”あしたのジョー劇場版”(1980)を深夜のTVで見たら、実に懐かしく見入ってしまった。
劇場版の”ジョー”は僕が知ってる矢吹ジョーではなかった。物凄く繊細にイケメンに見えた。ナイーブで温和な若者に描き直されたかに思えた。
画質や画風は、子供の時に見たTV版と全く同じな筈なのに。
雑で荒々しいというイメージが子供の頃の脳裏に焼き付いてたせいか、意外な程に新鮮味を帯びていた。”平成版あしたのジョー”と紹介されても疑わなかったろうか。
でも正直、”矢吹ジョー”は私の好みじゃない。ノーガードスタイルやクロスカウンターがどうも好きになれない。それに、”泣き”の丹下団平が好きになれない。二人共悲しすぎて貧しすぎて、好きになれなかった。
逆に、エリート感溢れる力石徹が大好きだった。とてもリッチに格好良く、子供の私には映った。イケメンのトーマスハーンズみたいで、顔も阿部寛に似てるから余計に贔屓目になる。
しかし、所詮は漫画の世界。現実離れした色んなキャラ群が漫画では必要になる。特にTV版では、力石が現実っぽく人間臭く描かれてるのに対し、矢吹は空想っぽいというか、描き方が雑に思えなくもない。吹替があおい輝彦のあの独特の美声が故に、何とかバランスを保ってるが。
人のイメージというのは、時代と共に歳を重ねるうちに、様々に変わっていく。若い頃嫌で嫌で堪らなかったキャラが、歳を重ねるととても頼もしく凛々しく見える事がある。
そういう自分も子供の頃は、大学の教授やお医者さんや研究者達がとても格好良く見えた。しかし、歳を食った今では、知的人種な筈の彼らがとてもガサツに見える。いや粗雑に稚弱に思えるようになった。
なぜだろう?
時代が変われば価値観も変わる。価値観が変われば見る目も変わる。見る目が変われば好みも変わる。好みが変われば、嗜好も思考も志向も、そして性格も人間も変わる。果たしてそれだけだろうか?
あれ程、カッコ悪くアホに雑に思えた矢吹ジョーが、今ではとても凛々しく精悍にスマートに見える。丹下団平が思慮深い、名トレーナーに思える。ただのチンピラ餓鬼が、単なる酔っぱらい老人がである。
でも力石は力石のままだった。私がイメージしてた通りの力石だった。ただ、少し弱々しく映った。勿論、劇場版とTV版では味付けが微妙に異なるからでもあろうが。
ただ、ボクシング経験者から言うと、あのクロスカウンターはまず有り得ない(笑)。パッキャオvsマルケス戦みたいに、相手の左ストレートを右のオーバーハンドで合わせる事は出来なくもないが。それに、ダブルクロスカウンターなんて絶対に有り得ない。
今振り返ってみると、その有り得ないクロスカウンターですら、ありかなと思ってしまう。それに子供の時はグロテスクに見えた(笑)、令嬢の白木葉子さんもとても魅力ある女に描かれてる。
なぜだろう?
オレが変わったんだろうか。自分という人間が根本から変わってしまったんだろうか。人の細胞は全部で60兆個あるが、約3ヶ月で全てが入れ替わるという。
という事は、1年で4度新しい自分が再生するという訳か。そう考えれば、自分が全くの別人になっても驚く事ではないが。
ただ細胞の再生には、個々の遺伝子情報が引き継がれるから、ワニが一夜にしてヘビに化ける筈もない。ワニはワニなりにワニらしく、細胞の再生を延々と繰り返すのだろう。
つまり、ジョーはジョーなりに変化するし、力石も力石らしく変化する。しかし、新しく生まれ変わった矢吹ではないし、進化したジョーでもない。やはり矢吹ジョーは、TVでも劇場でも矢吹ジョーのままだ。
かつてイチローが、進化という言葉をしばし口にしたが、彼は進化を重ねる度に退化した。テクノロジーの進化がヒトを退化させるように、イチローのバットコントロールの進化は、彼を退化させただけなのか。
漫画で描かれた矢吹ジョーも力石徹も、ちばあきお氏の頭の中で細胞分裂と再生を繰り返し、劇場版では微妙に”変異”したその姿を披露した。
見る側が変化を繰り返せば、漫画上の人物は漫画家の中で”変異”してると言っても、殆ど不変なままな筈だが。私達が昔と同じ視点と思い込みで見るならば、矢吹ジョーは私達以上に”変異”してるという事になる。
つまり、矢吹ジョーや力石徹は私達が思う以上に、漫画家の生命が魂が強く吹き込まれ、ゆっくりと時間を掛け、変異してるという事になる。
何はともあれ、”あしたのジョー”に変わりない。私達と同様に、人生の試練や細胞の再生を繰り返した末の”あしたのジョー”だったのだ。少なくとも、きのうのジョーでも昔のジョーでもなかった。
この試練と再生の繰り返しこそが変化であリ変異であるなら、無理して進化する必要はない。新年の抱負とか目標とか立てる必要もない。すでに人の全細胞は、無意識に新しい年に向かって再生を繰り返してるのだ。
つまり、進化よりも変化、変化よりも変異。そういう何かを感じ取った”劇場版あしたのジョー”でした。何だか連日漠然としたテーマでスンマセン。
どの年代の時に、その作品を味わうか、、これって、けっこう大きな要素だと思います。
丁度親父が亡くなった時と矢吹ジョーが重なったんですか。その負のイメージが強すぎて、”あしたのジョー”にはいい思い出が余りないというか。
でも力石徹には憧れました。とにかくカッコよかった。ブルース・リーや大場政夫に並ぶヒーローでしたね。今でもですが。
なんか、あの頃のアニメは主人公が孤児という設定が多かったような・・・
力石が死んだ時、本当に葬式をあげたのは
有名な話ですよね。原作の漫画家である千葉さんに言わせると力石のモデルはナポレオンだそうです。
私もジョーより力石の方に憧れました。
力石のモデルはナポレオンですか。どうりで出来過ぎだと思った。
あしたのジョーの主役は一応、矢吹ジョーなんですが。力の入りようはジョー以上ですもんね。
長いリーチでアッパーカットを主武器にするあたり、既にボクシングの高度なテクニックを先読みしてたんですね。ハーンズみたいにデトロイトスタイルだったら、無敵だったでしょうに。
ホセメンドーサと闘わせてみたかった。