九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

片岡常春・経春・経治 ・・・ 大中臣輔経・親定・親仲・親経・経隆 

2022-08-13 | 片岡氏

三崎荘(三前郷と記載)

在地領主は平安時代末期には片岡氏であったが、『吾妻鏡』文治元年(1185年)10月28日条によれば、片岡常春佐竹義政に同心して源頼朝謀反を企てたかどで当荘を収公され、代わって千葉常胤に与えられ、その後は千葉氏一族が領有した。

 

 

 

校訂源平盛衰記によると【片岡経春】は【片岡経治】となっている部分もある。為春は常春の父…ともある。

義経に相従う輩のなかに片岡経治と片岡八郎為春の名が残っている。

他にも片岡兵衛経俊・片岡兵衛経忠という名も見える。

片岡弘経も。

片岡八郎義泰という名も見える。(経春の佐竹用の名前か?佐竹は「義」が通字と思われるので。)

 

この本には記載はないが、

親鸞時代に弟子になった「片岡信親」「片岡信広」という名もあったはずである。

「藤原尾張権守片岡信親と称し、鹿島神宮の大宮司であった。」とある。(順信)

また、順信の弟で上野国片岡郡の城主片岡親綱。領海。乗然房

 

以前片岡経春か為春の項に「上野国に所領がある」とあったような記憶がある。

または、つながりがあるのだろうと思う。

更に、この上野国の人物「親綱」googlebooksによると

『上野国片岡郡の城主片岡尾張守源九郎親綱・片岡姓源、佐々木一族。領上野国片岡郡、因称片岡氏。』とある。

佐々木盛綱の子盛季の子孫が、上野国片岡の地に居り、片岡氏を称した

至左衛門太夫直綱

当国高岡郡黑岩鄉、因呼其地日片岡村。

直綱生左衛門直常。直常生左衛門直道。直道生左衛門直光。直光娶秦国親妹、生子三。長左衛門督親光、次出雲守、次紀伊守。親光戰死予州金子葬 ...

 

【鎌倉初期の近江佐々木氏】山内梓 著

この研究ノートに「当時盛綱の所領が上野国にもあったためか云々」とあり、

片岡氏関係に寄せてみると、佐々木氏が上野国で片岡と名乗ったようなのだが、鹿島神宮の片岡(大中臣)とのつながり、特に

順信の弟乗然が片岡尾張守源九郎親綱につながっていくようにも思えるのである。

ココがまさに大中臣片岡氏と佐々木氏の接点となりそうな気がする。

大中臣親経が土佐権守となっていたことも、やがて片岡氏が土佐国高岡郡黒岩郷で活躍することとなったきっかけ、となっていたかもしれない。

https://rokuhara.sakura.ne.jp/organ/sion_003.pdf

 

親定(美濃権守)ー 親仲 ー 親経(土佐権守)

 

大中臣氏の仕事を見ていくと、

賀茂 祭祀 遷宮 など 祭祀関係に深く関係しているのである。

 

https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%A3%E7%A5%AD%E4%B8%BB%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6/k-V1IC9UMRYC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E5%A4%A7%E4%B8%AD%E8%87%A3%E9%A0%BC%E9%9A%86&pg=PP171&printsec=frontcover

 

佐々木盛季の裔という片岡氏説の他に以下の様なものも見つかった。

 

甲斐国造から片岡氏が出たという系図は、鈴木真年編の『百家系図』(巻二六の壬生直、巻十七の片岡)に見える。この系図では、甲斐国造の倉毘古乃直を祖としており、その十一世孫にあたる巨摩郡人の壬生直益成が天慶六年に山城国愛宕郡に貫隷し、従五位下遠江介まで昇進して寛平八年(896)に六八歳で卒去したとされる。その孫が歌人として著名な壬生忠岑であり、その子がやはり歌人の忠見である。
 
忠見の子の忠弘は天延二年(974)に土佐少掾に任じたが、これが、壬生一族が土佐と縁をもった始めである。その子の壬生宿祢弘重が土佐権掾、以下は、その子の「土佐権介忠重-土佐介忠久-伊予大目忠敏-土佐掾忠儀」と壬生氏の歴代が続けて土佐の国司に任じたので、忠儀の子の右近将監忠節の子の左衛門少尉忠頼は、父祖の所縁で土佐下向となった。伊予大目忠敏は保元の乱の時に平清盛に属して軍功があったというから、鎌倉前期で源氏の世になって京に居づらくなった事情もあったのかもしれない。忠頼は高岡郡黒岩郷に住し、のちに片岡郷寺尾村に遷ったと記される。
 
 
 
・・・と、諸説ありすぎで、歯が立たない。。。
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物部姓曾禰氏の中の片岡氏

2021-04-22 | 片岡氏

 

片岡氏となった「広瀬大社」の社家であった「曾禰氏」(橘紋)

http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_hirose.html

「社家は、書紀にみえる物部氏族の曾禰氏が相承し、中世には樋口氏を名乗り、のち片岡氏とも称して戦国のころは武士としても力を有していた。」

 

という事は、この物部氏族 曾禰氏 → 樋口氏 → 片岡氏 となる。

 

広瀬大社の場所

 

樋口氏で思い出すのは、中原兼遠の息である。

中原姓樋口氏は平安時代末期に、中原兼遠の次男・兼光が信濃国筑摩郡樋口谷[注釈 1](または伊那郡樋口村[注釈 2])を領し、樋口兼光と名乗ったことに始まる。兼光は弟・今井兼平らとともに木曾義仲の重臣として、後世に義仲四天王の一人に数えられるほどに活躍した。 」

 

こちらは義仲の四天王。

 

一方の片岡経春は義経の四天王。

 

重要なことが書かれていた。

「義仲の死を知った兼光は京へ戻る道中で兼光の母親生家、児玉党の説得で武装解除し命を嘆願すると云われ源義経の軍勢に生け捕られた。」

 

母の生家が児玉党!

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/972010

 

その児玉党の中に丹羽氏がいる。(良峯姓の丹羽氏ではないだろうか?)

爾波神社(にわじんじゃ)は、愛知県一宮市丹羽宮浦にある神社である。旧社格郷社

式内社尾張国丹羽郡「尓波神社」である。丹羽郡の総社と伝えられ、丹羽臣丹羽氏)に関係が深い。

創建時期は不明。一説では701年大宝元年)創建という。この地域に勢力があった尾張丹羽臣が、祖先の神八井耳命を祀ったのが始まりという。

 

丹羽氏とつながると多氏も調べると、

多蒋敷 多臣氏は『新撰姓氏録』「左京皇別」によると、「出自諡神武皇子神八井耳命」とある。『古事記』中巻、『日本書紀』巻第四綏靖天皇即位前紀にも同様の記述があり[1][2]、『和州五郡神社神名帳大略注解』所引の久安5年(1149年)の「多神社注進状」には、蒋敷は太安万侶の祖父とされている。

 

他田氏(おさだし)とは、日本氏族のひとつで、神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする多氏に属する古代氏族とされる。

 

印波国造(いんばのくにのみやつこ・いんばこくぞう)は下総国中部を支配した国造

 

丈部氏(はせつかべうじ、)、または大伴氏(おおともうじ、姓は直)とされる。

多氏と同系で、支流に都祁国造仲国造科野国造等がいる。

 

長狭国造(ながさのくにのみやつこ、ながさこくぞう)は、のちに安房国東部となる地域(長狭国)を支配した国造である。 

先代旧事本紀』巻10の「国造本紀」には全国の国造の設置時期と任命された者らの記録があるが、この長狭国造に関する記載はなく、この国造の存在は、『古事記神武天皇段の記載より確認される。

 

神八井耳命 

(かんやいみみのみこと[1]、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)は、記紀等に伝わる古代日本皇族

初代神武天皇皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。

日本書紀』綏靖天皇即位前紀によれば、朝政の経験に長けていた庶兄手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くための神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、己卯[2]11月に片丘(奈良県北葛城郡王寺町香芝町上牧町付近[3])の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じ、弟に皇位をすすめ(第2代綏靖天皇)、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。そして神八井耳は綏靖天皇4年4月に薨去したという[1][3]

古事記』においても同様の説話が記されている。

 

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上野国内で移動したか? 片岡氏

2021-04-18 | 片岡氏

片岡氏の移動

昨日の記事の「この地は古くは片岡村と呼ばれていた地で、平安時代末、坂東平氏国繁が入部し片岡氏を名乗る二代経繁は平清盛に仕えたが、文治元年(1185)平家が滅亡すると、土佐に渡って黒岩城主となる。その際長男経俊と次男経政は亡き母の供養のため片岡村に残った。
文永二年(1265)新田一族の大島景継が中野に入部し中野城主になると、この城下町づくりに際してほとんどの片岡の住民は移住させられたという。」

 
この地=片岡村 
赤いGは、片岡の住民の移動先かもしれない?場所 現在は片岡町 他にも候補はあるのだが…。

 

片岡城、確かに中野城と近距離である。

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上州の片岡氏等…

2021-04-17 | 片岡氏

上州の片岡氏

http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-1510.html

この地は古くは片岡村と呼ばれていた地で、平安時代末、坂東平氏国繁が入部し片岡氏を名乗る二代経繁は平清盛に仕えたが、文治元年(1185)平家が滅亡すると、土佐に渡って黒岩城主となる。その際長男経俊と次男経政は亡き母の供養のため片岡村に残った。
文永二年(1265)新田一族の大島景継が中野に入部し中野城主になると、この城下町づくりに際してほとんどの片岡の住民は移住させられたという。
戦国時代以降の片岡氏については明らかではなく、現在南北に延びる土塁が往時を偲ばせる。

 

近江に移り住んだ方の片岡氏=近藤氏

https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-kataoka/

片岡氏は平安時代末期に上野国中野荘に下向した近藤氏の一族。
近藤氏は同地に片岡城を築いて土着し、坂東太郎経繁の代に「片岡経繁」を名乗ったとされる。
片岡経繁は平家に従って壇ノ浦で殉じたとも、土佐に落ち延びたともいわれる。

国繁は若く歿し、その娘が近藤氏に嫁ぎ近藤経繁となったともある。

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/52d2b5128486e7893ceb7359afbe32d8

近藤 国重(こんどう くにしげ、生没年不詳)は、藤原秀郷流で島田駿河権守景親の子孫近藤国平の子。承久の乱山梨県巨摩郡万沢村(現南部町)の浅間神社を再興して神主をつとめた。」かも知れないと思っていたが、どうなのだろうか?

 

近藤国重も片岡を名乗っていたとすると、面白い。

他の情報では平高望の五代後裔が国繁…となっており、国重の方は別人だ。国繁と国重が二人いたのである。

 

上州の片岡氏は平氏と共に壇ノ浦に居る。 一方、片岡経春は義経と共に壇ノ浦に居る。

いろいろな片岡氏がいたという事になるのだろうか?

それとも、一族が分れたのだろうか?

 

 

こちらは大和国の片岡氏

https://www.town.kanmaki.nara.jp/tourism/meisho/kataokajyo

片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道の頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年ごろに片岡国春によって築かれたとされています。
下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香芝市の境界あたりにある小高い山送迎(ひるめ)山の標高262メートルのところにありました。この頃の葛城地方は片岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢原・吐田の六人が勢力を伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、片岡国春の送迎山城も地理的に良く似たところにあります。

 

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行方の片岡氏 

2021-04-16 | 片岡氏

 

今日は頼まれ仕事も目途も付いたので、ブログを再開したいと思ってはいるが、間があいたので何から書こうか…?

===*===

疑問に思っていることから始めよう!

 

 

 

片岡常春のことを調べると出てくる「行方」「浮島」「荒磯」・・・

 

 

行ったことがない場所なので…  ここは、荒磯なのだろうか? と疑問が湧いてくる。

海の男であったことに異論はない。ここから大海に乗り出していったのだろう。

そのような意味かもしれない。『義経記』に、そのように書かれているようである。

 

上野国が本拠、大和の出身のようでもある「片岡氏」、いったい何者なのだろうか?

 

 

 

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湖北 余語 草岡神社

2021-04-13 | 片岡氏

草岡神社

http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=1280

第9代開化天皇の第3皇子、彦坐王当地に降臨し給い、余呉の庄の開発並びに郷民を愛撫し、産殖に治水事業に努められた。

余呉の庄とは、合併前の片岡、余呉の地域を上の郷、中の郷、下の郷と分括されて、上の郷片岡天神とよんでいた。

 

平維茂のことを「余五将軍」というのだそうだが、それはあまり関係ないかもしれないけれど、いちおう書いておく。

 

 

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片岡氏系図 再考 (memo)

2021-03-01 | 片岡氏

片岡氏

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-kataoka1.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-tou-kataoka2.html

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-kataoka8.html

http://rekishi-nara.cool.coocan.jp/tokushu/yamasen/yamasen17.htm

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再び片岡氏を考える。

2021-01-25 | 片岡氏

片岡氏が藤原秀郷流という情報を得た。讃岐の地方史さんのページ
https://tokyox.sakura.ne.jp/pukiwiki/index.php?%E8%AE%83%E5%B2%90%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E5%8F%B2

きたっ!という感じなのだが、見ることのできる系図には出ていていない。見落としかも知れないが…

「(塚墓) 墓二 片岡伊賀守の墓とその馬の墓   
伊賀氏系図に書かれている事であるが、鎮守府将軍秀郷の末裔に八郎経春という人物がおり、伊勢國片岡に居住していたので片岡氏と称した。               
経春の弟七郎高村は伊賀國に移って氏を伊賀と改め、高村から五代目大炊頭村信になって備前国邑久郡豊原莊へと住まいした。」

この伊勢国片岡を調べると、【片岡温泉】と出てきて、なんと菰野である。





この位置を考えると充分にあり得る場所。有り得るとは、片岡氏=九里氏だったのではないかという事なのだが…員弁にも近く、近江にも行ける場所。しかも近江八幡へまっしぐら。

そしてもう一つ、北条義時で思い出したのが「片岡経久」北条義時召して…云々



名前の経春は、経治とも書ける。さらに治は任と崩し字が似ている。




共に左の文字を見ると、治なのか任なのかが、判別しがたい。(と思っているのは私だけかもしれない。)

===*===
他に得たweb情報では…
多部氏
千葉一族という。片岡常春とともに下総藤原氏に従った多部師時(次郎)があって西田部城(香取市西田部字御城)を築いた。しかし、片岡常春が千葉介常胤に攻撃されると討死にした。

この庄(三崎)の庄司片岡八郎常春文治五年、再びその知行をとどめ、千葉氏に与えられ、以後、千葉氏の地頭請所となった。




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片岡氏と佐々木氏の三つの接点 まとめ

2020-09-06 | 片岡氏

今まで、片岡氏と佐々木氏の関係を示唆する系図が三回ほど出てきている。

始めは、佐々木定綱の娘の後ろに三角印があり、この辺りに片岡経俊が入る…という感じの系図。


次に佐々木盛季の息忠綱が片岡氏に養子として入っている系図。(武家家伝片岡氏)


三回目は、佐々木氏頼弟の直綱の註である。


此の三番目の直綱は片岡とは関係がないのではないかと思う。
が、片岡氏には「直綱」は存在している。その直綱は武家家伝さんの系図を見ると「三宮実綱の息直綱」となっている。

ともかく、佐々木氏と関係があるのだよ…とアピールしているようにも思える片岡氏の系図である。

===*===

高知県高岡郡越知町の【越知町史】に以下のような記載があった。
日下三宮実綱の次男直綱が片岡家に入った…片岡家に入った三宮の二男は上総介左衛門大夫直綱を名乗って片岡氏九代の主となったので、いまや片岡家は事実上三宮のものとなってしまった。とある。
直綱に本家をとられた直治は別家して、岡添の氏を名乗り、大田川に片岡支城を設けて居ったという。

この状況、乗っ取りが起こったのかもしれない。

さて、其の片岡氏の始りは「近藤経繁」という説がある様である。
これは有力かもしれない。というのも、中原久経がともに頼朝の御教書?を全国に広めに?行ったのが「近藤国平」である。
平家が滅亡する直前の元暦2年(1185年)2月には頼朝の代官として中原久経と共に上洛し、混乱に乗じて非法狼藉を働く畿内近国の武士の平定にあたったほか、鎮西にも下向し同様の任務に就いた。
国平の息は国重!
近藤 国重(こんどう くにしげ、生没年不詳)は、藤原秀郷流で島田駿河権守景親の子孫近藤国平の子。
承久の乱後山梨県巨摩郡万沢村(現南部町)の浅間神社を再興して神主をつとめた。

在地の土豪・片岡氏代々の居城。
平安時代末期の築城と考えられるが、詳細は不明。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kataoka1.htm
片岡氏は平安時代末期に上野国中野荘に下向した近藤氏の一族。
近藤氏は同地に片岡城を築いて土着し、坂東太郎経繁の代に「片岡経繁」を名乗ったとされる。
片岡経繁は平家に従って壇ノ浦で殉じたとも、土佐に落ち延びたともいわれる。

さらに、滋賀県の城さんのページ
https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-kataoka/
在地の土豪・片岡氏代々の居城。(滋賀県草津市)
平安時代末期の築城と考えられるが、詳細は不明。

片岡氏は平安時代末期に上野国中野荘に下向した近藤氏の一族。
近藤氏は同地に片岡城を築いて土着し、坂東太郎経繁の代に「片岡経繁」を名乗ったとされる。
片岡経繁は平家に従って壇ノ浦で殉じたとも、土佐に落ち延びたともいわれる。

===*===

此の中原久経の役割は、中原親能の跡のようでもある。
国平と親能が古文書に名を連ねており、その後国平と久経、しかも久経を先にして連署となっている。



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佐々木六角直綱なのか、片岡(山田五郎左衛門尉)直綱なのか、山内判官直綱、法名中寛とは…

2020-09-05 | 片岡氏

佐々木六角直綱:佐々木系図作信詮舎弟。
四郎左衛門尉。
山内判官〔系図纂要〕。
法名中寛 佐々木系図による。
https://geocity1.com/okugesan_com/sasaki.htm

佐々木六角義信
正平4年/貞和5年(1349年)、六角氏頼の嫡男として誕生。

観応の擾乱で進退に窮して正平6年/観応2年(1351年)6月25日に出家した父から家督を譲られた。しかし幼少のため叔父・山内信詮(定詮)が近江守護となり、その定詮が直義方につくと代わってもう一人の叔父である直綱が近江守護になった[1]

[1]の註
六角定詮(山内信詮)が氏頼に代わって守護となり正平6年/観応2年の8月段階に在任していたことが足利尊氏の御教書から判明するが、9月に発生した近江国内の攻防には攻撃側(直義陣営)に「佐々木五郎左衛門尉」(『天正本太平記』)が、守備側(尊氏陣営)に「当国(近江)守護氏頼舎弟」(『園太暦』観応2年9月11日条)がいたことが判明する。佐々木五郎左衛門尉は六角定詮の別名であるために彼が「当国守護」であることはあり得ない。このため、9月段階では『天正本太平記』に「佐々木四郎左衛門尉」の名前で登場して尊氏陣営による佐々木城(観音寺城)の防衛に参加している氏頼のもう一人の弟である直綱が守護に補任されていたと考えられている(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。

===*====

下記の記事につながってくる事項と思う。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/201a3eed51aad84a63103ff41c9436d5

五郎左衛門尉は「山田五郎左衛門尉」であり、上野国片岡に住んでいた人物「直綱」となる。

しかし、片岡系図の中の直綱は年代が違っている。
  |片岡左衛門尉 應永18年(1411)12月築城
(54)直綱(  -1427) 於土佐國吾川郡徳光庄而
   |       是曰徳光城亦曰片岡城矣

この直綱は、醍醐源氏である。
【醍醐源姓 片岡氏系図】
【始祖】片岡盛保  【本貫】上野國片岡郡

【世系】片岡氏は、醍醐天皇の苗裔醍醐源氏に出づ。

【歴史】源盛保、上野國片岡郡を貫するに依て片岡を称号す。片岡盛経は、元弘兵乱の時、官軍に属し殉難す。 片岡直綱、應永18年(1411)12月、始めて土佐國吾川郡徳光庄に移り一城を築く。是「徳光城」と云ふ。又片岡城とも云ふ。 これ土佐片岡氏の祖なり。さらに黒岩に城を築き、吾川・高岡の両郡を領す。家紋「揚羽蝶」を用うと云ふ。 片岡下総守光綱、長曽我部に仕ふ。豊太閤、南征さるる節、伊予にて軍役を勤め討死す。 片岡祐光は、土佐郡本川郷大藪村住人大藪紀伊守祐宗の孫にして伊賀左馬允の男なり。 土佐藩主、祐光に命じて 片岡氏の養子となさしめ遺跡を治めせしむ。延宝8年(1680)3月8日卒。 祐光の子孫世世、庄屋職を相続す。片岡孫五郎直英は、夙に勤皇の志篤く、元治元年(1864)長州に奔る。のち贈正五位なり。 直英の長男直輝、二男直温は貴族院議員を務む。

※土佐藩にはこの他にも片岡健吉などを輩出した土佐藩士 片岡家がある。

===*===

何故片岡氏は佐々木六角氏の中に「直綱」を置き、そこから繋がるようにしたのだろうか?
六角佐々木氏頼の弟であった…という伝承があったのだろうか?

同じ直綱がいたので、ただ、間違ったのであろうか? 
しかし、山内という名とは土佐国でも関係があるので、間違えて…ではないのかもしれない。

もっと遡ってみると、片岡氏の始りである醍醐天皇(885-930)の母は、藤原高藤女胤子で、 宇多源氏に続くので、全く関係ないわけではないのだが…

父親 藤原高藤
母親 宮道列子

宮道弥益と大宅氏出身の母の間に生まれる。『今昔物語集』(後述)によると、鷹狩の雨宿りとして弥益の屋敷を訪れた藤原高藤に嫁いだ。高藤との間に生まれた胤子が宇多天皇女御となり、その子(源維城)が後に醍醐天皇になると、列子は天皇の外祖母として従三位に叙せられた。『宇治郡名勝誌』によると、907年11月30日(延喜7年10月17日)に亡くなったとされ、勧修寺栗栖野に葬られたという。同年12月9日(旧暦10月26日)に正一位が追贈された[1]。また、のちに父の弥益や夫の高藤らとともに宮道神社に祀られるようになった。


===*===

山内氏  
鳥羽氏  六角氏の一族鳥羽氏が鳥羽・江部両庄の地頭であった。
永原氏
山田氏
片岡氏

が絡んでいるようなので、ひとつずつ調べていこう。

直綱は陸奥国に逃れていき、水沢氏になったようである。


佐々木氏は近江源氏と称しているが、実際は近江国土着の狭々山氏の後裔とい われる。 ... 陸奥国水沢の佐々木氏も一族1357年に佐々木直綱が奥州に下向 し、その子の繁綱が水沢城を本拠地として水沢佐々木氏の祖になり葛西氏に仕え た。

https://chibasi.net/rekidai211.htm
葛西氏
幕府は六角時信の子・佐々木左衛門尉直綱を奥州に派遣して斯波満家の補佐をさせているが、直綱の妻は葛西高清の娘と伝わる。高清と直綱の間には何らかの関わりを持っていた可能性がある。と書かれている。

===*===

そういえば、出雲佐々木氏の義清の息泰清の妻は葛西清重の嫡男である清親の娘であるそうだ。

接点は充分にありそうな「葛西氏」である。

葛西氏と出雲佐々木氏。ここと六角の直綱とつながってくるとなるとは。
さらに調べてみることで、片岡氏との関係も何か見えてくるかもしれない。


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