あるブログ友の言葉に、”僕は妻に僕のマリア様を見出している”とあった。クリスマスにふさわしい言葉だと感動した。この言葉と全く同じ事が再現されてる小説がある。ここまで言えばピンと来る人もいるでしょうが。そうです、ゾラの『制作』です。
ゾラと言えば『居酒屋』ですが、この制作を読むと彼の別の一面を見たような気がします。クリスマス明けにはピッタリの一冊かもしれません。
もう一つゾラと言えば、ルーゴンマッカール叢書が有名です。ルーゴンマッカール家の悪の遺伝子が環境によってどう暴れだすかを、一連の小説群にしたんです。この”制作”はその14作目。マネ、セザンヌなどゾラの友人の画家たちをモデルにしたゾラにしては、珍しく自伝的な小説に仕上がってます。
バルザックが、人間の奇怪で滑稽で悲壮で厄介な人間の特質の中に、非常に繊細で濃密な洞察という鋭いメスを入れ、高質で奇怪な人間観察を行ったのに対し、ゾラは遺伝子と環境という領域にまで拡張し、攻撃的で破壊的な文学に昇華させました。
丁度、オイラーがゼータ関数を発見し、リーマンがそれを複素数の領域にまで拡張し、数学そのものを大きく変えた様にです。
翻訳者の清水正和さんの解説がベストすぎて、これだけでも”制作”の本質が見抜けそうな気がします。清水氏の"目に鱗"の解説に関しては、”制作に見るゾラとセザンヌの決裂と影響と”ブログを参照です。
この作品はまさに、印象派の巨匠の苦悩とロマン主義の新世代の無垢な躍動が入り混じる、フランス近代絵画の激動の物語と歴史の生き写しを、見事な迄に描いた巨編といえますね。
主人公のクロード•ランチエが、クリスチーナの裸体に身も心も翻弄された所から、この物語は動き出すんですが。丁度、才能という石炭を官能という炎の中に焚べ、勇ましく蒸気を吹き上げた機関車がゆっくりと動き出す様にですかね。自分ながらいい表現ですかな。
若く才気溢れるクロードは、ひたすら"外光"に拘った。当時を支配してた印象派の大家など、クロードの眼中には全くなかった。
そして、この”外光”こそが、新鮮な太陽の光こそが、陰湿で苦悩に満ちた時代を、そして、パリを覆すかに思われたが。その外光も単なる”虚光”に過ぎなかったのです。
結果、クロードの絵は"光"を浴びる事なく忘れ去られ、命と共に葬り去られます。お陰で全く、悲しくもあり、奇怪でもある傑作に仕上がってる。でも、この"外光"こそがこの作品の大きな核ですかね。
彼は先ず、妻になるクリスチーナを、絵の中で忠実に再現しようとした所から物語は始まります。彼女の中に真実を、絵画の中に真理を、そして、魂の中に燃え盛る画家としての野望を見出そうと、クロードは才能という名の蒸気を蒸していくんですが。
しかし、彼は絵と共に、青春を人生を生き、全てを芸術に捧げ、最後はその芸術と卓越した才気に裏切られてしまう。
クロードの煩悶と肉体の好奇心、それに激しい欲望に、芸術家としての驚嘆と若い女の裸体に対する熱狂的な官能と興奮とが入り混じり、歓喜と狂気と化す。そして、これらが生み出す幻想や妄想すらも、彼の全てを支えた。
しかし残酷かな、時代の流れは、じわりじわりと、クロードの画家としての未完の才気を、彼が命を注ぎ込んだ"知られざる傑作"によって、自ら注ぎ込んだ情熱と歓喜と共に、この傑作を自らの才能を奪い去ってしまう。
この"知られざる"絵画の中に描かれた女は、今やかつて愛してた若く麗しいクリスチーナである筈もなく、不完全に塗り固められ、グロテスクな様に変貌した奇怪な裸の女なのです。
しかし、クロードという哀れな芸術家にとって、絵の中のこの無機質で歪な風采の裸体像は、彼の魂の中では永遠であり、絶対の女王であり続けた。そして、クロードを次第に蝕んでいく。
勿論、クリスチーナも必死で彼を救い出そうとしますが。彼女も昔の様に若くも官能的でもないのです。"私を見て、昔と全くかわらないわ。絵の中のあの淫売女よりもずっと瑞々しく官能的だわ。さあ、私を抱いて頂戴"
しかし、クロードは無機質な態度でクリスチーナを無視し、彼女の身体も心をもズタズタにしてしまう。
クロードはこの歪な淫売女に、マリア像を見出すんですかね。
そして最後に、彼は異教の女神の声を聞きます。一度目は幻覚か、しかし、二度目ははっきりと。クロードは絵画の中の女の前に立ち尽くし、"もうこれで終わりだ。今行くよ"と呟き、首を括るのです。
彼は絵の中の女に身を捧げ、死んでいく。それも不完全な未完成のグロテスクな女にです。
クロードはこのグロテスクな裸体像に、自らの悪の遺伝子を見たんです。彼が生涯を掛けて描いたのは、自らの得体のしれない悪だったんです。真理を描こうとして、その真理を追求した先には、悪が待ち構えてたんですな。
自らの奥底に潜む闇と悪、これこそが彼が表現しようとした真理であり。その深い闇に埋もれた真理を照らし出す為には、自然の眩いほどの圧倒的な光、つまり、"外光"が必要だったのです。これで、"外光"の謎が解けましたね。
自然を、現実を、そのまま等身大に忠実に描くとは、闇に光を当て、悪そのものを描くに他ならない。得体の知れない宗教的な悪の偶像を、歪んだ情慾のシンボルを、狂気と幻想が生んだ悪の化身を描くとはこの事なんですね。
ゾラのロマンと幻覚が生みだしたこの大きな衝撃作は、事実、印象派の巨匠にも大きな影響を与えました。そして、その後の近代絵画に大きく寄与したんです。
どうです?クリスマス明けにオススメの一冊ですかな。
でも、ゾラの急死に衝撃を受けたセザンヌが、晩年に描いた集大成的連作は、ゾラへの友情とも言われてますね。
芸術家ってそういう傾向が強いみたいね。恋人や奥さんをお化けやお人形みたいに描いて、自分の欲求不満を解消するのかな。
でも女性としてはかわいく描いて欲しいかな。
ではバイバイ👋
セザンヌみたいに雑っぽく描くとロマンチックでもなくなるから、ルノアール風に繊細に可愛くがいいのかな。
では、バイバイです。