前回(その1)は、キャピー原田の生い立ちと入山正夫との友情と絆について書きました。今回は、もう一人の主役である入山正夫氏についてです。
但し、入江さんの場合、ウエブで調べても殆ど紹介されてなく、この「2つのホームベース」で書かれてる物語が唯一ではないかと思われます。字数に限りはありますが、できるだけ忠実に述べたいと思います。
戦争が2人の運命を切り離そうとする程に、2人の絆はそれ以上に強くなる。
友情と絆の違いは、友情は情けそのものであり、絆は必然そのものであるという事。
つまり、運命も友情も切り裂かれても、絆だけは時を超えても場所は違えど、地下深くに根を張った巨木の様に、しっかりと存在する。
入山正夫
「2つのホームベース」の本当の主役は、セカンドを守ってたキャピー原田さんではなく、ショートストップを守ってた入山正夫さんだ。
1941年、キャピー吉田は地元サンタマリア・ハイスクールの野球部キャプテンとして、堅実な守備と強気の打撃で鳴らしていた。
その時のショートのポジションにいたのが入山だった。生まれ(1921年)も郷里(和歌山県日高郡)も同じ、”黄金の二遊間”と称され、広くその名は知られていた。
入山氏は現在、ロス郊外のウエストミンスターで庭園用具の販売と修理をしている。
自分の店を持ち25年になるが、それまでは色んな辛い仕事をこなしてきた。落ち着いたのはここ10年程の事である。
著者の佐山氏は、カリフォルニアでの日系人たちの新年会で入山と初対面した。色んな思い出話をしてる内に愚かにも、キャピー原田という名前をつい口にしてしまったのだ。
というのも、原田氏は収容所ではなく米軍に属し、一方でアメリカへの忠誠心を拒否し、強制収容所に入れられた入山氏とは、全く逆の立場だったからだ。
”キャピー(原田)さんは雲の上の人になってしまったから”と、入山は懐かしがった。
入山はロス近郊のサンペドロで生まれ、3歳の時に一家は日本へ帰る。その日本で徹底した教育を受け、17歳を目前にして、兄と共に再びカルフォルニアへ戻った。
農場の手伝いをしながら、グラマースクールに通い、ハイスクールでは野球に没頭した。英語もわからず、野球だけが唯一の自己証明書だった。因みに兄の登氏は、かのスタルヒンからホームランを放った豪腕スラッガーとして鳴らし、お陰で、読売巨人からの誘いもあったが、やむなき事情で断っていた。
入山は、同じ和歌山の紀州を故郷に持ち、それも同じ歳(1921年生まれ)で学年が1つ上のキャピー吉田と出会う。
しかし彼は、既にキャプテンとして伝説になっていた。
サンタマリア・ハイスクールはスポーツでも名門だったが、特に野球部は強かった。
各ハイスクールから集められた”オール・カリフォルニア”は、もっともっと凄かった。そのチームには、1塁手(外野手)にテッド・ウィリアムス(BOS)、3塁手にボブ・レモン(CLE)、そして捕手には、ジャッキー・ロビンソン(LA)らの往年のスーパーメジャーがいた。そして、2塁手には何と吉田氏が選ばれた。
2人はチームの伝統を引き継ぎ、サンタマリアでもその名を轟かせた。1つのベースが2人を強く結びつけていたのだ。
”キャピー(原田)さんは英語も得意で、ハイスクールを出ると地元のカレッジへ進学され、戦後はマッカーサー元帥の元、GHQの中枢部として活躍されました。偉くなったもんだなと、驚いてばかりで・・・”
ヒラリバー収容所
そんな入山だが、3千人を超えるヒラリバー収容所での生活は最初から苦難を極めた。
建物も施設も乏しく、病人が続出する。彼らは3千エーカーの広大な土地を切り開き、農作物を育て家畜を飼った。
アメリカには、計10箇所の日系人収容所があり、人数は11万を優に超え、精神的に極度に追い込まれた日系人らには、トラブルが耐えなかった。
入山は野球がしたかった。とにかく熱中するものが欲しかった。しかし、アリゾナの乾燥した荒地は野球場を作れるレベルではない。
男らは荒れ地をシャベルで掘り起こし、何とか簡易スタンド付きの野球場を完成させた。
お陰で、ヒラリバー収容所では年中野球が出来た。計32チームで覇権を競い合い、日曜日に行われる真夏の大会は40度を超えた。それでも彼らは野球をやる時だけは全てを忘れた。
ボールやバットなどの野球用具は、米軍管理局から支給された。暴動を起こされるより野球で発散してもらった方が都合いいのだ。
入山のチームは最強だった。ガダループのメンバー殆どがこの収容所に集まってたからだ。殆どの若い女性の関心は彼らに集まり、彼らも野球をしてる時こそが至福の時間だった。
しかし、そんな至福の時は長くは続かない。1943年1月、アメリカ軍は日系人戦闘部隊の創設を発表し、17歳以上の2世男子に”忠誠登録”が強要された。
約7万8千人の登録対象者のうち、YES組は約6万8千人(87%)で、残る5千3百人がNOと答えた。因みに、女性では18%がNOと答えた。
アメリカ軍に志願した者は1200人で、800人が採用され、日系人のみの”442部隊”として戦場へと向かった。
切り避かれれた2つの運命
入山正夫は全く迷う事なく、自らの意思でNOと答えた。
アメリカが日系人から日本国籍の権利を剥奪する、そのやり方が許せなかった。日本で徹底した教育を受けた彼には、日本への忠誠を誓うのが自然だった。つまり、生きる規範が日本の教育勅語にあったのだ。
前回で、キャピー原田が米軍に行った経緯を述べたが、彼と入山正夫との大きな違いはここにある。原田には教育を受ける為に幼少時に日本に戻ったという経験はない。
つまり、日本の教育が骨の髄にまで染み付いた入山に対し、その規範から自由であった原田が、米軍に志願するのもこれまた自然な流れではあった。
こうして、かつては黄金の二遊間を組んでた2人の運命が切り裂かれる事になる。1人は米軍に、もう1人はNO!組の強制収容所へと。
しかし、入山正夫にとって切り裂かれたのは、原田恒夫だけではなかった。正夫の兄・登も全く違った道を歩む事になる。
兄には兄の判断があった。彼はアメリカでの滞在も長く、既に結婚もしていた。正夫はかつてスタルヒンから本塁打を放った兄を尊敬し、父親の様に慕っていた。運動能力は正夫をも凌ぎ、ガダループでは同じチームでプレーし、とても楽しい記憶が蘇る。
しかし、それも遠い夢となった。
忠誠を拒否したNO!組は、ツールレーキの強制収容所へと送られる。緑が一切ない焦げ茶色の高原が広がる寒村地帯は、いつもは温厚な入江の気持ちを大きく沈み込ませた。
後に女房となる田端マツコは最後まで迷ってたが、いつの間にかNO組に入れられ、入江と同じツールレーキへ送られた。
1対1なら絶対に日本が強い
前回で述べた用に、丁度同じ頃、日本軍の襲撃から何とか命からがら生き延びた吉田だが、野戦病院に入れられ、そこで大学の通信教育を受けた。
もし戦争がなかったら、ハンコック・カレッジからカリフォルニア・バークレー校に進み、ジャーナリズムを専攻する予定だった。
しかし、病院に入れられてる時こそが神から与えられた絶好の機会と感じた。結局、病院内でバークレー校の卒業資格を取り、故郷のサンタマリアに戻った。
吉田が大怪我から回復するに比例するかの様に、アメリカは日本を次第に追い詰めていく。東南アジアでのゲリラ戦では犠牲の多い正面攻撃を避け、敵の補給線を遮断する事で確実に前線を推し進めていった。
怪我から回復し、ニューギニアの前線に戻った原田は、日本軍が残していった食料を食い漁った。というのも日本食に慣れきってた原田には、米軍の食事は不味くて食えたものではなかったのだ。
この頃になると、マッカーサーの部隊は一度は撤退したフィリピンを奪還する所まで来ていた。レイテ沖海戦(1944年11月)では、追い詰められた日本軍が神風特攻を開始する。
実は原田も、この特攻隊の攻撃を受けて、腰を負傷したが、運よく死を免れた17、8歳の若い飛行士を尋問した。
”これから何をしたい”
”もう一度戻って、ここを攻撃したい”
この時原田は、”1対1なら絶対に日本兵が強い”と確信し、同時にこの少年の言葉に戦慄を覚えた。
少し長くなったので、今日はここで終了です。次回(後半)では、強制収容所での入山の苦悩と戦争の終わりについてです。
野球選手としてもかなりのレベルなんだよな。
テッドウィリアムやジャッキーロビンソンらと同じチームにいたんだ。
今ならイチローみたいなもんか
当時のメジャーは彼らのクラスでもマイナーを経験してメジャーに上がったから、今みたいに低くはなかったんだ。
それに日系人のリーグといっても、当時の六大学野球のレベルにあったし、巨人軍が強くなったのも彼ら日系人のお陰だって聞くけど。
少し調べたんだけど、原田さんはその架け橋にもなった。
でも原田さんの相棒である入山さんのことはほとんど紹介されていない。
お兄さんがスタルヒンから本塁打を放ち、巨人軍に入団の誘いを受けたのを見つけるのが精一杯。
こんな本を見つけてくるなんて、転んだ君も野球が大好きなんだよな。
確かに、この頃の日系人野球のレベルは凄く高いですよね。
初期黄金時代の巨人軍も日系人のスター選手が多かった。お陰で常勝巨人軍の礎がここにて築かれました。
キャピー原田や入山正夫さんが巨人軍に入ってたら、王や長嶋をも凌ぐスーパースターになってたでしょうね。
野球が好きというより、佐山和夫さんの感性が好きなんですよね。