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タイトルを”たかがブログされどブログ、その2”に変更です。カテゴリも”ブログ系”と新規に登録します。悪しからずです。
gooブログには、設定で寄せてくるコメントを非表示にしたり、コメントを拒否出来る便利ながある。
どんなコメントにも、そこには感情があり、共感や同感があり、罠に掛けるトリックもトラップもあるだろう。ひょっとしたら、重要なヒントも隠されてる事も。
人気の尺度であるアクセ数にしても、当然の如く、多くのトリックとトラップは隠されてる。知人であるSEが教えてくれた事だが。あるプログラムを使えば、幾らでもアクセ数は増やせるとか。でもそこまでして人気を煽りたいのも”人の情け”ではある。
因みに、マイネ王の”ナイス連打”は禁止になった程だ(笑)。
しかし、ブログの本当の旨みは、卓越した本物のコメンターを獲得する事であろうか。百のクリックより、真理をついたコメント。”満足したソクラテス”のクリックでも悪くはないが。どんなコメントが返ってくるかで、ブログの真価が問われるのかも知れない。
勿論、良薬は口に苦しで、受け容れたくない思想や哲学、人生観もあろう。特に、日本人は自己否定に弱い。否定される事は死を意味する場合もある。
一方、狩猟民族の欧米人は、自己否定を繰り返す事で、合理的に効率良く進化していく。我ら農耕族とは大きな違いだろうか。
ブログを公開する事は、自分の気持ちや言いたい事を、人前では顔を向けては言えない事を言える良い機会と見るべきか。
同時に、相手のコメントを遮断したり、吟味する事もブログの大きな利点の一つ。悪意あるサイコ的コメントを遮断する事で、ブログの荒廃を遮断できる。便利になったものだ。
でも、それが度を過ぎると、自分の思考や思想の中に、自分自身を閉じ込める要因にならないとも限らない。思考や思想は守るものでなく、拡張してこそ熱い血が通った柔かなものになる。
勿論、思想や思考を拡げれば、自己否定にも遭遇する。しかし、"否定は進化の母"であり、ハンナ•アーレントではないが、"考える事をやめた時、凡庸は悪に変わる"。
一方で、このままで上手く行ってんだから、そっとしておこうよ。というのも。ブログは自分本位で楽しむ、自由なネット上の喋り場なんだから、堅い事言わずにって声が聞こえてきそうだが。
理想のブログに出会う時がある。私自身、プロアマ含め、人気ある様々なブログやコラムを読んできた。世界が広いのと同様、ブログの世界も恐ろしく広い。玉石混交の世界でもある。
ググればググる程に、様々な素晴らしいブログに出会う。そして、ブログの偉人も達人も、確実に存在する。若人のエロ小説もいい感じで、実にナイスである。
19世紀にバルザックやゾラが生まれた事も全くの驚異だが。今日、ブログがこれ程までにネット上に蔓延する事もまた、奇跡である。
それに、年配方のブログは、重く深く、人生の質感に富む。神経を擦り減らし、心身を削られ生き延びてきた、独特の哀愁と味わいが、私の心をえぐる。深い闇のブログに惹きつけられるのは、贅沢の極みというものか。
若い人だって、恐ろしい程の読書家がいる。全く羨ましい限りだ。大袈裟だが、ブログはその人の人生の報告書なのだ。
最後に、オースター風にです。
”書く事には意味はないし、言葉は真理ではない。ブログは、心の闇を映し出す鏡であり、存在するその在り方である”
ブログという言葉のお遊びは、単に心の働きを調べ、心が見た世界の一部を映すに過ぎない。ブログの世界もまた無限に錯綜した、ネットワークの総体に他ならない。
私もブログを書く様になって、昔の事を色々と思い出す様になりました。書く事って脳を活性化させるんでしょうね。