夢の中で私は、(豪華客船と言うには程遠いが)大きなフェリーの広く真っ白なデッキにいた。
360度真っ青に広がる海を見てると、気が遠くなりそうになった。
するとその時、ある女がはしゃぐ様にしてこっちに向かってくる。
女の表情は清々しくはあったが、「前回」の夢に出てきた”嫌な女”には違いなかった。
いや、しかし、一つだけ大きな違いがあった。
それは、私と彼女はどうやら和解したらしく、結婚してる(らしい)のだ。そして、この客船でのこの不可思議なひと時は、新婚旅行?という事になるらしい。
あまりに出来過ぎ感のあるシチュエーションに、普通なら夢と感じる所だが、不思議と私はその余韻に浸っていたかった。
「前回」でもそうであった様に、横にいる女は誰でもよかった。過去がどうであろうが、もうどうでもよかった。
嫌な思いは、いつしか心地良い思いに変わるのと同じく、”嫌な女”もやがては自分にとっては”都合のいい女”になる。
絶望はいつしか希望に変わり、破綻は新たな創造に変わる。つまり、全ては気の持ちようかもしれない。
続・横にいる女
私は、横にいる女を見つめる事もなかったし、見つめようとも思わなかった。
ただ、その余韻にずっと浸っていたかったのだ。
ゴキゲンな女は何か喋りたがってたが、耳を傾ける事もなかった。
それでも彼女は、楽しそうにずっと何かを喋ってた気がする。
私は女が何を喋ってたのか、殆ど覚えてはいない。とにかく彼女の機嫌が良かった事だけが救いでもあった。
普通なら、この後に最悪のドンデン返し的な展開が用意されてる筈だが、平坦で味気ない日本のメロドラマと同じく、ごく普通のありきたりな新婚夫婦のそのままが延々と続いた。
とりわけ幸せだとか、嬉しいという気分でもなかったし、まるで長年連れ添った老夫婦の円満旅行といった感じである。
しかし、彼女は光り輝いてた様にも思えたし、夢に出てきた中で、一番躍動していた。
私は、ただそれだけで十分であった。
自分が心地良ければそれだけでよかった。
相手の容姿とか性格とか、いや学力とか身分とかそういうもんは、ニ次的で付加的要素に過ぎない。
つまり恋愛の本質は、互いが”心地良い”かだけに縮約出来る(多分)。理想の恋愛とは、本来こういうもんかもしれない。
嬉しくも楽しくもないけど、いや幸せという訳でもないけど心地良い。貧乏でも心地良ければ、貧しさそのものは恐怖ではなくなる。
故に、単純に貧しさが為に戦争も紛争も起きる筈もない。貧困が穏やかな、いや緩やかな貧乏に進化すれば、それは優雅な貧乏に昇華し、ギスギスした金持ちよりかは遥かに”穏やかな勝ち組”といえよう。
少なくとも沢木耕太郎さんの「深夜特急」に登場するベナンの遊女の様に、”死ぬ事よりも怖い貧乏”とは無縁であろうか。
ダラダラとした夢だったが、心地良い夢でもあった。
その後の展開はよく覚えてないが、客船内の色んな所で遊び回ってたように思う。まるで初めて出会った時の様な優雅で穏やかな香りが漂っていた。
時が止まって欲しいとも思わなかったが、印象に残るシーンもない。
そしていつの間にか、夢から覚めていた。
夢から覚めて
ずっと前に見た夢で、殆ど印象に残らなかったので、記事にしようとも思わなかった。が、珍しい展開だと思い、書いてみると、意外にもスラスラと色んな事が思い浮かんでくる。
スリリングという点では「前回」の方がずっと充実してたが、実を言うとその時に(勿論、夢の中でだが)付き合ってた女というのが、ブログでは書かなかったがNHKBS「TheCovers」の司会者である水原希子さんであった。
私を振った”嫌な女”と彼女を比べるまでもないが、当然後者の方が美人で聡明であった。
しかし私には、”嫌な女”の方が不思議と惹き付ける何かを持ってはいた様に感じた。
勿論、その嫌な女が彼女に嫉妬して、夢に出た筈もないが、前回の続きとして見れば、滑稽すぎて笑いが止まらない。
「TheCovers」の前司会者の池田エライザさんはセクシーで魅惑的だったが、水原さんも30を過ぎて、少し落ち着きが出てきたようだ。
グラドルとモデルの違いはあるが、この二人に共通するのは”混血”である。前者は日本人の父と比系スペイン人の母で、後者はアメリカと韓国である。
夢に出てきた水原さんは、とても上品で繊細で控えめだった。
私が”君はもっと太った方がセクシーに見えるよ”と言うと、彼女は照れ臭そうに”これでも頑張ってはいるけど、なかなか太んないの。これも体質なのかなぁ”と、少し申し訳なさそうだった。
つまり、夢の中でも彼女の人柄や人物は、忠実に再現されていたのだ。
勿論、実際には遭った事も付き合った事もないから、彼女らの隠された何かを知る筈もないが、二人とも”微妙な危うさ”を抱えてる様にも思えた。
追記〜水原希子が語る”セクハラ”論
夢の中に登場してくれた水原希子さんだが、女優たちの”性加害”に対する告発が相次ぐ問題について、週刊文春の取材に応じ、自らの考えを明かしたという。
確かに、私も彼女を(夢の中ではあるが)性の一部として見ていた所がある。それは、彼女を池田エライザさんと比較した事でも明らかだろう。
夢の中だったから、セクハラで訴えられる事もなかったが、発言も行動も度が過ぎると自らを破滅させる道具となる。
水原の主演映画「彼女」(2021)は廣木隆一監督の作品で、そのプロデューサーを務めたのが、週刊文春(4/7)で女優への”性加害”が報じられた梅川治男である。
同作には性的描写が多く含まれ、そこで導入されたのが”インティマシー・コーディネーター”だ。
これは性的シーンを撮影する際の制作側と女優側の橋渡し役であると同時に、両者の潜在的な上下関係を絶つ役割を担う。
”MeToo”以降、本人の意志に反した撮影の強要が問題視され、俳優の尊厳を守る為に導入され、ハリウッドでは一般的になっている。
「彼女」でも水原が導入を提案し、実現した。が、この導入に前述の梅川は理解を示そうとはしなかった。
彼女は以下の様に、不満と本音を述べている。
”元々、芸能界には<性加害>的な側面がずっと存在して、私も男性監督から言葉のセクハラ的な発言は数え切れない程ありました。監督は無意識に言ってたのかもですが、私の中ではずっと無念の気持ちが残っています。
インティマシー・シーン(性的場面)の際に、共演の(特に)年配の役者の方が前貼りを拒否し、下半身が硬直した状態で撮影に入り、女優さんが理不尽な思いをしたという話もありました。業界では(大勢のスタッフの前でも)<脱いで演じ切るのが立派な俳優だ>といった歪んだ押し付け的な暗黙の了解が存在していました”
更に、役者を夢見る女性に対して、以下のメッセージを送った。
”製作者側が<映画に出すよ>と誘い、被害に巻き込まれるという事態は絶対に起きてほしくない。その様な事を言ってくる人がいたら騙されて欲しくないし、逃げて下さい。
日本の芸能界や映画界には真っ直ぐな思いで作品を作っている方が沢山います”(文春オンライン)
最後に〜日本の女優は脱ぐべきではない
私が夢の中で垣間見た(水原希子の)微妙な危うさとは、こういう事だったのだろうか?
確かに、彼女の感傷的になる気持ちも理解できなくはない。
しかし、「セクハラ・ハービー」でも書いたが、そういう”性的条件”を承知の上で、多くの女達は女優を目指すのも、今そこにある危機ではなく、等身大の現実である。
曖昧で慢性的なセクハラを受けたくなかったら、凛とした態度で”裸になるシーンだけはお断り”と名言すべきだ。
それで女優になる道を閉ざされたとしたら、そのプロモーターはそれだけのレベルである。
性加害の悲惨な現状を知る水原さんも、敢えて性的描写の多い作品に(主役とは言え)出演するのも、これまた矛盾してる様にも思える。
日本の男性の誰もが、女優の裸を見たいとは思ってはいない(多分)。実は、そういう私もその1人である。
日本も含めアジアの女性は(例外を除けばだが)人前で裸を自慢する様な肢体の作りではないし、少なくとも身体を売る様なタフな精神には出来てはいない(と思う)。
故に、(アジアの特に)日本の女優は演技と繊細さと、その穏やかな性格で勝負すべきだと思うのだが・・・キレイ事だろうか。
微妙な年齢になったからとて(主役をチラつかされたからとて)、易々と”裸=性”という愚かな賭けを犯すべきではない。事実、それでダメになった女優は腐るほどいる。
多分、大したギャラでもない筈だ。
それでも、女優の卵?たちは目先の栄光とお金に吊られ、裸になる。これじゃ、夜の”危うい女”と何ら変わりはない。
30を過ぎた彼女が自分を安売り?するのは、(どうも私には)危険なカードにしか見えないのだが・・・
そう思うのは私だけだろうか?
結局、嫌な女とは一緒になって
キレイな女とは別れちゃった
誘う女って最後には獲物をモノにする
そーう出来てるんですよね。
性加害なんかも
名を売る為には脱ぐ必要がある
しかしそれに応じてセクハラも受ける
最悪、«奴が監督の時は脱ぐのに俺が監督だと脱げないのかぁ〜»ってなる。
女優の行き末って
そういう所にあるんでしょーねぇ
誘う女は捨てられる女よりも強しなんでしょうか。
言い換えれば、
脱がない女は脱ぐ女よりも強しってなるんでしょうね。
そういう意味では、脱いだ時点で女優は終わりとなるんでしょうか。
”奴が監督の時は脱ぐのに、俺が監督だと脱げないのかぁ〜”
って、変に納得です(^^♪
そして、脱ぐ女?
転んださんが望むような女の見事な変異ぶりを露呈した夢でしたね。
SNSでも話題になっている水原希子って、デヴューの頃は若くてキャピしてて、典型のトップモデルって感じでしたが、結局は脱ぐ?女優になっちゃったのか。
脱ぐ女はやがて嫌な女になり、そして誘う女になる。そうやって変異と脱皮(淘汰)を繰り返して永遠と生き延びる。
これもまた女優のもう一つの鏡であり、あるべきもう一つの姿かもしれませんね。
実をとるってのも女優の本能じゃないかな。
女優って職業も、所詮はテレビ映りのいい水商売みたいなものだからね。
そんな業界に、ポルノ紛いの腐った人種がいたとしても不思議でもないし・・
水原希子の訴えもSNS上では同情の声も多いけど、«何よ今更、被害者ぶって»と同業者の皮肉も聞こえそうだけどね。
彼女も脚本を読んだ時点で何か気付かなかったのかな?
勘のいい女優さんだったら、ここまで悔しい思いをする事なかったんじゃないのかな。
宿命でしょうか。
個人的には、トップモデルのままバラエティーやドキュメント番組で、ノンビリし続けてた方がとも思うんですが・・・
主役とても、性的路線で勝負すれば、こうしたセクハラ紛いのトラブルは付き物ですよね。
でも彼女が選択して踏み出した道ですから、(無責任な言い方ですが)後は”野となれ山となれ”ですしょうか。
いや、そうでもないか。
脱ぐ事で、大きくメジャーに羽ばたいたケースもありますよね。
島田陽子や菊地凛子なんか、その典型でした。
ヌードとしてみれば殆ど大した事ないのに、外国人から見れば”おしとやかな日本女性でも脱ぐんだ”って、その意外性が受けたんでしょうか。
大島渚監督の「愛のコリーダ」は、今ならオスカー確実でしょうね。
それに比べたら、「パラサイト」なんて地味すぎて観る気も起こらない。
言われる通り、脱ぐ事も”実りある”エンタテイメントの一つかもですね。