九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

後鳥羽院下野 ~ 父は祝部允仲・母は源光基 源家長の妻であった。

2018-05-31 | 祝部氏


朝日日本歴史人物事典の解説(コトバンクより)
後鳥羽院下野
生年:生没年不詳
鎌倉時代の歌人。信濃とも呼ばれた。父は日吉社小比叡禰宜祝部允仲。母は源光基の娘。元久1(1204)年ごろ源家長の妻となる。後鳥羽院の女房として出仕した。
藤原定家とも親交があり,「歌仙下州」などと称された。元久1年11月10日『春日社歌合』,寛喜1(1229)年『為家家百首』,貞永1(1232)年7月『光明峰寺摂政家歌合』,嘉禎2(1236)年『遠島歌合』,宝治2(1248)年『宝治百首』『院御歌合』,建長3(1251)年9月13日『影供歌合』など多くの歌合に参加した。なだらかで,落ち着いた歌風。<参考文献>安井久善「後鳥羽院下野攷」(日本大学『語文』1960年5月号)

(谷知子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E9%99%A2%E4%B8%8B%E9%87%8E

祝部允仲

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/narisige.html


祝部成茂 はふりべのなりしげ 治承四~建長六(1180-1254)

日吉社禰宣祝部氏の重代歌人。成仲の孫。小比叡禰宣大蔵大輔従四位上允仲の子。日吉社禰宣・丹後守正四位下となる。
(↓コトバンクより)
治承(じしょう)4年生まれ。祝部成仲の孫。後鳥羽院下野(ごとばいんの-しもつけ)の兄。近江(おうみ)(滋賀県)日吉社の禰宜惣官(ねぎそうかん)。元久元年の春日社歌合や建長3年の影供歌合などに参加。歌は「新古今和歌集」などの勅撰集に44首あるほか,家集「成茂宿禰(すくね)集」がある。建長6年8月死去。75歳。

祝部成仲(コトバンク)
1099-1191 平安後期-鎌倉時代の神職,歌人。
康和元年生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)日吉社の禰宜惣官(ねぎそうかん)。40歳ごろから歌壇活動をはじめ,永万2年の藤原重家家歌合などに参加。歌は「詞花和歌集」などの勅撰集に31首あるほか,家集「祝部成仲集」がある。建久2年10月13日死去。93歳。


祝部氏と源光基の娘! しかも日吉社。
この光基の息に「頼基」がおり、もしかすると太田氏とつながるのではないか~(課題)
また、同じ光基に「藤原秀宗」に嫁いだ娘がいて、頼政の隣に住んでいた「秀宗」の妻なのだ。




藤原秀能(読み)ふじわらの ひでよし
鎌倉前期の武士・歌人。秀宗の子。法名は如願。初め源通親に仕え、16才で後鳥羽北面の武士となり、左衛門尉・検非違使尉などを歴任した。一方、歌才を後鳥羽上皇に認められ、『新古今集』撰集の時に和歌所寄人の一人となった。『新三十六人撰』作者の一人で十首とられている他、『新古今集』以下の勅撰集に七十九首入っている。承久の乱後は熊野に出家した。仁治元年(1240)歿、57才。

この秀能の息が「秀行」で、源頼政と隣の家であった。(光基の系も遡ると、源頼光・源満仲にたどり着く)
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/7eae9f5d8aa2be6840823517f6fee6f0
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 畠山政長の妻は、京極持清の娘 | トップ | 土岐氏と隠岐氏 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

祝部氏」カテゴリの最新記事