九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

宇都宮(八田)宗綱の 弟の 中原宗房 に関して

2020-05-03 | 宇都宮氏

「致」と言う漢字は「むね」と読むことを昨日知った。
中原には「致」のつく名前が通字としてある。



何方が書かれたよくわからず、何かの教科書のような雰囲気もあるものが、web情報にあった。
その中の文である。

中原広致が=中原広宗であるならば、この名前には見覚えがある。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%AE%97

「広宗の父は中原貞親であり、中原師任の養子であり、その中原貞親の実父は【尾張宿禰秋時】である。」「大外記・貞親の息。従兄弟に師遠。息に広忠。」

つまり、中原信房は頼朝の大事にしていた熱田神宮の尾張氏にも、大江広元の養父と思われている中原広季にも通じる系の人物(中原広致=広宗)の婿となったことになる。

其の信房は、宗房の子か孫という。さらに広宗の息広忠の息が「忠順」「広季」である。

九里の村のあった場所がいつから「隋心院の門跡院領」であったのかはわからないのだが、やはり随心院大僧正であった大江親厳がきっとそのことと関係があると思う。忠順・広季の弟の親光の息である。


https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%A6%AA%E5%8E%B3



「坂戸源氏源季範の養子となった源季長、源季範の子である源季国に嫁いだ女子、下野宇都宮氏の宇都宮朝綱とほぼ同世代で宇都宮信房の父である名前不詳の男子といった三人の子がいた」とつながってくる。

この宇都宮・八田・中原の系と大江広元や親厳の周辺と「広致」がつなげていたのだ!!



そしてこの信房は、近江国善積荘を頼朝から賜わっている。
ここに湖西とのつながりができたのだ。

さらに坂戸源氏を調べると、源河内守公則が祖であり、後藤氏と関係が深いらしい。さらに遡ると 武家家伝 肥前後藤氏 
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/51-60/goto.html

後藤氏
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/b5f1db0c2cfbf9f9eae2ac7ee1ed239c

藤原公則
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E5%89%87







コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮氏を中心において考えてみると‥‥

2020-05-01 | 宇都宮氏

家と家のつながりをごく単純につなげると、

小山政光の後室に宇都宮朝綱か八田宗綱の娘・寒河尼 …… 結城朝光の母
波多野義通の妻に宇都宮宗綱女 …… 寒河尼の姉妹か 

小山朝政の妻に千葉胤政の娘 …… 姉妹には樹興院、加々見遠光妻がいる。
土岐光行の妻に千葉(東)胤頼の娘  …… 片岡経春の海上荘は東胤頼の所領となる。
土岐七郎光家の妻に千葉成胤の娘 …… 千葉胤綱の妹である。
佐々木信綱の妻に千葉胤綱の娘 …… 佐々木氏が京極と六角に分かれる前の代である。
                  九里はもうすでに佐々木氏についていた。
千葉(東)六郎左衞門の妻に佐々木泰綱(出雲佐々木氏)の娘 …… 東胤行か行氏の娘と思われる。

東胤行
東氏三代。二代東太郎兵衛尉重胤の子。通称は六郎。母は不明(父・重胤の妻は下河辺行綱娘との伝があり、胤行の「行」字がその片諱とすれば、母は下河辺氏かもしれない)。妻は二条権大納言為家娘と伝わっているが、あくまで伝承である。

小山氏
宇都宮頼綱 小山政光の養子になる。

この辺りは、和歌好きの集まり・・・という婚姻関係。千葉氏HPに系図がある。
http://chibasi.net/tou1112.htm#taneyuki

隠岐太郎は「佐々木政義」と「土岐国時」がいる。
東胤行の娘は、政義の姪という事になる。  

佐々木政義は義清(佐々木秀義の六男と母は大庭景親娘)の長男 …… 大庭景親の娘は波多野義常室である。義常の父は波多野義通、母は中河辺清兼娘、叔母には義朝の妻で、中原に嫁いだ久経の母がいる。

土岐国時は光定の(土岐光行と母は東胤頼娘)長男であり隠岐太郎。

政義の叔父定綱は宇都宮氏に寄寓していた。

===*===

小山朝政の母は寒河尼で、宇都宮氏(中原氏)
そこに、千葉胤正の娘が来たので、千葉氏とのつながりができた。

土岐氏は、光行の妻に東氏が入り、土岐氏と千葉氏小山氏とのつながり、その先の宇都宮氏とのつながりも出来た。

佐々木氏は、定綱が宇都宮氏に寄寓していたため、宇都宮氏と、婚姻関係のある千葉氏とのつながりができた。
その先に小山氏・土岐氏、もいた。

其の佐々木定綱の息信綱の妻には北条義時の娘が嫁いでいた。
義時の息が泰時で、母は阿波局と言われているが、「出自は加地信実の娘に阿波局がみえる。」そうである。

とすると、佐々木盛綱の息信実の娘が北条義時に嫁いでいたことになる。それに関しては諸説ある様だが、加地信実と私も思ったのだが、年代が合わないように思う。

北条泰時1183年生まれ
佐々木信実1176年生まれ、その娘では不可能。

という事は、加地氏とはここでは関係がない。

ここに、面白い試論があったのでご紹介したい。なるほど!である。国土政策研究会会長 岩井國臣氏著
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yasutokini.pdf

===*===

話がそれたが、
佐々木信綱の妻に北条義時の娘が入り、ココで北条氏とも繋がる。

===*===

寒河尼
保延3年(1137年)- 安貞2年2月4日(1228年3月11日))
八田宗綱か宇都宮朝綱の娘。小山政光の後妻で、結城朝光の母。源頼朝の乳母も務めた。

佐々木氏には宇都宮朝綱に娘婿として入っている人物がいるはずなのだが、それが定綱カ?と言われているが、佐々木定綱が宇都宮に寄寓という事からも、そう考えられると思うのだが、、、

佐々木氏に関しては、
二男経高の母は宇都宮氏で、後に波多野氏に居たようである。
三男盛綱は渋谷氏に、
四男高綱は京の吉田にいて、
五男義清も母が渋谷氏であったため渋谷か大庭氏のもとに居たと思われる。
六男巌秀はよくわかっていないようだが京の吉田か、または、私は鳥居禅尼の所にいたのではないかと思っている。

===*===
ーーー:---
===*===
 memo

盛綱の息に「盛季」がいて、野村郷を領したことを4月28日の記事に書いたが、其の野村郷の場所は、
# 近江国栗太郡野村(滋賀県草津市野村)をルーツとする野村氏は、宇多源氏の佐々木氏流で佐々木盛綱の子の盛季が野村氏を名乗った。と苗字の由来のページにあった。
https://folklore2017.com/511.htm

が、①現滋賀県である近江国浅井郡野村庄が起源(ルーツ)である。という説も、名字由来netにある。

この野村氏は後に「立原氏」(橘紋)につながっていくようである。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tatuhara.html






コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

富木常忍の親戚! 秋元太郎

2020-02-29 | 宇都宮氏

千葉県デジタルアーカイブ より
房総叢書
紀元二千六百年記念― 第1巻 縁起及古文書
刊行年 昭和18年(1943)

ジャンル 千葉県史(全般)
書誌事項 下総式社考18ページ,上総国神社志料39ページ,安房国神社志料54ページ,香取私記抄76ページ,正倉院文書抄80ページ,中山法華経寺文書99ページ,真間山弘法寺文書106ページ,総寧寺文書109ページ,観福寺文書118ページ,下総大慈恩寺文書126ページ,安房国妙本寺文書131ページ,大巌寺・本土寺・東漸寺文書159ページ,神崎神社文書162ページ,大須賀文書166ページ,大戸神社文書167ページ,船橋大神宮文書168ページ,簗田文書170ページ,金沢文庫古文書抄174ページ,上杉家文書抄209ページ,毛利家文書抄215ページ,常総遺文217ページ,房総古文書雑纂234ページ,(以下解説のみ)香取文書纂・清宮秀堅遺稿下総文書・大久保文書256ページ

ここのデジタルに、今まで読みたくとも読めなかった文書があった。
岡田元繁が寛政6年に寺を訪ねて先祖の原氏系図を見に行った時の記載と自分の先祖の系図を追記したものである。





他、常忍の親戚に【秋元氏】がいることがわかった。
調べてみると秋元氏は宇都宮氏の一族であるそうだ!

秋元太郎兵衛尉 あきもとたろうひょうえのじょう
日蓮大聖人御在世当時の門下、下総(千葉県)印旛郡白井荘の人。文応元年(1260)、日蓮大聖人が松葉谷(まつばがやつ)の法難に避けて下総中山へ行かれた時、化導されたと伝えられている。正応4年(1291)9月17日没。その家は秋本寺(しゅうほんじ)となった。曾谷氏や大田氏と親しく、富木氏とは親類であったともいわれている。日蓮大聖人から「秋元御書」等をいただいている。
秋元氏(あきもとし)は、日本の氏族。本姓は藤原氏で宇都宮氏の一族と伝える。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%85%83%E6%B0%8F

富木常忍 開祖
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E7%8E%8B%E5%AF%BA_(%E6%9D%B1%E9%87%91%E5%B8%82)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮宗円

2019-12-04 | 宇都宮氏

宇都宮宗円(コトバンク)

中世の下野国の豪族。出自については,下毛野(しもつけぬ)氏,中原氏,藤原氏など諸説がある。家伝では大織冠藤原鎌足の後裔で関白藤原道兼の流れをくみ,道兼の曾孫宗円が前九年の役のとき下野国に下向し,宇都宮座主となったのにはじまるという。下野一宮の神主を世襲して下野国中央部に勢力をもち,宗円の孫朝綱は平氏に属し,さらに後白河院の北面をつとめたとされる。朝綱はのちに源頼朝に従って各地で戦功をあげ,宇都宮社務職を安堵されて宇都宮氏発展の基礎を築いた。…

宇都宮宗円 wikipedia
父母 父:藤原兼房 母:源高雅娘
兄弟 兼仲、宗円、左大臣家少輔、静範、円範
妻 正室:益子正隆娘
子 養子:八田宗綱、中原宗房

父の兼房
父母 父:藤原兼隆、母:源扶義の娘
兄弟 兼房、定房、円意、行禅、観円、慶増、敦平親王妃、源良宗室、女子二人
妻 源高雅の娘
大江匡子(江侍従)(大江匡衡の娘)
子 兼仲、左大臣家少輔、静範、円範、宗円?

===*===

この大江匡衡の娘匡子が産んだ子だったのではないだろうか?=宗円
その縁で孫である宗綱と宗房が中原氏へ養子に入ることになり…という事はないだろうか?


藤原兼房の父は兼隆で、妻が源扶義の娘。
この源扶義の息が源 成頼(みなもと の なりより)である。
平安時代中期の貴族。宇多源氏、参議・源扶義の長男。
官位は四位・近衛中将。古くから佐々木氏の祖とされ佐々木成頼とも記される。

===*===

佐々木氏とのつながりは後日とし、その宗円の養子が宇都宮中原宗綱と言われている。
八田宗綱のことである。

後白河院庁主典代の中原宗家。
藤原兼房の妻大江匡子が宗円の養子に宗綱(宗房もか?)を中原宗家から養子にと迎える手はずを整えたのかもしれない。

中原宗家の息宗綱が、藤原宗綱でもあり、宇都宮宗綱でもあり、中原宗綱でもあるのは、そのような理由によるものなのではないだろうか。
又宗綱の弟宗房も中原姓であり、宗円の養子である。

===*===

さらに、宗綱の子どもには、宇都宮朝綱・八田知家・寒河尼がいる。
寒河尼は小山政光の後室であった。
女房として近衛天皇に仕えた経歴をもっていたという。
(寒河尼は他の説では朝綱の娘というのもある。)

平貞能の母親が宇都宮氏であったことや朝綱を頼って東国へ来たことも含め、その貞能の母は寒河尼の姉妹かも知れないと思う。年代的にはもう一代前かもしれない。
寒河尼は1138年生まれと言われている。
貞能が東国に来た頃は、寒河尼は47歳、貞能はいくつだったのだろう。50代か60代だろうか。


小山政光と寒河尼の息に朝光がいる。
その朝光の息に時光・重光・朝村がいる。母親が千葉介業胤の娘とある。
千葉成胤のことと思われる。
朝村は出家法名を連忍という。結城上野十郎朝村ともいう。

さて、九里の祖 中原蓮忍入道と重なるのだろうか。
以前は別人と判断したのだが、周辺事情があってきた。

年代が1256年に出家とあったので別人としたが、、、、

追記だが、小山政光の養子に「宇都宮頼綱」がいる。実父は業綱(朝綱の息)と言われているようである。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中原宗政(宗忠)ー 中原宗家 - 宇都宮・八田・中原宗綱 か?(追記)

2019-12-02 | 宇都宮氏

藤原宗円の養子が「八田宗綱」とある。
実父は…藤原兼仲といわれている。宗家の名は出てこない。

同じ「宗」が付いていることからも、近い関係であったかもしれない。
この辺りは不詳なことが多いようである。

さて平貞能(平清盛の家令)の平氏を離脱した後の模様がwikipediaに出ていた。
「平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した(『吾妻鏡』7月7日条)。この嘆願は認められ、貞能の身柄は朝綱に預けられた。北関東に那須塩原市の妙雲寺、芳賀郡益子町の安善寺、東茨城郡城里町の小松寺、そして南東北でも仙台市の定義如来など貞能と重盛の伝承をもつ寺院が多く残されているのは、貞能の由緒によるものである。 」

なんと、貞能の母親は「宇都宮氏」であった。

栃木県益子町の安善寺は1194年に貞能が創建したものだそうだ。

朝綱が預かっていたこの貞能。彼の母親は、宇都宮氏の誰だったのであろうか。

追記

上記の恩義とは
「『吾妻鏡』(文治元年7月7日条)によると、一族が源氏方に付いた事から平家の棟梁平宗盛に拘束されたが、平家の家人平貞能のとりなしによって宇都宮朝綱と重能、有重は東国へ帰国したという。『平家物語』では一門都落ちの際に平知盛が、『源平盛衰記』では宗盛が重能・有重兄弟を諭して帰郷させたとしている。 」(小山田有重のwikipedia)

「元暦元年(1184年)5月24日、朝綱は平家の家人・平貞能のとりなしで帰国を許されて頼朝に従い[2]、本領安堵のうえ伊賀国壬生野郷の地頭に任じられた。同年11月14日)、平氏追討の功で佐々木盛綱等と共に西国に所領を賜る。 」(宇都宮朝綱のwikipedia)

この部分が当たると思われる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮氏の猶子・養子

2019-09-29 | 宇都宮氏

宇都宮業綱の周辺は以下のようである。

業綱は宇都宮朝綱の息
業綱の妻は平長盛か忠正
業綱の息は 頼綱、業綱、永綱、塩谷朝業

頼綱は小山政光の猶子となる(政光の妻は寒河尼…朝綱の妹)

朝業は塩谷氏の養子となる

頼綱の妻には牧の方の八女 息は宇都宮泰綱
泰綱の妻は北条朝時の娘


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮氏の家臣であった【益子氏】(3)

2019-09-02 | 宇都宮氏

益子氏は、2015年の産経ニュースに記事が載っていて、片岡氏を名乗るようになっていくようなのである。

https://www.sankei.com/life/news/151031/lif1510310003-n1.html

伊勢神宮内宮の神官による佐八(そうち)文書は、最大支援者だった宇都宮家臣団の動向を伝える。いわば顧客リストである。この中で、「片岡駿河守殿」を「ましこ殿之事也(どののことなり)」と記している。

但し、戦国時代のことのようなので、あまり九里氏と関係はないかもしれない。。。。

もうひとつ、
権現山城の益子氏(下河辺氏、志筑氏ともいう)の族、という記載があった。
八郷町誌

…益子氏が下河辺氏ともいう、これは重要だと思う。

何故源頼政・源光重(深栖氏)が下河辺氏とつながっていたのか、がわかる。

下河辺氏は藤原秀郷の子孫でありながら、紀姓でもあったのだ!!

頼政も石清水八幡宮の紀氏や紀姓の池田氏と近い。

さらに武家家伝の摂津池田氏に以下のような記載もあった。

「ときあたかも南北朝の戦乱期にあたり摂津守護は楠木正成で、のちに教依は足利尊氏から本領安堵をうけた。教依は楠木正成の嫡男正行の遺児教正を引き取って育て、のちに池田氏の惣領としている。ここに、池田氏は橘姓になったことになる。
 このように池田氏の系譜を見ると、古代豪族に発して紀氏、清和源氏、橘氏と変化し、ひとつの家とはいいいながら時代の流れによってさまざまに変貌している。」

ココに橘姓となった池田氏がいた。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮氏の家臣であった【益子氏】(2)

2019-09-02 | 宇都宮氏

益子氏 wikipediaより
益子氏の本姓は紀氏。家系は孝元天皇の血筋で応神天皇、神功皇后の大臣であった武内宿禰の末裔である。遠祖は諸説あり、大納言紀長谷雄、征東大将軍紀古佐美あるいは土佐守紀貫之ともいわれる。下野守護 宇都宮氏の重臣で同国の有力武士団 紀党の棟梁でもある。下野国芳賀郡益子邑を拠点に600町を有し、西明寺城をはじめとする八木岡城、上三川城諸城の城主でもあった。家紋は左三つ巴、隅切り角に左三つ巴、子持ち左巴、丸に片喰、丸に下がり藤、丸に三つ引き

益子氏は紀貞隆の次男益子正隆を初代とし、三代益子正重は源頼朝が奥州藤原氏打倒の兵を挙げた際に宇都宮朝綱を大将に奉じ2万の兵を率い従軍、益子氏の率いる紀党と芳賀高親率いる清党がともに宇都宮氏の属下として抜群の武功を顕わした。

この時、益子氏と芳賀氏は頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られたことが後世まで益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となった。

この益子氏率いる紀党芳賀氏率いる清党こそ宇都宮氏幕下の二大武士団 紀清両党として知られるようになったのである。

とりわけ、益子氏の隆盛の基盤となったのは、後に下野守護職を世襲する宇都宮氏の祖 藤原宗円の母が益子正隆の女であったことによるところが大きい。鎌倉時代を通じて宇都宮氏が下野国内で大名化するにつれ、益子氏は宇都宮氏の重臣かつ下野国芳賀郡益子城主としてその武力を支えたのである。益子氏の家紋は主家・宇都宮氏同様、左三つ巴であり、おそらく主家から拝領したものと考えられる。

武家家伝では「紀姓益子正隆が、外孫である宗綱が宇都宮宗円の養子となり、宇都宮氏に入ってから益子における支配力を強大化させた。」とある。

紀宗頼は「紀ルーツ」の中では、見にくくしてしまったが、1262年大旦那益子郷名主 紀宗頼とある。


年代が合わない紀宗頼、また、中原宗頼も出てきて、この名前も人気があった時代かもしれない。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇都宮氏の家臣であった【益子氏】(1)

2019-09-02 | 宇都宮氏

まず、佐々木氏と宇都宮氏の関係の復習。(佐々木哲氏のメルマガより)

平治の乱後には父秀義に随い東下して、はじめ下野の豪族宇都宮朝綱の許に寄寓した。父秀義の妻のひとりは宇都宮宗円女とも伝えられ(次郎経高母)、定綱も朝綱の女婿に迎えられたのであろう。しかも朝綱は後白河院北面であり、定綱の動きは後白河院と連動していたと考えられる。


宇都宮氏は実質的に宇都宮座主宗円に始まるが、宗円は下野・常陸の境を流れる衣川(鬼怒川)流域に勢力を張った紀清党益子氏を妻室とし、また養子宗綱は常陸平氏嫡流大掾棟幹(多気権守宗基)女を妻室として八田権守を名乗ることから、下野から常陸西部まで勢力を張っていたことがわかる。



藤原道兼―兼隆―兼房―宗円―八田宗綱(実父藤原兼仲)―宇都宮朝綱



実は、宇都宮氏の祖藤原兼仲・宗円兄弟の父中宮亮藤原兼房は、関白藤原道兼の孫で、中納言藤原兼隆(藤原道長養子)の子であり、母は参議源扶義女であった。源扶義は左大臣源雅信の四男で、宇多源氏佐々木氏の祖である。また兼房の妻は醍醐源氏の中宮亮源高雅女であるが、高雅の妻藤原親明女は藤原道長室の源倫子(左大臣源雅信女)の乳母子であり、高雅も道長の家司をつとめた。宇都宮氏は広く佐々木氏の閨閥に含まれていた。



藤原親明―源高雅室(源倫子乳母子)―藤原兼房室―宗円



父秀義が渋谷氏に寄寓していただけではなく、太郎定綱は下野宇都宮氏に、次郎経高は相模渋谷氏、三郎盛綱が相模波多野氏に寄寓したように、佐々木氏は本領を失ったとはいえ、豪族級東国武士に寄寓できる一族であったことがわかる。あるいは佐々木父子の東下は、後白河院の反平氏工作の一手だったのかもしれない。

定綱は近江守護に補任されるとともに、本佐々木成綱(木村氏)は総管領定綱の支配下となった(『吾妻鏡』文治元年十月十一日条)。のちには石見・長門・隠岐守護も加えられている。また次弟経高は淡路・阿波・土佐守護に、三弟盛綱は上野・越後・伊予・讃岐守護に、四弟高綱は伯耆・因幡・出雲・備前・安芸・周防・長門・日向守護に補任された。のちには五弟義清も出雲・隠岐守護となり、隠岐佐々木氏の祖となっており、また三弟盛綱の嫡子信実は越後守護代であったため承久の乱で北陸道副将となり、その功績で備前守護に補任された。こうして、佐々木兄弟で十七カ国の守護に補任されたと伝えられるようになった(『吾妻鏡』弘長元年五月十三日条)。

===*===

長く引用させていただいたが、佐々木氏と宇都宮氏は密につながっていたようである。
そして、今まで気が付かなかった一文「本佐々木成綱(木村氏)は総管領定綱の支配下となった」
ココが後に関係してくるように思う。

~~~*~~~

宇都宮氏の庶流に【益子氏】がいる。
其の祖は【紀氏】であるそうである。

‥‥という事は、近江国の「井・一井・市井・櫟井・櫟」らと同じである。(和邇氏ではあるが…)
また、木村氏も、そうである。浅小井・伊庭氏も。

上総守紀盛宗の娘が【佐々木行定=佐々木宮神主】(1084-1139)の母親である。
さらに【行実=佐々木三郎大夫】の母親も同じである。この行実は「居蒲生郡井之村」と書かれている。(宝賀寿男著 古代氏族系譜集成)

が、web紀ルーツさんのページでは、違っているので、系図を載せさせていただくことにしよう。



行定と行実の母は誰かはわからず、行定の妻が紀盛宗の娘、源行方の妻が紀盛親の娘となっている。

さらに同じwebページではあるが今度は、行実の妻に紀盛親の娘となっている。が、年代が1190年頃とあるので、どうだろうか。。。


亀山こども歴史館では、以下のように記載がある。これによると1190年は妥当であろうと思われる。

紀盛親・藤原愛子(きの もりちか・ふじわらの あいこ)
840年ほど前に和田荘(わだのしょう)(和田町ふきん?)に住んでいた人。1175年7月に稲生神社(いのうじんじゃ:鈴鹿市)にお経をおさめています。

毛越寺で残されている文書「紙本墨書大般若波羅蜜多経第二十七巻」にも紀盛親が出ている。

紙本墨書、1行17字詰(17紙)の冊子装折本である。
巻頭に大般若波羅蜜多経第廿七和田庄住紀盛親藤原氏愛子等巻末に承安四年歳次八月十七日辛未始之奉為□福王宮御寶前安置他甲午大勧進僧連圓善恵房安元二年乙未八月廿三日奉加鈴鹿郡和田御房住紀盛親藤原氏愛子等執事僧 寛慶の墨書がある。
奥書4行も同一筆跡で、承安4年(1175)8月17日云云安元元年(1175)8月23日云云の記事がある。
藤原秀衡全盛時代である。
この時代の写経折本としての代表的な書跡で、貴重な資料である。

そして、この名は重要であった。
蒲生郡志に「紀氏が奥島に住せしは長命寺文書」と盛親の段で述べられていた。

大日本史料には「左衞門府生紀盛親」「右史生中原經景同左史生紀盛親」とある。
この中原景経のことかもしれない。

増補史料大成には「醫博士丹波忠茂、木工允藤式光,中原光氏、源口房,源康房,藤近宗,刑部丞源行宗、木工察功、中原時繼、同功,兵部丞藤忠淸"錄橘助延,源俊定、民部大丞紀朝久、中原盛澄,少丞角鹿赏^、治部丞紀盛親」とある。

かなり九里氏に近いではないか!!

では、益子氏も確認してみよう。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧の方の孫=宇都宮泰綱

2019-06-30 | 宇都宮氏

宇都宮氏に「牧の方」の孫が!

https://reichsarchiv.jp/%e5%ae%b6%e7%b3%bb%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88/%e5%ae%87%e9%83%bd%e5%ae%ae%e6%b0%8f#yorituna1259

http://www.hanagatamikan.com/hollyhock/warrior/hojo.html


継室 牧の方(牧氏) 五女 平賀朝雅室/源国通室
            七女(?-1216) 三条(滋野井)実宣室
            八女 宇都宮頼綱室/藤原師家室
            政範(1189-1204) 通称遠江左馬助



宇都宮頼綱(コトバンクより)
没年:正元1.11.12(1259.12.26)
生年:治承2?(1178)
鎌倉時代の武将,歌人。法名蓮生。宇都宮成綱の子。祖父朝綱の公田掠領の罪に連座して配流されるがまもなく許され,若くして鎌倉幕府有力御家人宇都宮氏の当主となり,北条時政の女婿となった。

しかし,元久2(1205)年,時政の後妻牧の方の平賀朝雅将軍擁立事件の際嫌疑を受けたため出家,異心なきを示し許された。

こののち浄土教に帰依,弟の信生(塩谷朝業)と共に法然の高弟証空の弟子となり,西山教団と深くかかわる。

宇都宮氏の財力を背景に往生院の再興や法然の遺骨護持などに尽力,一方幕府による寺院造営にも加わるが,主として京に住む

藤原定家と結び,その娘は定家の嫡男為家の室となるなど,御子左家と連携。
嵯峨中院に山荘を営みその障子和歌を定家に依頼したものが,いわゆる百人一首かとされる。

その八十賀には為家らが詠進。蓮生,信生らのこのような京都歌壇とのかかわりが,宇都宮歌壇という特異な文化圏の形成をもたらした。
自身も『新勅撰集』以下の勅撰集に39首入集。
宇都宮歌壇の『新和歌集』入集数は集中最多。

定家の『明月記』にその子宇都宮泰綱の「厳父」とある。<参考文献>外村展子『鎌倉の歌人』
(田渕句美子)

牧の方の八女が宇都宮頼綱に嫁ぎ、泰綱をもうけているという事になる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする