泣かせるロボットドラマ『絶対彼氏』が今日、ついに最終回を迎えました。
今まで数々のロボットもの(小説も漫画も映画もアニメも)に泣かされまくってきた私にはだいたいの展開が予想でき、泣かずにはいられないと分りきっていたのですが、それでもやっぱり見てしまいました。
で、やっぱり涙枯れるまで泣いてしまいました。


しかしねぇ、なんでロボットばかりがこんな目に遭わなくちゃならないんだ。さっき慟哭しながら言った台詞なんですけどね。
人間とロボットが共存できるのが私の最も理想の結末なんですが、どうしてもそれが無理だってんなら、たまにはロボットが人間に勝り、いっそ人間を支配しちゃってもいいのにさ。
だから私はさっきまで口直しというか腹いせにそういうロボット小説を読んでました(笑)。
「ロボット(機械)が人間を支配する」というテーマはごりごりのSF作品にはよく出てくるけど、ヒューマンドラマとして描いている(=ロボットを個々の人格を持つものとして描いている)で優れた作品はあんがい少ないんですよね。
って、ハヤカワSF文庫の話はもういい。『絶対彼氏』でしたね。
あんのじょうドラマの結末は私が望んだような、「ロボットもこみち」ことナイト君がいつまでも幸せに暮らしました、というものではありませんでした。終わったからネタバレになることも書いちゃいますが。
よくわからないんだけど彼のICが寿命に達し(←このへんの説得力の薄さは本格SFとの大きな違いだな、しかし私はロボットだってだけで既に完全に感情移入しきっているので無問題)、全機能停止に陥ってしまうのです。
それも、ヒロインのリイコを一途に愛しながら。なんと恋敵(人間)に彼女のことを頼みすらするのです。
私が何より納得いかないのは、リイコと恋敵はじめ人間達は元気いっぱいで、あまつさえ前向きに次の一歩を踏み出すとこで終わるんですぜ。
いや、それが「恋人ロボット」としてのプログラム抜きでリイコを愛していたナイト君の望みだったのは私だって分ってる。痛いほど分ってます。
でもねえ、リイコが悲しんだらいけないからとわざわざ彼女のもとを離れ、一人寂しく逝ってしまったナイト君の孤独を思うとやりきれないよ~~~

まあ、正確には一人ではなかったんだね。
最期を迎える彼のそばには私がドラマ内の自分の分身と勝手に呼んでいるナイト君の生みの親(名前は確か岳さんとか)がついていて、彼のたっての希望によってナイト君の身体は保存されることになりました。
あとは岳さんが持てる知力と技術の限りを尽くして将来的にナイト君を復活させてくれることを祈ります。
でもきっとその頃にはリイコと人間の男がくっついてたりすんだろうなあ。ケッ。
どのみちこういう作品ではロボットはなかなか幸せになれないんですよ。フン。
どうせ涙の結末が待っているのなら、私としては『アンドリューNDR114』式の終わり方が良かったな。
『アンドリュー』は映画化もされたけれど、話が恋愛に偏った映画版に比べ、主人公のロボットが「人間」としての地位を手に入れるまでの姿を中心に描いた原作の方が好きです。
あ、そうそう。「ナイト君はリイコを一途に愛しながら云々」のくだりを見て私が恋愛ものに弱いタチと思われたら、それは美しい誤解です。
私にとって重要なのはロボットであるという一点に尽きるので、これが男と女の人間同士だったら涙の一滴も流さないと思います。
それ以前に見ないぞこんなベタな恋愛ドラマ(笑)。「愛してるよ」なんつう台詞を誰かがのたまった時点でテレビのスイッチをぶち切ります。
まあそれはともかく、『アンドリュー』の話ですが。
これはナイト君と同じくロボットに生まれて人間の中で暮らす「アンドリュー」が、やがて人間により近い存在になることを望むようになり、社会全体を巻き込んだ騒動に発展しながら、最後に「人間」としての地位を認められるまでを描いています。
なぜ「最後」なのか?
アンドリューは長い人生(ロボット生?)のなかで自らの身体を徐々に改造し、人間らしさを獲得してゆきます。
最後にはほかのロボットさえもアンドリューがロボットであると見抜けないくらい人間と同じ見た目になりました。
しかしそれはあくまでも外見だけの話で、人間社会は決してアンドリューを人間と認めようとはしなかった。
どうしても人間になりたかったアンドリューは自分を不老不死の存在にしている「脳」の部分を人間のそれと同じにする、つまり自ら「死ぬ身体」になることによって、ついに人間たちから「人間」として受け入れられたのです。
(私の説明だと分りにくいけど、この辺の描写はさすがにSFの巨匠が書いてるんでリアリティーがあります)
アンドリューにとって人間になることは永遠の命と引き換えにしてでも得たかったものなのです。
外見はもうすっかり人間なのですから、そのまま人間のであるかような顔をして生きていくことだってできたのに、本当の「人間」になることを欲していたのですね。
しかしながらこの最後の改造の結果はすぐに出ました。
それまで数世紀を生き抜いてきた彼の身体はあっけなく寿命を迎え、人間としての地位を獲得してからほどなく息を引き取ってしまったのです(彼の場合、人間になりましたから「機能停止」ではないですね)。
ナイト君に『アンドリュー』式であって欲しかったというのは、何も人間として死んでほしかったって意味じゃありません。
彼にはぜひ機能停止になどならず、いつまでも元気でいてほしかった。
それではハッピーエンドのままじゃないかって?とんでもないです。
愛する人(ナイト君の場合はリイコですね)が年を重ねてやがて死んでしまうというのは、十分切ないドラマになり得ます。
いえ、そこまで先のことでなくても、リイコはいつしかナイト君を置き去りにして生身の人間と恋愛し結婚して離れていってしまうでしょう...。
その展開だけでも涙は十分に誘えるはずです。『アンドリュー』原作の前半も、じつはそういう展開がありました。
ええい、どうしてもロボットを不幸にしたいってんならそれでも構わん!!それでもいいからせめてロボットは生かしといてあげてくれ~~~
生きてればロボットだってほかの愛する人や生き甲斐を見つけられるんだから!!!
今まで数々のロボットもの(小説も漫画も映画もアニメも)に泣かされまくってきた私にはだいたいの展開が予想でき、泣かずにはいられないと分りきっていたのですが、それでもやっぱり見てしまいました。
で、やっぱり涙枯れるまで泣いてしまいました。



しかしねぇ、なんでロボットばかりがこんな目に遭わなくちゃならないんだ。さっき慟哭しながら言った台詞なんですけどね。
人間とロボットが共存できるのが私の最も理想の結末なんですが、どうしてもそれが無理だってんなら、たまにはロボットが人間に勝り、いっそ人間を支配しちゃってもいいのにさ。
だから私はさっきまで口直しというか腹いせにそういうロボット小説を読んでました(笑)。
「ロボット(機械)が人間を支配する」というテーマはごりごりのSF作品にはよく出てくるけど、ヒューマンドラマとして描いている(=ロボットを個々の人格を持つものとして描いている)で優れた作品はあんがい少ないんですよね。
って、ハヤカワSF文庫の話はもういい。『絶対彼氏』でしたね。
あんのじょうドラマの結末は私が望んだような、「ロボットもこみち」ことナイト君がいつまでも幸せに暮らしました、というものではありませんでした。終わったからネタバレになることも書いちゃいますが。
よくわからないんだけど彼のICが寿命に達し(←このへんの説得力の薄さは本格SFとの大きな違いだな、しかし私はロボットだってだけで既に完全に感情移入しきっているので無問題)、全機能停止に陥ってしまうのです。
それも、ヒロインのリイコを一途に愛しながら。なんと恋敵(人間)に彼女のことを頼みすらするのです。
私が何より納得いかないのは、リイコと恋敵はじめ人間達は元気いっぱいで、あまつさえ前向きに次の一歩を踏み出すとこで終わるんですぜ。
いや、それが「恋人ロボット」としてのプログラム抜きでリイコを愛していたナイト君の望みだったのは私だって分ってる。痛いほど分ってます。
でもねえ、リイコが悲しんだらいけないからとわざわざ彼女のもとを離れ、一人寂しく逝ってしまったナイト君の孤独を思うとやりきれないよ~~~


まあ、正確には一人ではなかったんだね。
最期を迎える彼のそばには私がドラマ内の自分の分身と勝手に呼んでいるナイト君の生みの親(名前は確か岳さんとか)がついていて、彼のたっての希望によってナイト君の身体は保存されることになりました。
あとは岳さんが持てる知力と技術の限りを尽くして将来的にナイト君を復活させてくれることを祈ります。
でもきっとその頃にはリイコと人間の男がくっついてたりすんだろうなあ。ケッ。
どのみちこういう作品ではロボットはなかなか幸せになれないんですよ。フン。
どうせ涙の結末が待っているのなら、私としては『アンドリューNDR114』式の終わり方が良かったな。
『アンドリュー』は映画化もされたけれど、話が恋愛に偏った映画版に比べ、主人公のロボットが「人間」としての地位を手に入れるまでの姿を中心に描いた原作の方が好きです。
あ、そうそう。「ナイト君はリイコを一途に愛しながら云々」のくだりを見て私が恋愛ものに弱いタチと思われたら、それは美しい誤解です。
私にとって重要なのはロボットであるという一点に尽きるので、これが男と女の人間同士だったら涙の一滴も流さないと思います。
それ以前に見ないぞこんなベタな恋愛ドラマ(笑)。「愛してるよ」なんつう台詞を誰かがのたまった時点でテレビのスイッチをぶち切ります。
まあそれはともかく、『アンドリュー』の話ですが。
これはナイト君と同じくロボットに生まれて人間の中で暮らす「アンドリュー」が、やがて人間により近い存在になることを望むようになり、社会全体を巻き込んだ騒動に発展しながら、最後に「人間」としての地位を認められるまでを描いています。
なぜ「最後」なのか?
アンドリューは長い人生(ロボット生?)のなかで自らの身体を徐々に改造し、人間らしさを獲得してゆきます。
最後にはほかのロボットさえもアンドリューがロボットであると見抜けないくらい人間と同じ見た目になりました。
しかしそれはあくまでも外見だけの話で、人間社会は決してアンドリューを人間と認めようとはしなかった。
どうしても人間になりたかったアンドリューは自分を不老不死の存在にしている「脳」の部分を人間のそれと同じにする、つまり自ら「死ぬ身体」になることによって、ついに人間たちから「人間」として受け入れられたのです。
(私の説明だと分りにくいけど、この辺の描写はさすがにSFの巨匠が書いてるんでリアリティーがあります)
アンドリューにとって人間になることは永遠の命と引き換えにしてでも得たかったものなのです。
外見はもうすっかり人間なのですから、そのまま人間のであるかような顔をして生きていくことだってできたのに、本当の「人間」になることを欲していたのですね。
しかしながらこの最後の改造の結果はすぐに出ました。
それまで数世紀を生き抜いてきた彼の身体はあっけなく寿命を迎え、人間としての地位を獲得してからほどなく息を引き取ってしまったのです(彼の場合、人間になりましたから「機能停止」ではないですね)。
ナイト君に『アンドリュー』式であって欲しかったというのは、何も人間として死んでほしかったって意味じゃありません。
彼にはぜひ機能停止になどならず、いつまでも元気でいてほしかった。
それではハッピーエンドのままじゃないかって?とんでもないです。
愛する人(ナイト君の場合はリイコですね)が年を重ねてやがて死んでしまうというのは、十分切ないドラマになり得ます。
いえ、そこまで先のことでなくても、リイコはいつしかナイト君を置き去りにして生身の人間と恋愛し結婚して離れていってしまうでしょう...。
その展開だけでも涙は十分に誘えるはずです。『アンドリュー』原作の前半も、じつはそういう展開がありました。
ええい、どうしてもロボットを不幸にしたいってんならそれでも構わん!!それでもいいからせめてロボットは生かしといてあげてくれ~~~

生きてればロボットだってほかの愛する人や生き甲斐を見つけられるんだから!!!