その一;小栗重吉「船長日記」
重吉の故郷 佐久島。近いのに私は行ったことない。
以前にも重吉のことは載せましたが、今回は「船長日記」のお話でした。
雇われとは言え、「ふなおさ」を任されるくらいですから
重吉は頭もよく気転も利き、知識欲も旺盛だったようです。
日記は重吉漂流中イギリスの商船に救助され、ロシア船を経て
カムチャッカに護送されてからの「ロシア見聞記」である。
雪の多さに驚き、湾に張った氷の厚さにも驚く。
知多半島は比較的愛知県でも温暖な地ですからさもありなんです。
制度の違いにもおどろいています。
彼がたくさんの言葉を覚えたのは「カクナ(何ですか)」と言う
単語を覚えて、それを連発したからのようです。
当時(江戸時代)日本は鎖国令が敷かれ、
「他国の出来事や様子を話してはならぬ」ときつく言われていた。
藩によって対応は違いましたが、大黒屋幸大夫は幽閉されました。
幕府からは禁止されていましたが、彼は憚ることなく異国の話をし、
衣服や器物を見せ、ロシア語の辞書を作って販売し
石碑を建てる費用に充てました。
尾張藩は緩やかな対応だったのでしょうか?
石碑は今も名古屋市内の成福寺に残っていて住職は
供養を続けています。 ↓成福寺
← 佐久島
江戸時代に他国にいるだけでも心細かったことでしょうに、何でも尋ねて自分のものに、
していったのですね。
佐久島の人ですか。
若い頃、日間賀島には何度か行ったことがあり、ついでに篠島へ寄ったことも。
佐久島は一番大きな島に思いましたが、
人口が少ないですね。
温暖な気候と聞くと、神経痛がそこへ行こうよ、と言い出します。
おっしゃるように愛知三島の中で
佐久島が一番大きいことを知りました。
つゆさん、よくご存じでしたね。
小栗重吉は半田にも足跡を残しています
のに
愛知県でもあまり知られていません。
温暖な知多半島はみかんの栽培もおこなっています。
神経痛にもリウマチにもいいかも・・・
若かりし頃何かの雑誌で小栗重吉の話読みました。
大方は忘れていますが、懐かしく思い出しました。
知力も、行動力も兼ね備えた方だったんですね。
そして運も強かった。
ひなびた離島の雰囲気がよかったです。
アートで島起こしをしていますが、ちょっと
違和感を感じました。
島で小栗重吉を、大きく取り上げることも
なかったような記憶です。
ジョン万次郎や大黒屋光太夫よりは、波乱万丈
の生涯だったように思います。
この漂流したコースを見ただけでも強運の持ち主だったのでしょうね。
見知らぬ外国で過ごす時間は長いものだったでしょうが、
積極的に言葉を覚えて、
辞書作りするだけの知識も蓄え、全てに優れた人ですね。
ロシア語の辞書を買ったのはどういう人たちでしょう。
私塾とかあったのでしょうか、こっそり学んでいたとか…。
重吉さんが勇気があり行動力もあるからそのことで、何かしら今の影響が残っているのでしょうね。
怖いからと口をつぐんでいたり知らないふりをしていたら何も変わらない。
今でもこんなに進んだ世の中でも新しいことをしたり思いついたりするのを拒む人が居ます!
また、よろしくお願い
申し上げます。
世に出た人も多いですが、
この重吉さん、有名になっていないようです。
何事も運の有る無しは大きいですが
遭難となればそれが顕著でしょうね。
他の二島のように観光面では遅れているのですね。
大勢が押しかけないよさもあるでしょう。
アートで瀬戸内海の直島を目指しているのでしょうか。
生まれつきの賢い資質があったのでしょう。
尾張藩は徳川御三家筆頭ですから
藩主も幕府に遠慮がなかったのかも?
後援者がいなければ、できなかったと思います。
定かではありませんが「殺された説」もあるようです。