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中原基兼 鹿ヶ谷事件 ふたたび 佐々木源秀義の伯母の夫が藤原秀衡

2019-01-07 | 中原氏バラバラ情報

「中原能兼」を調査中だが、あらっ…鹿ヶ谷の事件にいた中原氏は確か「中原基」のはず、と思いだしたところから、この記事は始まる。

思い起こせば、そこに登場する「基仲法師」が「卜部基仲」であり娘が「白川業資王」の母であったはずである。そしてもしかするとその基仲法師は「蓮浄」ではないかという所までわかっていた。

そして、西園寺流の実明の息慈信 が改めて蓮乗となり、その祖父が基仲帥。
その近くに蓮忍がいたのではなかろうか。(丹波国室尾谷観音寺・河守御庄)

紆余曲折を経たが、もう一度再考したい。

やっと年代も合いそうなので…
1233年に蓮乗が室尾谷観音寺を再興し、1239年に蓮忍が河守御荘をその観音寺に寄進。
蓮忍が1200年代初めの生まれとなると、合う。
そして、父の経任(因幡国富城郷地頭かまたは国衙在庁官人)が亡くなった後に因幡国へ行ったとなれば、つじつまも合う。

能兼がもしもこの基兼の曾孫であったなら、年代も合うだろうか。
基兼 1140年代から補任され始め六位史なので、1120年ジャストに生まれたと仮定し、
孫が1170年に生まれその息1200年位とすると、蓮忍と同じあたりとなる。(かなりアバウト)

この基兼が同族であったなら、佐々木氏とのつながり、白川家・卜部とのつながりできる。
そして蓮浄ー実明ー蓮乗~蓮忍となる。
但し、蓮乗~蓮忍は、血縁関係かどうかまではわからず、今後課題となる。

今回の新しい発見は、この基兼(元兼)が奥州に流されていたこと。藤原秀衡のもとにいたことがわかった事であった。
源頼朝から中原基兼を京に戻せよとの要請にも、秀衡は拒否することとなるのである。

~~~*~~~

この秀衡と頼朝に関しては、少し詳しいことがwikipediaに載っていた。

頼朝の千両に対して秀衡はその五倍の五千両を納め、京都の諸勢力との関係維持に努めている。(東大寺の大仏再建立の件で)

文治3年(1187年)4月、鎌倉ではまだ義経の行方を占う祈祷が行われている頃、頼朝は朝廷を通して以下の三事について秀衡に要請してくる。

鹿ケ谷の陰謀で平清盛によって奥州に流されていた院近臣・中原基兼が、秀衡に無理に引き留められて嘆いているので、京へ帰すべきである事。
陸奥からの貢金が年々減っており、東大寺再建の鍍金が多く必要なので三万両を納める事
度々追討等の間、殊功無き事

等である。

秀衡は、

基兼については大変同情をもっており、帰さないのではなく本人が帰りたがらないのであり、その意志を尊重しているだけである。まったく拘束しているのではない。
貢金については三万両は甚だ過分であり、先例で広く定められているのも千両に過ぎない。
特に近年商人が多く境内に入り、砂金を売買して大概掘り尽くしているので、求めには応じられない

と返答している。頼朝は秀衡が院宣を重んぜず、殊に恐れる気配がなく、件の要請も承諾しないのはすこぶる奇怪であるとして、さらに圧力をかける事を要請している(『玉葉』文治3年9月29日条)。

9月4日、義経が秀衡の下に居る事を確信した頼朝から「秀衡入道が前伊予守(義経)を扶持して、反逆を企てている」という訴えにより、院庁下文が陸奥国に出された。

秀衡は異心がないと弁明しているが、この時頼朝が送った雑色も陸奥国に派遣されており、「すでに反逆の用意があるようだ」と報告しており、朝廷にも奥州の情勢を言上している。

このわずか2ヶ月後、義経が平泉入りして9ヶ月後の文治3年(1187年)10月29日、秀衡は死去する。

~~~*~~~

この秀衡の妻が佐々木源秀義の伯母だったのではないかということが気にかかっている。
「母の姉妹の夫」が秀衡という事である。信夫佐藤氏だった女性かも知れない。

奥州藤原に「中原基兼」は預かりとされていた。この中原氏を預かることになった背景に、元からの縁戚関係はなかったのだろうか?







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2 コメント

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それは西行が (自閑)
2019-01-07 22:14:06
kunori様
それは西行が勧進したので。
「頼朝の千両に対して秀衡はその五倍の五千両を納め、京都の諸勢力との関係維持に努めている。」
もちろん、義経を抱えつつですよね。
西行井戸探索が楽しかったです。
拙句
頼朝も西行勧進こたつ猫
(恐ろしい事に、西行は頼朝に流鏑馬についてしか語っていません。鶴岡八幡宮の流鏑馬の紀元は西行のおとづれた翌年)
返信する
西行にとっては興味のない男だったのでしょうか。 (kunorikunori)
2019-01-07 22:40:27
自閑さま

そうですよね。五千両をgetしたのは西行さんの力でした。
西行は東北の藤原氏とは元から懇意だったのでしょうか?その信夫佐藤氏の娘と従兄弟だったとか?何かあるのでしょうか。

それと江戸のMapfan 楽しいですよ~~♪
http://labs.mapfan.com/etc/kochizu/
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