『仕方ないから遺構散歩』シリーズも最終回です。
最後は、遺構としては有名過ぎる上ノ国町中外鉱山跡へ行ってみた。
というか、その先のゲートが開いてたら天蓋股まで行こうと思ってました。
相変わらず中外鉱山跡へ続く道道607号線は、落とし物のオンパレードです。
ざっと5~6個は落ちてるから、今までで最高の落とし物の数でした。
早川橋からの眺めは良いです。
30年前は、石崎側へカローラでも普通に通られた50km以上ある林道だったのが懐かしい。
夜にここへ来たら間違いなく遭えるでしょうね。
ここの名物焙焼炉跡が見えてきた。
今はもう立ち入り禁止になりましたけどね。
あらら、橋の架け替え工事をしてた・・・腐っても道道でした。
残ってる遺構は、この商店跡?ぐらいです。
ゲートが閉まってて天蓋股へ行けません。
仕方ないからゲートの横でちくわパンを食べてた。
そしたら珍しく車が一台やってきた。
その車が停まって、中から私より一回りぐらい年下であろう男性が下りてきました。
こんにちは、と挨拶を交わしこの先の道路状況を聞かれたが、正直なところ古い情報しかありませんのでそれを教えました。
橋の架け替え工事をやってるし、道道自体もメンテされてる。
林業等では現役の道と思われるから一般人が入れれば道は悪くないはずと。
という感じで、この界隈の私が知る範囲の情報を話します。
するとその男性『実は私ここの小学校の卒業生なんです』と言いました。
話では、最後の卒業生らしく(昭和62年らしい)壁に『さよなら』とか書いたそうです。
そんな思い出話をしばらく聞いて、現在の小学校の位置が分からないとの事で、手前のT字路突き当りだと教えました。
ここです。
13年前は、まだこんな感じで体育館と校舎がありました。
ガメッた画像ですが、こんなに賑やかだったんです。
まだ操業中の鉱山を知ってるから、その男性と懐かしく当時のお話をしましたね。
で、思ったんですよ。
私の友達が沢山いた八雲鉱山の住宅群や購買(スーパー)が現在どの場所にあるか分かりません。
おそらく廃墟マニアには分かるでしょう。
しかし廃墟マニアは往時の事は知らない。
ここ中外鉱山に至っては、私は往時も現在も知ってる珍しい人かも知れないってね。
13年前の上ノ国町中外鉱山若葉小中学校跡
最後は、遺構としては有名過ぎる上ノ国町中外鉱山跡へ行ってみた。
というか、その先のゲートが開いてたら天蓋股まで行こうと思ってました。
相変わらず中外鉱山跡へ続く道道607号線は、落とし物のオンパレードです。
ざっと5~6個は落ちてるから、今までで最高の落とし物の数でした。
早川橋からの眺めは良いです。
30年前は、石崎側へカローラでも普通に通られた50km以上ある林道だったのが懐かしい。
夜にここへ来たら間違いなく遭えるでしょうね。
ここの名物焙焼炉跡が見えてきた。
今はもう立ち入り禁止になりましたけどね。
あらら、橋の架け替え工事をしてた・・・腐っても道道でした。
残ってる遺構は、この商店跡?ぐらいです。
ゲートが閉まってて天蓋股へ行けません。
仕方ないからゲートの横でちくわパンを食べてた。
そしたら珍しく車が一台やってきた。
その車が停まって、中から私より一回りぐらい年下であろう男性が下りてきました。
こんにちは、と挨拶を交わしこの先の道路状況を聞かれたが、正直なところ古い情報しかありませんのでそれを教えました。
橋の架け替え工事をやってるし、道道自体もメンテされてる。
林業等では現役の道と思われるから一般人が入れれば道は悪くないはずと。
という感じで、この界隈の私が知る範囲の情報を話します。
するとその男性『実は私ここの小学校の卒業生なんです』と言いました。
話では、最後の卒業生らしく(昭和62年らしい)壁に『さよなら』とか書いたそうです。
そんな思い出話をしばらく聞いて、現在の小学校の位置が分からないとの事で、手前のT字路突き当りだと教えました。
ここです。
13年前は、まだこんな感じで体育館と校舎がありました。
ガメッた画像ですが、こんなに賑やかだったんです。
まだ操業中の鉱山を知ってるから、その男性と懐かしく当時のお話をしましたね。
で、思ったんですよ。
私の友達が沢山いた八雲鉱山の住宅群や購買(スーパー)が現在どの場所にあるか分かりません。
おそらく廃墟マニアには分かるでしょう。
しかし廃墟マニアは往時の事は知らない。
ここ中外鉱山に至っては、私は往時も現在も知ってる珍しい人かも知れないってね。
13年前の上ノ国町中外鉱山若葉小中学校跡
そうですか、中外鉱山で幼少期を過ごされてたんですね。
保育園までとの事ならハッキリした記憶が残っててもいろいろ着色されてる事でしょう。
私も幼少期に八雲鉱山の友達の家へよく行ってましたが、現在この場所だと知らされても全く別の場所のような気がした事がありました。
今回出会った小学校卒業生も小学校の場所が分かりませんでしたからね。
40年前は、沢山あった街並みを覚えてます。
この先のゲートから先だとそんなに落ちてないんですけどね。
まあ、普通に落ちてる程度です。
特に天蓋股から黄金山、黄金の滝界隈は、ここより安全じゃなかろうかと思うぐらいですから。
それも10年近く前なので、林道も廃道になってるかも知れませんけどね。
夏に来たならわかると思いますが、木造の遺構はほぼ撤去されてしまいましたから、なんか寂しい感じです。
いわゆる普通の校歌だって思いました。
そういえば、長沼町の長沼中学校の校歌を作詞・作曲したのは大黒摩季さんだって記憶にあります。
結構有名人が校歌を作ってて、歌詞は知らないけどオシャレな感じなんでしょう。
この学校の校歌も今は検索すれば分るから便利ですよね。
当時はまだここがプーさんワールドなんて知りませんでしたし、この黒いお好み焼きはなんだ!?程度の認識で、はい、無知とは怖いモノ知らずなのでした。
それを聞いて当地を訪れたのは約20年前だったでしょうか。当時は大阪に住んでいて、独り暮らしとなった母の手伝いも兼ねてお盆に車で帰ってきていて、そのときに初訪問した場所です。
当時は校舎も体育館もグランドも一部教員宿舎も、向かい側にあった集会所も残っていました。
いま新しく迂回のような橋のかかった場所の脇には看板も残った商店の建物も残っていました。
焙焼炉も真下まで歩いて行けましたし。
今はもうただひたすら自然に還っているという感じでしょうか。
今この地に学校があったことを示すのは、体育館跡地付近の卒業生の記念板と熊ぐらいしか渡らないであろう横断歩道ぐらいでしょうか。
じつは8/19にバイクで当地を訪れていました。
その歩道の横にも焙焼炉前のいつもの場所にもプーさんのシルシ(う〇こ)がしっかり有りましたけど。
1番はこんなかんじ↓
めぐる山
若葉かおりて
みずみずし
わが学び家に
栄えゆく
歴史仰げば
ああ血潮
明るくたぎつ
申し訳ないけど、へ○×そな詩だなぁ。当時の先生が一生懸命考えたのかしら。
「学び家」もなんだかな、噺家の亭号みたい。
学び家酔橋、なんてね。
ついでに2番
とりどりの
秋のもみじ葉
はえばえし
教えの庭に
声さえて
われら歌えば
ああひとみ
清くぞ燃ゆる
まぁ、校歌なんてこんなもんでしょう。