新古今和歌集の部屋さんより、記事の一部をお借りする。(感謝)
吉書始
建久九年(一一九八)戊午 この年、光行、鎌倉へ移住か。
正治元年(一一九九)己未 一月源頼朝病歿す。
二月光行は、源頼家征夷大将軍就任の吉書始に鎌倉幕府重臣らと列座し、その政所にある。
正治二年(一二〇〇)庚申 十二月光行は石清水社歌合(前大和守従五位上源朝臣光行)に列座。関東より上洛した折の出座か。
以下の論文から、系図と飯富庄の飯富季貞と源光行の周辺の記載のある一部を貼って参考にしていきたいと思う。
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この部分の「文治」は多分間違いと思われる。
文治元年は1185年で、
寿永と文治は重なっていることから、源義仲の征夷大将軍就任の際となってしまう。(義仲が征夷大将軍は今初めて調べていて知ったのであるが‥‥)
この記事の上に池田利夫著の論文からひいた、新古今和歌集の部屋さんの記事の【正治元年】(1199年)が正しいのではないだろうか?
また、頼朝が歿した直ぐ後のことで、まだ頼家も正式には征夷大将軍には就任してはいないが、第二代鎌倉殿に就任したという事になるのかもしれない。
源光行、36歳の頃である。
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源光行は長生きで、81、82歳まで生きていた。
光行(寂因)ー親行(覚因・弟が素寂)ー義行(聖覚)ー知行(行阿)ー 経行(大和守)
その源氏物語研究は脈々と続き、曾孫の行阿も源氏学の権威となっている。
此の親行は、文治年間(1185年 - 1189年)頃の生まれと推察され、文永年間(1264年 - 1274年) まで史料上で見えているそうだ。(wikipedia情報)
父の光行と交代で政所に出仕していたそうなので、気を付けていれば吾妻鑑に記載があるかもしれない。