沢木耕太郎氏は、よく”カチンとくる”らしい。そして”カチン”とくると、すぐに日本を離れ、外国へ旅する。
私は出不精なので、カチンとくる事はあるが、かと言って旅をする事は殆どない。が、その代わりに長々と理屈っぽいブログを書く。
今回カチンと来たのは、”チャールズ国王”と”戴冠式”という2つの言葉である。
第2次世界大戦時に、かつての大英帝国の兵士を捕虜にした旧日本軍将校を猿にたとえ、映画「猿の惑星」(1968)のモデルにしたのでは?との噂が一部にはある。
これと全く同じ様に、大英帝国も実は”猿の惑星”だったのかもしれない。
というのも、赤顔で間抜け顔のチャールズ国王が”老いた猿”に思えてならないからだ。
因みに、「猿の惑星」では、人類が原始人並の知能しか持たず、逆に猿に似た類人猿が高い知能を持って文明を築き、最後にはその謎が判明する。
つまり、チャールズ国王が原始人の知能しか持たず、猿こそが高度な知能を持ってたとしたら?
事実、人間の脳に関わる遺伝子を猿に移植した所、野生のサルの知能を上回ったとする研究(2019)が発表され、”猿の惑星を彷彿させる”として大きな物議を醸したという。
戴冠式は誰が為にある?
現地時間の5月6日に行われた英国のチャールズ国王の戴冠式だが、英国王室は戴冠式について”宗教的な儀式であると同時に、君主の即位を祝福する機会でもある”とした。
チャールズ国王は去年9月、エリザベス女王の死去に伴って国王に即位したが、戴冠式は”君主の頭に王冠を授ける”という象徴的な儀式により、即位した事を国内外に印象づける意味がある。
この戴冠式は1000年以上に渡り、ほぼ同じ形で続けられ、今も行っているのはヨーロッパではイギリスだけとされる。
以下、「戴冠式の見どころは?」より一部抜粋です。
戴冠式では、チャールズ国王が誓いを述べ、英国教会最高位の聖職者カンタベリー大主教により、聖なる油がチャールズ国王の手や頭に塗られ、王冠が授けられる。
この王冠は、ルビーやサファイアなどの大きな宝石で彩られ、上部の十字架と宝珠はキリスト教の世界を象徴するとの事だ。
更に、バッキンガム宮殿からウェストミンスター寺院に向かう際に乗るのが”ダイヤモンドジュビリー・ステートコーチ”で、戴冠式の後に宮殿に戻る際に乗るのが”ゴールド・ステートコーチ”。
この金ぱくと宝石が施された豪華絢爛な馬車だが、エリザベス女王はかつて”ひどい。あまり快適でない”と漏らした。
この戴冠式で一番話題になってるのが、2番目の妻であるカミラ夫人の肩書である。彼女にはこれまで”国王の配偶者”を意味する”クイーン・コンソート”という称号が使われてたが、今回の戴冠式で初めて”クイーン”という称号が使われる。
伝統的な儀式が守られる一方で、エリザベス女王の時(1953)と比べ、規模を抑えたものになる。前回の参列者は8000人以上だったが、今回は2200人程度になる見通しで、式典の時間も短くなるそうだ。
一方で、最大の課題は英国王室の存在意義について”国民の理解を得られるか?”にある。
4月に行われた調査では、”君主制は良い”と回答した人は全体の53%で、”悪い”の14%を大きく上回った。ただ、4年前と比べると”良い”は7ポイント減り、”悪い”は4ポイント増え、その差は縮まっている。
特に、若い世代ほど王室離れは多く、18歳から24歳まででは”悪い”が2割を超えた。
この背景には、記録的なインフレが続き国民の多くが生活費の高騰に苦しむ中、王室は莫大な不動産収入や税制の優遇措置などにより、”優雅な生活を送ってる”という批判がある。
事実国外でも、英国連邦の一部の加盟国では、エリザベス女王の死去を機に”立憲君主制を廃止し、共和制に移行するべきだ”という声が高まり、国際社会での英国の存在感の低下に拍車がかかるとの指摘もある。
以上、NHKNewsからでした。
一応、戴冠式の説明を渋々と書いてはみたが、正直”アホ臭”というのが本音である。
私は(日本も含め)世界の王室制度には反対である。非国民と非難されそうだが、”税金は国民の為に使うものであり、一部の特権階級に使うべきではない”との考えからである。
タイトルに”戴冠式と猿の儀式”と揶揄したのも、言い過ぎではないと思う。つまり、国民である前に(猿とは異なる)人間でありたいのだ。
結局、大英帝国の流れをくむ島国のイギリスも、日本と同じでムラ社会の儀式に群れたがる猿と同じ生き物であろうか。
因みに、2019年の毎日新聞調べでは、(象徴)天皇制度賛成が74%で、”廃止すべき”の7%を大きく上回った。自民党支持も8割を超えてたから、”天皇=自民党”という縮図は昔も今も変わらない。
結局、戴冠式は王族の為だけにあり、国民はそんな偽善的な儀式に喝采を送るだけの無能な隷属に過ぎない。つまり、王室が無能なら国民も無能なのである。
そんな国民の血税が宝石や金ピカの王冠や馬車に使われても、いや超豪華な別荘や愛人とのデートやギャンブル代に使われても、我ら庶民は何も言えないまま今まで生きてきた。
カミラ王妃のパンツが金泊で出来てても、チャールズ国王のコンドームにルビーが散りばめられても、我ら愚民は何も言えないのである。
バカ息子のハリー王子が夜遊びに税金を散財しようが、妻のメーガンが人種差別を盾に英皇室を非難してボロ儲けしようが、英国民には一銭も跳ね返っては来ない。ダイアナ妃がどんな死に方をしようが、どんな書き方をされようが、一銭も得るものはなかったのだから・・・
儀式と共同体
人間の集団には、祈り・戦い・踊り・詠唱などの儀式がある。そして、その儀式の違いが過激な集団と平穏な集団の違いを生んでいるらしい。儀式はまた文明の誕生とも深く関係する。
儀式は人間にとって普遍的な行動であり、”社会集団を固める糊”の役目を果たしている。
文明に大きな影響を与え、共同体の構築に深く関わり続けてきた儀式だが、教義的儀式と呪縛的儀式の2種類に分けられるという。
前者は、教会での祈りや学校で毎日の様に行われる”忠誠の誓い”の暗唱など、このような儀式は子どもや新たな加入者にも簡単に教える事が出来、宗教団体・部族・都市・国家など、幅広い人々からなる共同体の形成に適している。そこには、メンバー間の直接的な接触は必要としない。
一方で後者は、新たに加入するメンバーを殴り、怯え上がらせ、自ら身体を傷つけたりして、精神的肉体的に呪縛状態(トラウマ状態)に追い込む儀式的行為である。この様な呪縛の儀式は偶にしか行われないが、その強烈さ故に、強い絆や連帯感を作り出す。
これは、カルト集団や戦闘小隊やテロ集団などで普遍的に行われ、教義的儀式を行う集団ほどの規模はなく、画一性や中央集権構造や階層構造を持つ組織も皆無だとされる。
以下、「人間は儀式をするサルである」を参考に簡単に纏めます。
人類学者のHarveyWhitehouse氏は1980年代後半、「儀式と宗教の多様な形態」に関する理論を最初に提案し、その理論を発展させてきた。が、最近までは”都合のいい事例ばかり選んでいる”という批判を受けていた。
これに対し、BrianMcQuinn氏はリビアに赴き、呪縛的儀式と教義的儀式が、小規模な反政府武装集団から大規模な戦闘部隊へと進化する過程で、どの様に関わり合ってるかを調べた。
リビアの反政府勢力の戦闘員に関する彼らの研究は、小さな集団が戦闘というトラウマを共有する事により固く結びつく過程を明らかにした。これは呪縛的儀式がメンバーに恐怖を与える事により団結を強化するのと似ている。
因みに、世界中に広がる74の文化の645の儀式についても同様の結果が得られ、儀式は2つの種類に分けられた。
では、呪縛的儀式が教義的儀式に移行する際に何が起きたのか?
人々が団結して大規模で協力的な共同体を形成し、農耕や牧畜に打ち込む様になり、かつては狩りによる(殺伐とした)呪縛的儀式が教義的なものへ移行したと推測されている。
事実、現代社会では農業が盛んな土地ほど教義的儀式がよく定着してるという研究結果もある。
儀式が心に与える影響
例えば、軍隊の行進では膝を曲げずに脚を高く上げて行進する様式がある。社会心理学者らは、そのシンクロした身体運動がメンバー間に連帯感や信頼感を育む事を指摘する。
人類学者のRichardSosis氏は、イスラエルのキブツと呼ばれる農業共同体で行った研究で、集団的な儀式(例えば共同体での祈り)に熱心に参加してる人ほど、経済ゲームにて協力的な行動をとる回数が多い事を発見した。
一方で、儀式には物騒な側面もある。心理学者のAraNorenzyan氏は、パレスチナ人について行った調査から、自爆テロへの支持は個人的な信仰心より共同体儀式への参加回数に強く関係する事を示した。
つまり、儀式は集団の見解や好みを”神聖不可侵の価値”に変える事で紛争を助長させる面がある。この神聖不可侵の価値は絶対的で、話し合いの余地のない信念であり、金銭などの物質的利益と交換する事ができない。
イスラエルとパレスチナ紛争は丁度これに当てはまる。
こうした儀式による価値観や好みの神聖化の例として、米国では教会に行く頻度が高い人ほど、”武器を所持する権利は神聖不可侵の価だ”だと考える傾向が強いという。
人類はその歴史を通じ、強い感情を喚起する儀式は我々を団結させ、敵と戦う力を与えられてきた。一方で、(安住の場を求め)あちこち移動していた遊牧民が1つの場所に定住し始めた時、人類は初めて信条を暗唱し、同じ儀式を頻繁に繰り返す事で、遥かに大規模な共同体を構築する可能性を見いだした。
ただ、このような結びつきが人類全体に当てはまるかは疑問だが、儀式が集団行動を形づくる仕組みを理解する事で、儀式を利用して集団どうしの紛争を収める方法を見いだす第一歩となるかもしれない。
以上、Natureダイジェストからでした。
人は儀式をする猿である
サルは人間社会と同じで、群れで”掟”(おきて)を学ぶ。
群れの中には、空威張りする者や自分より強い者におもねる者、横目で見ながら無視を決め込む者。サル山はまるで人間社会の縮図を見ているようだ。
エサを巡って争うなど行儀が悪い者は、より大きいサルが力でねじ伏せる。群れの規律を乱す若いサルには、親以外の大人たちが厳しく躾けて掟を学ばせる。
これと同じ様に、長く続けられてきた伝統の儀式が”悪い独裁者を倒し、新しい形の平和的な共同体が形成される”のに有効に働くとすれば、まさにサル山の掟は人類社会の儀式と同じで、人はパンツを履いたサルどころか、”儀式をするサル”とも言える。
チャールズ国王が儀式を行う猿であるのなら、英国王室はロイヤルファミリーと言うよりも猿山の群れに近いとも言える。
そんな猿山に似た、世襲的特権階級の群れに国民の税金が使われている。勿論、猿山の保護に税金が使われるのならば納得は出来る。しかし、猿に似たチャールズ国王を中心とする(ロイヤルファミリーという名の)猿山の群れに多額の税金が使われるのは腹が立ってならない。
だが現実には、こうした猿山のそれによく似た戴冠式という名の儀式に、(英国民だけでなく)多くの日本人も浮かれまくる事だろう。それも、ロシア=ウクライナ戦争が終わってないのにである。
カチンとくるのは、そういう事である。
英国王室は今回の戴冠式について”長い伝統に根ざすと共に、現代王室の役割を反映し、未来を見据えたものになる”としてるが、現代社会において王室や皇族がどれだけの役割を果たせるのか?甚だ疑問である。未来を見据えるのであれば、(解体も含め)王室の基本的な変革も見据えてほしいものだ。
一方で、戦後”人間宣言”をした昭和天皇だが、昭和天皇の死は実質の”天皇制度の終わり”を見た気がする。
因みに、皇族の生活資金や公務費、それに約1000人の宮内庁職員(天皇固有の宗教儀式に携わる内廷関係者)の人件費や皇居維持補修費などに、毎年約240億円の税金が投入されている。が、余計な儀式を排除すればもっと安くできる筈だ。
知識人には天皇制反対派が多いとされる。それに、(神ではなく)国民の象徴に過ぎない”天皇の存在は日本国憲法に矛盾する点が多すぎる”という声もある。一方で、”天皇の存在が日本の平和を支え続けている”という声もある。
私は知識人でも法律家でもないが、天皇に纏わる儀式を1つ1つ排除すれば、天皇の本質が見えてくる筈だ。新たな天皇制の在り方の議論は、そこから始めるべきかもしれない。
少なくとも、天皇は私の王でも神でも、ましてや我ら庶民の象徴ですらない。民主主義とは異質な存在の天皇制や君主制という名の幻想に、我々は踊らされてただけなのかもしれない。
政治権力を相対化させる存在である、権力を持たない君主制は”優れた人類の叡智”と長らく信じられてきたが、今では腐敗した世襲制の象徴になりつつある。
つまり、政治が腐れば君主も腐る。しかし、残された国民は腐る訳にはいかない。
国民の象徴は国民以外にはあり得ないし、戦時の”天皇陛下バンザイ”は悪しき全体主義に過ぎなかった。
そもそも、民主主義と天皇制は水と油なのである。天皇が国民の象徴であるという幻想はやがて妄想に変わり、そのコストが掛かり過ぎる妄想に我ら国民は、今までもこれからも踊らされ続けるのだろうか。
所詮は猿山の世界と同じ
要は宝石で着飾るか
裸のままで王様になるか
こうした人類が長く続けてきた王室の文化も
猿から見ても現代人から見ても
彼らの世界とは何ら変わらない
大衆がパンツをはいた猿なら
王族はタキシードを身に着けた猿
ってことになる
”猿の王室”ですか
うまい事言いますね。
一本とられました(笑)。
私の父型の家系も天皇制は反対でした。
母も老いた昭和天皇を(微妙ですが)軽蔑していました。
そういう私は若い頃はどっちでもよかったんですが、昭和天皇が死んでからは天皇制反対に大きく傾きました。
皇室制度を続けるなら、中央政府とは切り離して、”小さな皇室”にすべきだと思います。
という事で、こういうテーマはどうも微妙になるんですよね。
コメント面白かったです。