛇の意味の「ナーガ」に通じますし、「那珂」だと和邇氏族の起源地・筑前国那珂郡にも通じます。
鹿島・行方両郡も仲国造の領域であったとが知られます。


鹿島郷と呼ばれ、鹿島神宮の二十年に一度の修造の用材を採っていた地】と上記にあったが、これは栗の木であったのではないだろうか?

行方郡の三崎荘(海上荘)にいた片岡氏(佐竹の娘聟)も大中臣氏であった可能性もあるのではないだろうか?

*****
memo

丹波国の「浄心」は、雀部荘地頭であり、飯田次郎入道浄心 光信(1271年頃)であり、弟は光長であることがわかった。(祖父?は飯田清重1186年~1200年)

河守荘に関係する人物として「興心」がいる。





雀部荘あたりか ↑


*****

中原久兼が中原久経の叔父か、父か、異母兄か…どのようにしたら解明できるか。。。

久兼、河守御荘に名前があるという事は、大中臣系那珂氏であろうと思う。
だが、系図に久兼の名前はない。

ただ、大江久兼(山城介)の息久家多好方(1130年生)から神楽秘曲伝授されている。
そして、絃管系図なので普通の系図と違うが、伝授したことによる養子となっていることも重要だと思う。


多氏という事は大中臣氏にちかい!

ここかな?と思う。
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典膳大夫中原久経と関係があったような記述の那珂氏 そして「河辺大夫」「中河辺清兼」追記あり

2024-02-28 | 九里【只今の状況・まとめ】
典膳大夫であった中原久経と関係があったような記述の那珂氏
疑問符がついているようなので(「与欠」(一文字)は「~か?」という意味のようだ。)系図を書いている人も確信ではなかったようだ。









那珂経政と兄弟の近藤実広



古くは六浦荘という荘園が設置され、国衙(こくが)や郡衙の支配を受けない私有地であった。六浦・金沢・釜利谷・富岡が4郷から成り立っていた。当初の領家は仁和寺(皇族の門跡寺院領)であったとみられている。現在も真言宗御室派の寺院が東国では珍しく金沢区内に分布している。保元2年(1157年)に源義朝から恩賞として常陸国の那珂実経(大中臣実経)に六浦荘が与えられ領主になったとされている。

武蔵国久良岐
六浦の鎌倉時代の地図が面白い!


*****

今までわからなかった「九里太郎=沙弥蓮忍」は大中臣姓の「那珂五郎三郎経久」であった可能性があると思う。

中原久経とも関係がある。

中は、中原氏でもあり、那珂でもあったことになる。

中原清兼は、以前調べた際には武蔵少掾であった。(1147年)
中原久兼は外記史生(1158年)

大中臣久兼は丞とあるが、1246年という事もあり、別人であろうと思う。

中原久兼は中原清兼の外孫か?で、
久経の兄弟であった可能性もあると思う。

清祐ー清兼ー(娘)ー(娘と近江国中原・宇都宮中原との息か?想像)…久兼・久経ー経政・政経ー経久ー常忍 だろうか。

この久兼か久経が賢清(けんせい?)法名か僧名であったかもしれない。

ともかく、どうやら大中臣の略系図に記述のある金山氏になりそうな気配である。
九里の祖・太郎経久の父経政が【大中臣時連】に養子に入ったことから、か?

1174年生まれの片岡経久の説はどうだろうか。
1232年那珂氏が打撃をこうむった時に、経久が片岡経久とすると58歳の時である。

そして、河守御荘の文書は1239年 65歳の時になる。
在庁官人として因幡国(冨城郷地頭でもあったか?)に赴き、東国に帰ってくる時は1249年あたり 75歳あたりの時となる。
常忍は33歳である。

因みに北条泰時に一万石を頂戴しているが、泰時は1242年に歿している為それ以前となる。

何処か宙に浮いていた感のある中原久経だったが、少しこのようだったかもしれない‥‥という像が浮かんできたようにも思う。

因みに 那珂氏の中に「河辺大夫」と称していた人物がいた。
那珂通直である。

後には佐竹氏の家臣であった時もある那珂氏なので、
片岡氏が周辺にいてもおかしくはないが‥‥

久経は源氏と藤原氏と中原氏と宇都宮氏に関係があり、経政(経任)は想像だが、片岡氏と海上氏・橘氏に関係があり大中臣・那珂氏の養子となり、経久は平(千葉氏)との関係があり、佐々岐荘の下山保の地頭でもあったので、佐々木氏と関係もあったのかもしれない。

さらに、経久か、次世代かには、近江八幡に所領も、後には城(本郷城・久里城)もあり、佐々木氏の許に居たと思われるのである。

そうして近江八幡の九里氏となっていく。




川辺大夫や、中河辺清兼の河辺だが、
坂戸に片柳があり、そこか大宮の片柳が、大中臣氏の「武蔵国方屋木郷」のことのようである。(かたやぎ・郷)

この河辺(川辺)と方屋木(片柳)と繋がりはあるだろうか?
この辺りも河越荘だったのだろうか?

入間川も、昔とは流れも、そして名称も変わっているかもしれない。
今の「越辺川」も鎌倉時代には「入間川」という名であったかもしれない。

*****

東国にいたはずが、地頭として派遣された丹波国・因幡国の地で、その周辺で暮らさなくてはならなくなった。
が、常忍は千葉氏の執事としてと帰ってきているのである。
経久は、東国か、近江か、に帰ってきていると思う。

因幡国冨城郷には誰もいなくなっていた…それで、仕えていた面々が不安になってか、宇倍神社で働くようになってしまっていたようだ。


これからは、しばし
冨城中太の軸足を大中臣にして、調べてみようと思う。

大中臣の中原氏、九里氏であったと仮定してみようと思う。





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天田郡(あまた・ぐん) 金山と河守郷の位置関係 と 寛元四年1246年 大中臣久兼

2024-02-27 | 九里【只今の状況・まとめ】


天田郡の河守郷と赤枠の金山郷(佐々木荘下山保?)

大中臣 金山氏(武家家伝より)


中郡氏は貞永年中(1232ごろ)に、それぞれ大きな打撃を蒙ったようだ。おそらく、幕府内部の抗争による結果と思われるが、その詳細は不明である。そして、那珂氏は那珂西郡のほか若干の所領を残して他は没収され、中郡氏は本領中郡荘を失った。

『大中臣系図』は、逆境に立たされた中郡・那珂両氏の人々が、一門の結束の強化をはかるために、栄光ある祖先の功業を後世に伝えようと企図した。そして、鎌倉時代後期の延慶二年(1309)に、種々の史料に基づいて作成したものと思われる。 

以上が気にかかり、大中臣姓で久兼を調べてみた。
東京大学の史料編纂所のDBに一件のみ、あった。

1246年のことである。


1239年の河守荘の寄進の文書
そして、


那珂実久


実久は頼朝側近の有力な御家人として、元治元年(1199年)には丹波・摂津・山城の守護を兼ね、京都守護職の地位にあった。
1207年頃には執権北条氏との対立から那珂東郡・那珂西郡の惣地頭職と京都守護職などを失った。しかし那珂郡内の地頭職は那珂氏が掌握しており、那珂東郡の惣地頭職こそ北条氏の手に渡るものの、那珂西郡の惣地頭職は回復した。

時連の息経政は養子である。
経政が、経任だったのだろうか。

と調べているうちに、大きな私的発見があった。(つづく)

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武蔵入間 河越荘内 河辺郷もあった。(過去の自分のブログ内に)

2024-02-26 | 九里【只今の状況・まとめ】

「1186年の初見だが、武蔵入間 河越荘内にも河辺郷がある。」
(何の本だったのだろう…)
古文書は見つからなくとも、1186年以前からあったともいえる「河辺郷」

信濃 [第3次] 32(12)(372)著者信濃史学会 編

出版者信濃史学会出版年月日1980-12












河越荘内の河辺郷は見つからないが、青海線に河辺駅があるので、この辺りまで河越荘だったのかもしれない。

他にも備中国・美作国の河辺 他にも多々この地名はある為、また何かの機会に掘り下げたい。



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美濃国加茂郡河辺荘は室町時代から / 中原清祐の土地

2024-02-25 | 九里【只今の状況・まとめ】
美濃国加茂郡河辺荘は室町時代から…という事がわかった。

(川辺町史 通史編 著者川辺町史編さん室 1996.2)


という事は、中河辺という地名は 下河辺に付随していた場所(新方)の別称であったか、近江国高島郡の安曇川の比叡荘の中の中河辺か…

新たに見つかったのが出羽国?秋田県の中河辺か。

そこは少し横に置くことにして、

中原清兼の父と思われる清祐のことである。
中原清祐に関しては土地の売却に関する資料幾つか…しか出てこない。その土地について調べてみることにした。(地図 ●11番)






六角室町の中原清祐の土地

隣に「了頓図子」とあるが、これは三条通から六角通に抜ける路地だそうだ。(京都通百科事典)

廣野了頓という人物がこの辺りに住んでいたそうである。

波多野義通の妻の妹であると仮定し、妻とその妹の実父は中河辺清兼と仮定する。
中河辺清兼は、中原であり中原清兼のことと思う。

波多野忠綱の母も宇都宮宗綱女であり、波多野氏と宇都宮氏(中原氏を含む)は重縁である。

其の中原清兼の父が中原清祐である。
この清祐の先祖から相伝として受け取った土地が六角室町であったのだ。1135年に西面を・後に西角を売却する。

購入者は此の武元である。(+家族らしき人名は以下)
1096年 秦武末
1116年 秦武元
1116年 秦延國

関係するのが一番下の本部分である。
秦武元佐伯氏とあり、秦武元の後家に渡っているようである。
その佐伯氏とは、波多野氏の先祖でもあるかもしれない。
どうも、此処が秦氏と佐伯氏(秦氏・波多野氏)そして清祐・清兼と波多野氏の関係を示唆しているように思える。

波多野義通の父は波多野遠義で、母は藤原師綱女である。
母方の系は遡ると道長に通ずることになる。
その道長ー兼家ー道兼ー兼隆ー兼房ー宗円となり、宗円から宇都宮氏となる。
兼隆の正室が佐々木氏につながる源扶義女である。(兼房の母)
兼房の妻には大江匡子(江侍従)(大江匡衡女)となる。

宇都宮宗綱(八田宗綱)の養父が宗円である。
宗綱は中原宗綱ともいえる。中原宗家が実父となる。

   


      


 

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松田義経(義常)の母 中河辺清兼の女 其の女性の妹が源朝長・中原久経の母として…

2024-02-23 | 九里【只今の状況・まとめ】
今、何故中河辺清兼を調べているかというと、「波多野義通の妹」が源義朝の妻であり、朝長の母である…の妹に義妹という意味も入っていると仮定した為である。

私としてはかなり可能性が高いと思うのだが、中河辺清兼は中原清兼であり、そうなると宇都宮氏と関係のある中原氏なのではないか?となる。

松田義経(義常)の母 中河辺清兼の女であり、其の女性の妹が源朝長・中原久経の母となっていたと仮定する。



そうなると、源義朝と離縁した後に姉と共に松田に居住し【松田殿】と呼ばれていたとしても何の不思議もない源朝長となる。

女性の里で暮らすことの多かったと思われる時代ではあるが、何故「松田」なのかを考えると、以上が自然である。

中河辺であるが、中・河辺、とも考えられる。
中原氏の河辺清兼。
だが、検索では有力情報は得られなかった。

また、前回の東山道の美濃国加茂郡中河辺‥‥は昔は違う名称で、江戸時代に中河辺という地名が出てくるので、この情報はボツである。
が、河辺荘はこの場所に存在し、中原の意味の中のついている中河辺清兼…という事は考えられる。

一番自然なのが、下河辺荘に付随する新方と呼ばれた場所
次に自然なのが、近江国安曇川の比叡荘中河辺
三つ目に自然なのが…美濃国加茂郡河辺荘(1300年代には近衛氏の領地)
であろうと思う。

上の二つは宇都宮氏と関係する。
下は、土岐氏の所領の範疇であったかもしれない。(麻生荘の隣)

中原清兼ー久兼ー久経ー経久ー経重ー秀重ー秀宅・・・・と続き、
その経久が九里太郎=沙弥蓮忍である…と結論付けたいところだが、私の想像上だけの話である。

富木常忍のごく親しい人物に「中原能兼」がいる。
親戚ではないかと思っている。

また、三左衛門事件で後藤基綱と共に中原政経・小野義成(一条能保の家に仕えていた三人)もいたのだが、其の後藤基清の息基綱の妻として大江能範の娘が嫁いでいる。
此の後藤氏が後に尾藤氏にも繋がっていくそうである。

つまり丹波(丹後)の河守荘とかかわりを持つことになるのである。


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中河辺清兼=中原清兼 デアロウと思うが… 

2024-02-23 | 九里【只今の状況・まとめ】
宇都宮宗房ー源季長=小野季長かと思うが。まだ調べている最中である。
宗房は中原氏出身で、外記、造酒正といった職を経た後、藤原璋子に仕えた。
宗房には坂戸源氏源季範の養子となった源季長、源季範の子である源季国に嫁いだ女子、下野宇都宮氏の宇都宮朝綱とほぼ同世代で宇都宮信房の父である名前不詳の男子といった三人の子がいた。(wikipediaより) 

其の季長の関係者(土地の売り手)が中原清祐か清兼の娘であろうと思う。

1150年に六角室町の北側の西面を秦武元に売ったのち、まだ西角が残っていたのか、1172年にその西角を中原氏女が小野季長に売却している。


もしも源季長と小野季長が同一人物ならば宇都宮氏と繋がりがある中原氏…という事になるのではないだろうか。


   







(1160年)



(1166年)


宇都宮氏と小野氏も伝承によると関係が深そうである。
宇都宮朝綱の領分に…猿丸大夫の末孫あり…とある。
詳しくは、難しくてよくわからないが‥‥小野と称させることで、季長をその領分内に居させていた…なんということはないだろうか?(私のいい加減な説)







この清祐・清兼はともに【清】がつき、その始まりは清原系の可能性もある。

あくまでも予想だが、
清兼ー久兼
久兼ー久経
久経ー経久
経久ー経重
経重ー秀重
秀重ー秀宅
と続くのではないだろうか。(経久以下は系図あり)

宇都宮宗房、孫の信房とどこかに接点があるとすると、この周辺も可能性があろうと思う。

東山道の中に中河辺という地名があった事も、此処に書き留めて置く。


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中河辺清兼は比叡荘中河辺の関係者ではないだろうか?

2024-02-22 | 九里【只今の状況・まとめ】
中河辺という地名は近江に存在する。(他の地域でもあったかもしれないが、まず近江国から。)

近江国であるならば宇都宮氏に関係する人物かもしれない。
その辺りがどうなのか調べてみたいと思う。

近江国の中河辺は【比叡荘中河辺者…】という貞永元年(1232年)の記載が残っている。

その後、井氏と関係があった事の記載が残っているので、九里氏とは近い感じもする。しかも安曇川側の北船木庄にも関りがある。
もしも、この比叡荘の中河辺という地名であれば、中原が関わっていた可能性もある。そしてさらに賀茂氏の担当の供御人とも関りがあったのではないだろうか?

しかし、比叡荘中 河辺者 とも読めるため、確証には至っていない。

また、
下総国葛飾郡下河辺庄に「中河辺」という地名もあったのではないか?と思ったが、
wikipedia等には、
「上流域(茨城県古河市周辺)を「上方(野方)」、下流域(埼玉県久喜市から千葉県野田市を経て埼玉県三郷市に及ぶ地域)を「下方(河辺)」、大落古利根川と古隅田川と元荒川に挟まれた地域を「新方」に三分されていた。」
とあり、真ん中部分は「新方」と読んでいたそうである。




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天〇地久兼者(は)‥‥ 天養という時代? 地 久兼か?(地名)

2024-02-15 | 九里【只今の状況・まとめ】

何度も見ているが、肝心なことは久兼の部分に付随する「天〇」と「地」の部分と思う。

そこは、名字かと思ったが、違うような気がする。
天義にも見えるが、天養という時代のことであったかもしれない。
また、地「久兼」という地名もあったかもしれない。

地名とすると、より自然かもしれない。

地久兼…調べてみると、鷲頭近江守という人が住んでいた日坂という場所で銅が採れ「久兼」となった…という例があった。(現在の山口県の例)


銅‥‥大江山も銅であったような…

もう少し調べてみようと思う。



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