九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

清原清定 斉藤 野本行時

2019-07-11 | 清原氏バラバラ情報

何故、比企郡が本拠の野本氏が金沢文庫近く(現在の神奈川県横浜市金沢区)に住まう事となったのか。
(はじめは「長浜」に住み、大津波にあって「富岡」に移ったようである。)

斉藤という名前にヒントがあると見た。

斉藤、例えば斎藤浄円は清原氏の系図にも載っている。
さらに野本氏は「野本斎藤基員」と斎藤が入っている。

つまり、どちらも斎藤氏と関りが強いのである。

野本氏も調べていくと、橘氏とも大江氏とも関係が深く、更に渡辺党、多田氏、等ともつながりが見られ、つまり源頼政、土岐氏とも繋がってくるのである。

頼朝にも可愛がってもらっているところを見ると、古くから頼朝の支えになった人がいたのではないだろうか?
そう、下河辺氏が野本の養子となる以前の苗字である。
寒河尼、深栖光重、などとも非常に近い。
源頼政の下司であったので、これは、頼朝も厚く遇すると思う。

その野本氏は、1300年代に大津波があって、流されてしまったのではないかという。が、その後にも名前が見える。

wikipediaよりその部分をコピーした。

このことを裏付ける事実として、『吾妻鏡』の原本や後の写本(北条本)が存在した金沢文庫(現在の神奈川県横浜市金沢区)から、北に3キロメートルほど離れた神奈川県横浜市金沢区富岡には野本氏所有の土地が今も多数残っており、古くからこの地域の大地主であった。

野本氏の菩提寺である持明院には、持明院開祖の墓地の近くに野本氏の先祖代々の墓石が多数存在し、中には非常に古い年号の墓石が残っており、この地域に古くから野本氏がいたことは間違いない。

また、富岡にある波除八幡と呼ばれる富岡八幡宮 (横浜市)(東京都江東区富岡にある富岡八幡宮(深川八幡)の元になった神社)などには、「応長元年(1311年)5月18日、突如大津波に襲われて長浜千軒は一夜にして海中へ呑込まれ、助かった者が長浜から富岡や氷取沢などに住み着いた。」という伝承が残っており、長浜は金沢文庫と富岡の中間に位置し、応長元年の大津波があった年代からも『吾妻鏡』編纂時期(1300年ごろ)に野本氏が金沢文庫の近くで生活していた可能性が高く、そうであれば五味文彦が推定した『吾妻鏡』の編纂者との関わりがあったことと矛盾しない。


さて、この野本蓮忍?と九里蓮忍は繋がってくるのだろうか?
私としては、非常に核心に近づいているようにも思うのだが。。。

清原清定の息となる斎藤浄円は、元は長定と言った。
藤原利仁の子孫である「野本氏」と斎藤つながりであるように思う。

なぜなら、清原教隆が金沢文庫を創設するように金沢実時に勧めたのである。
さらに、この金沢実時の姉妹に小山長村妻となった女性、大江広時の妻となった女性がいるのである。
この金沢文庫の周辺に住んで、文庫と建物をを守っていた人。文庫自体を管理し、活用していた人、そんな人たちがいたのではないだろうか?
それが清原・斎藤氏であったのではないかと思う。
清原氏は中原氏も近いので、そこにいたかもしれないし、大江氏もいたかもしれない。
三善氏も吾妻鑑を書くために調べものに来ていたかもしれない。
ともかく文官が中心であったと思うのだ。

金沢文庫を創設することを推奨した「清原教隆」は、コトバンクでは以下のようである。
1199-1265 鎌倉時代の儒者。
正治(しょうじ)元年生まれ。清原頼業(よりなり)の孫。家学の明経(みょうぎょう)道をつぐ。

鎌倉幕府につかえ,将軍九条頼嗣(よりつぐ),宗尊(むねたか)親王の侍講となる。金沢実時(さねとき)をみちびき,実時が金沢文庫を創設するうえで影響をあたえた。晩年京都にかえり,大外記(だいげき)となる。文永2年7月18日死去。67歳。初名は仲光。

蓮忍さま、もうそろそろ素性を明らかにしてくれませんか。。。

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二荒山神社 と 紀・清両党 (メモ)

2018-08-20 | 清原氏バラバラ情報

【紀・清両党】より

…下野国一宮二荒山(ふたらやま)神社(俗に宇都宮大明神)に奉仕した紀氏,清原氏の子孫。とくに鎌倉~南北朝期,同神社座主宇都宮氏に従属して活躍した武士団の一つ。



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清原氏の中の斎藤氏 斎藤浄円とその先祖【浄命】

2018-06-17 | 清原氏バラバラ情報
同じ「諸家系図纂」の中に【浄命】







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清原清定の息に斎藤浄円(清原長定)と 清原満定 (memo)

2018-06-03 | 清原氏バラバラ情報



吾妻鑑では、満定の父不詳とある。では、養子だったのかもしれない…?
浄円も斎藤姓に復姓しているとのことなので、養子であった可能性もある。若しくは母親の姓にしたか。

満定の息の「重定」


東京大学史料編纂所 データベースより
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清原頼業の系図(一部)memo

2017-05-31 | 清原氏バラバラ情報




祐安孫の続き


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清原清定、息は齋藤左兵衛尉長定(入道浄円)・清原夏野と清原長谷

2017-05-30 | 清原氏バラバラ情報
前々回の最後に『清原清定』が登場したが、驚くほどたくさんの文書が残っていた。

まず、コトバンクより
清原清定

生年:生没年不詳
鎌倉前期の幕府公事奉行人,政所寄人。『尊卑分脈』は,実父を藤原時長の子孫の以邦,清原信定の養子とする。図書允,左衛門尉。京下りの文筆官僚とみられ,鎌倉幕府内での重要政務や訴訟裁決さらには各種行事に精通した奉行人として活動していた。また右筆役となり,執筆の任を果たすことも多かった。建久5(1194)年には大庭景能,安達盛長と共に,鶴岡八幡宮担当の御願寺社奉行となる。建仁3(1203)年源実朝の征夷大将軍就任による政所始めには家司として参加。さらに武蔵・駿河などの大田文作成を命じられる。幕府評定衆の長定・満定は子息。
追記(私)清定 清左衛門 鎌倉右大臣家令
     長定は子孫在藤・右大臣評定衆 本姓斎藤  と系図にあった。


?-? 鎌倉時代の幕府官僚。
清原満定(みつさだ)の父。図書允(ずしょのじょう),左衛門尉(さえもんのじょう)。幕府公事(くじ)奉行人,政所寄人(まんどころよりゅうど)となり,重要な政務や訴訟の判決にたずさわる。建久5年(1194)には大庭景義(おおば-かげよし)らとともに鶴岡八幡宮の御願寺社奉行をつとめた。

同じ「清定」であり、かぶっている時代(1200年初頭)に【大中臣清定】がいる。

中原秋家は【大中臣秋家】であったが、この清定はどうなのだろうか?

別々な場所で働いているので、別人と思われるが、情報が少なくよくわからない。

~~~*~~~

清原氏を遡っていくと、天武天皇・舎人親王となるが、其の外にも「江州井口中原氏」と重なっている人物がいた。

「清原長谷」
延暦22年(803年)陸奥大掾に任ぜられ、同年には造志波城使・坂上田村麻呂によって志波城の築城が行われており、長谷もこれに従事したか。…とある。

坂上氏とも、ココが接点であったのかもしれない。

他に、気になる人物 ↓

例えば「清原夏野」
父は小倉王、母は小野縄手女である小野家主 であるそうだ。 ココが、清原氏と小野氏との接点であったかもしれない。




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天龍寺と車折神社

2017-05-16 | 清原氏バラバラ情報
清原頼業が出てきたので、やはりこのあたりの人々と何かしら関連があるのではないかと思う私。

中原師元(清原祐安は師元の養子となる)は忠実・頼長親子の家司であったこともあり、また、父の中原師遠は頼長の兄忠通の家司でもあった。
(保元の乱後は師元は近衛基実の家司になったようである。)

そして頼業は頼長のことを「かつての師であり、主であった・・」と回想する~とあるのは、頼長邸に出入りをしていたことであろうと想像がつく。


ここ何年か気にしていた富城氏・富木氏(中太蓮忍・常忍)と豊後の富来氏(大友氏について豊後へ)とが同族かどうかをどのように証明していけばよいのであろうか。

また、土岐と富城も関連があるのか、ないのか。
そして、私にとっては大事なことなのだが、(我が九里の祖である左衛門経久)『中太蓮忍』という共通ワードで九里が因幡国にいた富城蓮忍と判断しているのだが、それを証明することは可能なのだろうかと、さっぱり進展していないことに焦りを感じる日々である。

周囲は以前よりは固まりつつあるとは思うのだが、決め手に欠けていると思う。一体どのくらい傍証が集まれば、OK!そう言えるね~となるのであろうか?
小説なら、その無い部分を想像で補いつつつなげてしまえるのだが…残念。

~~~*~~~

気分を取り直し、新しい視点から考えてみる。

『車折神社』の登場が何を意味するのか。
実は、車折神社は天龍寺の末社でもあったそうなのだ。wikipediaより↓

頼業が文治5年(1189年)に亡くなると、清原家の領地であった現在の鎮座地に廟が設けられた。後に、頼業の法名にちなんだ「宝寿院」という寺が建立され、後に天龍寺の末寺となった。
社名の「車折」については、ある人が牛車に乗ったまま社前を通った所、突然車が裂けてしまったためとも、後嵯峨天皇の大堰川遊幸の際、社前で突然車が前に進まなくなったので、不思議に思って社の者に問うた所、頼業公を祀ると答えがあったので、還御の後に「車折大明神」の神号と正一位の神階を贈ったためともいう。

天龍寺の末社…なんだか不思議だが、場所は近い。

そして、天龍寺のお庭をつくった「夢窓疎石」は以前からどこかで繋がっていると思っていた人物であるし、この天龍寺と付近の川端村のことでの文書が残っている。

【和暦年月日】
宝永元年12月25日(17040120250)
【文書名】
九里源右衛門往還指塞ニ付道明ケ申様願書
【底本名】
天龍寺古文書目録(京都府古文書等緊急調査報告):(13000045)
【差出】
善左衛門他五名
【宛所】
天龍寺役者中
【詳細内容】
【数量】1通、【法量】29.4×44.0、

~~~*~~~

このような天龍寺との文書が9通残っている。川端村の文書も10通。
残っている文書の少ない九里氏としては、驚くほど多い!

家や木が邪魔だからどけなさい~ということなのか?

また、川端村年寄九里善右衛門。年寄とあるので、村の長のような存在だったらしい。
1684年には川端惣代だった善右衛門が1688年には年寄になっているのである。
しかし、なぜ文書が残っているのか。


他の文書では「天龍寺仰渡迷惑ニ付御宥免願」となんだか天龍寺に迷惑をかけているようで、
「鉄砲御改ニ付請状」なんていうものもあり、仲はよくないようなのだ。
だからこそ、文書となって残っていたのかもしれない。

鉄砲を持ってうろついていたのかもしれない。お互いに牽制しあっていたのかもしれない。

~~~*~~~

さて、清原頼業の祖は天武天皇~舎人親王で、近江国御家人井口中原系図の始まりと同じである。
そして、弟である祐安は中原師元の養子である。

何かあっと驚く発見があって、解明できればなぁ~。。。




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【清原・久利氏】と【出羽清原氏】

2016-06-27 | 清原氏バラバラ情報

web情報と東京大学史料編纂所情報を合わせて書くと、

康平6年(1063)に国司庁宣により清原頼行が久利郷司に補任されている.…ということは、清原氏が久利郷にいたため【久利氏】となっていた(=在名)可能性もあると思う。
当時の国司は【清原定隆】その父は【清原頼隆】であった。


応徳元年(1084)には【入道学源】が清原近俊・清原正宗と連署で先祖相伝の領地である久利郷を【清原則房】に譲っている。(清原則房解 応徳元年九月十五日)

大治元年(1126)には
「庁宣 留守所 定 遣 久利 仁満 両河 内 三箇郷 事 四至限 云々」とあり、
【清原長房】が先祖相伝の久利・仁満・両河内3ヶ郷を安堵されている。

久安元年(1145)に
「留守所下 散位 清原真人長房 右人 、任先祖 相伝之理人 …補任 久利別符司 之 職如件 …」とあり、清原長房は「久利別府司」なるものになっていたらしい。

そして、1193年~1200年は佐々木定綱が石見国守護となっている。

佐々木定綱:近江、長門、石見、隠岐の守護へと任ぜられる。
詳細はこちらへhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%AE%9A%E7%B6%B1

今度は「九里 久里 久利 一族」という本の中からご紹介したい。
ただ残念なことに図書館に依頼しコピーを送っていただいたため、すべてはコピーできず、しかも原本を見ないで依頼しているため肝心のところがない。

久利氏の鎌倉時代は
「久利郷の地頭を久利七郎祐房とす。祐房の後にも久利赤波公房などいへる人あり。按ずるに、久利郷司に任ぜられ清原氏代々これに居りて久利氏を称せしものの如し。」

戦国時代
「大内氏の属す。“隠徳太平記”には天分十二年七月、久里清六兵衛、久里佐馬介、家城を渡し、尼子に降る。と見えたり。これ、清原氏の族ならむ。されど、石見の久利(里)氏は、一に藤原姓なりともいひ、久里の古城主、久里左京亮は、本姓藤原氏なりと伝へ、石見家系録には、久利三河守成勝、天正六年、上月城を攻む。久利藤原盛勝、同八年、久利八幡宮を修造す。といふ記録も見ゆ。これ、久利(里)氏は、もとは久利郷司・清原氏の族たりしに、のち藤原氏の人、系を交じへ…」 コピー終



もう一つの清原氏である【出羽清原氏】も、ほんの少し調べてみた。

コンサイス人名事典+wikipediaによると、
天武天皇の皇子舎人親王の子孫,清原真人令望の末裔清原光方の子 清原光頼・武則が「前九年の役」の際、源頼義に何度も依頼されて安倍氏を倒すために重い腰を上げたのだそうだ。

源頼義 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9

…出羽清原氏は、その後内訌で衰退するが、武則の息武貞の養子に【藤原清衡】がおり、その実父は【藤原経清】亘理部の豪族であり、妻は以下の如くである。


正室:清原氏の娘
継室:清原氏の娘
継々室:信夫佐藤氏の娘
継々々室:北方平氏
側室?:安倍氏の娘


惟常(家清)、基衡、正衡、清綱、男子、男子
娘(佐竹昌義室)、娘、娘、養女:徳姫(岩城則道室)

私は平泉で清衡のミイラを見たのだが、大きな人物であった。

下記の論文も興味深いものであり、貴族の流れとしての奥州藤原家が科学的に論証されているのでは…と思う。
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN1301.pdf


【鹿ケ谷の陰謀】で捕らえられた者のなかに【中原基兼】がいて、奥州藤原氏のもとに預けられて(匿われて?)いたこと。
同じ事件で九里の祖との関係もあるかもしれない【卜部基仲帥】も捕らえられていたこと。

これらが、いろいろと絡み合って、九里の祖が出てきたのではないだろうか?

出羽清原氏のことが、三浦氏の本に出てきているところを見ると、三浦・佐原・真野とも関連性もあるのだ!(これから本を読むところ~デス)










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清原祐安こと中原有安なのではないだろうか?

2016-06-24 | 清原氏バラバラ情報
web情報によると、

【中原有安】
平安末の音楽家。
父は内蔵助頼盛との所伝がある。
建久6(1195)年3月東大寺供養に太鼓を担当,同8年以前の没と推定される。
民部大夫,飛騨守を経て建久5年筑前守。二条天皇の楽所に祗候し,九条兼実の推薦で後鳥羽天皇の楽所預となる。
琵琶,笛,箏,今様,朗詠,魚山流声明などを相承し,太鼓などにも堪能。
九条兼実,鴨長明の琵琶の師で,『玉葉』には政治的情報をもたらすなどの言動が,『無名抄』には長明に対する教訓が記される。
『胡琴教録』は有安の琵琶の説を記したもの。
養子景安はのちに鎌倉八幡宮の楽人となる。
和歌は『千載集』『月詣和歌集』等に載り,私選集『寒玉集』(散逸)を編む。


【中原有安】

中原有安(なかはらのありやす)。系図では有康とも書かれているそうです。

子に宗安、盛安。養子に景安。

九条兼実の家司(『玉葉』)

建久5年(1191年)(後鳥羽天皇)になり始めて楽所が置かれ、「筑前守中原有安」は楽所預となる。

鴨長明の『無名抄』によると、鴨長明の琵琶の師。



日本歷史叢書, 第 11 巻

60 ページ
この頼業の弟音博士祐安は大外記中原師尚の養子となったが、頼業の曾孫良枝が中原師守の娘を母としたことは前記の通りであり…


「日本歴史叢書」では、祐安=有安の説となっております。

私としては、同時代に二人の「ゆうあん」または「ひろやす」「ありやす」がいた可能性もありそう~と思います。
どなたか、ご存知でしたらお教えいただけますとありがたいです。



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【清原氏】書き出し一覧

2016-06-23 | 清原氏バラバラ情報

【官史補任】

清原正基 延喜10年 越中守
清原令望 寛平6年 少弐
清原元輔 天延2年 因幡守兼鋳銭長官 安和2年・天暦5年 権少掾
清原慈藤 天元3年 佐渡守
清原長義 永観2年 因幡介
清原朝佐
清原忠経 天暦9年 淡路 掾
清原仲山 天慶4年 大掾
清原為盛 永観元年 権掾
清原高平 昌泰元年 伊予国掾
清原樹蔭 承平7年 前司
清原伊景 天慶5年 前掾
清原仲海 転得元年 権少掾
清原景直
清原景親 六位史 康治元年-久安3年
清原康基
清原国俊
清原氏継
清原師成
清原俊忠
清原盛安
清原盛時
清原拓定
清原定弘
清原宗景
清原宗財
清原知康

【外記補任】

清原為尚
清原季教
清原季兼
清原季俊
清原季尚
清原季宣(=仲季)
清原弘隆
清原教基
清原教氏
清原教秀
清原教俊
清原業尚
清原業盛
清原業忠(=良宣)
清原業定
清原近業(母・大監物持貞女)(=親業)後白河院の上北面にいたが、合戦にて横死
清原景兼
清原景隆
清原賢秀
清原賢親
清原顕俊(女・藤原孝清室)
清原元尚
清原元宣
清原元隆
清原広実
清原広俊
清原広澄
清原弘高
清原弘隆
清原行秀(女・源清信室)=源資信母
清原行俊
清原康基
清原康業
清原康俊
清原佐光
清原氏隆
清原種宣
清原秀隆
清原周俊
清原重業
清原重憲
清原重国
清原重尚
清原重範(=重憲)
清原俊安
清原俊資
清原俊宣(妻・清原秀隆女・母は清原教隆女)
清原俊隆
清原尚顕
清原信安
清原信憲
清原信秀
清原信重
清原信俊(サネトシ)
清原信直
清原親業(=近業)
清原親種
清原正綱
清原正隆
清原成政
清原成宣
清原清遠(=清原清俊)
清原清重
清原盛業
清原宣業
清原宣方
清原善定
清原宗季(=宗枝)妻・行定女
清原宗業
清原宗賢(少納言)
清原宗元 母・清原仲尚女
清原宗種
清原宗尚 妻・二階堂行継女 (船橋家)
清原致隆
清原仲季(=季宣)
清原仲基
清原仲業
清原仲氏
清原仲尚
清原仲信
清原仲宣
清原仲方
清原仲隆
清原忠業
清原忠種
清原長尚
清原直尚
清原直方
清原直隆
清原定安
清原定兼
清原定康(サダミチ)
清原定資
清原定慈
清原定俊
清原定信
清貞定政
清原定友
清原定雄
清原定隆
清原冬隆
清原敦宣
清原範業
清原繁隆
清原祐安(一時、中原師元の養子となる)
清原頼兼
清原頼元(懐良親王補佐)子孫は九州五条
清原頼弘
清原頼治
清原頼秀
清原頼尚(=良隆)母・藤原頼尚女
清原頼清
清原隆宣
清原良英
清原良季 (=良尚)室・中原師守女
清原良業 妻・藤原仲教女
清原良兼 母・二階堂行継女
清原良任
清原良隆(=頼尚)
清原頼安(=頼康?)

【近衛府補任】

清原夏野
清原長谷
清原秋雄


全部は書き出されてはおりません。
時折書き足ししたいと思っております。




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