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畠山政長の妻は、京極持清の娘

2018-05-28 | 畠山氏

畠山重忠とその息たちは亡びたのだが、そのあたりを「武家家伝 能登畠山」よりご紹介。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/h_noto_k.html

「残された畠山重忠の妻は北条時政の娘だった関係から、重忠死後に足利義兼の子義純と再婚し、義純は畠山氏の名跡を絶やさないために畠山氏を名乗ることになった。もちろん畠山重忠の旧領は義純に与えられた。以後、畠山氏は清和源氏の一族となったのである。以来、鎌倉末までそのまま続き、建武の争乱には足利尊氏に従って軍功を挙げ、室町幕府の重臣となったのである。」

そのことと、前回の記事の「大田乗明」と関係があるので書いてみたいと思う。

大田乗明とごく親しい間柄であった「曽谷教信」のことである。
http://blog.livedoor.jp/inae_sokagakkai/search?q=%E7%95%A0%E5%B1%B1創価教学研究室 (Tommyのブログ)

「曾谷教信は清原皇后宮大進三位清原真人行清の裔の大野政清の子であるとしている。しかも、大野政清は大聖人の御母の兄にあたるとしているから。この説に従えば、教信は大聖人と従兄弟という関係になる。
 ちなみに、大聖人の御母の係累については「産湯相承事に「悲母梅菊女童女の御名なり平の畠山殿の一類にて御座す云云」(0878-01)と述べられており、「本化別頭仏祖統記」などは畠山政清は畠山氏の一族であるとしている。」

この大聖人とは日蓮のことである。

畠山重忠が1205年に亡くなっているので、この曽谷と関係のありそうな畠山氏はもしかすると足利義純の系かもしれない。義純の弟泰国の法名が「空蓮」もしくは「空連」だそうで、日蓮と関係があるかもしれない。

そして、この人物も関係がありそうである。(コトバンクより)

清原教隆(読み)きよはらの のりたか

清原教隆 きよはらの-のりたか
1199-1265 鎌倉時代の儒者。
正治(しょうじ)元年生まれ。清原頼業(よりなり)の孫。家学の明経(みょうぎょう)道をつぐ。鎌倉幕府につかえ,将軍九条頼嗣(よりつぐ),宗尊(むねたか)親王の侍講となる。金沢実時(さねとき)をみちびき,実時が金沢文庫を創設するうえで影響をあたえた。晩年京都にかえり,大外記(だいげき)となる。文永2年7月18日死去。67歳。初名は仲光。

1208年に三善善信(康信)の名越家が焼失。山側に文庫があったそうで、将軍家の文書や大中臣倫兼の日記などを焼いてしまった。
このことが金沢文庫が造られたきっかけであったかもしれない。1275年創設。

清原教隆は清原頼業の孫である。

そして、富木・大田・曽谷は昔から(日蓮と出会う以前から)親しい間柄であったそうである。

この三人、中原・大中臣・清原と言い換えることもできるのかもしれない。

そして、もしも畠山氏とも関係があるのならば、そこから能登畠山氏の配下になった可能性も充分にあると思う。

で、今日の題にもしたのだが、畠山政長の妻が京極佐々木氏であったこと、また、畠山義続・義綱がともに六角佐々木氏とつながっている事、こう考えると、一本の線になってくるように思えるのだ。

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