菅首相は所信表明演説で、2050年にCO2排出量を実質ゼロにすると宣言した。
これには経済界や産業界も大きく反応し、日本全体で”脱炭素”に向けた動きが加速する。
しかし、ゼロにする必要があるのはCO2だけだろうか?”脱・隣組”というのも議題に取り上げたらどうだろうか。
隣組の世話でいつも思うのだが、時代がウィルスが変異する様に、この古くから続く世話人制もその在り方を変革した方がいいと思う。
マンションやアパートに住んでれば、庭の清掃やゴミの分別など共同でやる必要がある。が故に、世話役というのは必要かもだが、管理人がいるのなら(無責任な言い方だが)、ある程度は任せてもいい様な気もする。
しかし一戸建てに住んでる場合、庭掃除もゴミ分別も自分でやるし、共同でやる事なんて殆どない筈だが。ド田舎には”隣組”という古き悪しき慣習が”村八分”と共に、未だにしぶとく蔓延っている。いや、こびり付いてると言った方が正しいのか。
つまり”ムラ社会の危機”とは、隣組の世話という今そこにある危機と言えるのだろうか。
”隣組の世話”ゼロに向けて
先日も、公民館費(2500円)と隣組の年会費(5000円)を年配者らしき人が別々に徴収に来られた。
今はメールの時代だ。要件を伝えとけば、鍵の掛かったポストに名前を記入したお金を入れとけば、それだけで済むと思うのだが。
昔気質の人からすれば一々戸別訪問し、世間話でもしながら集金するのが世話人の当然の義務とでも決め付けてるのだろうか?事実、何度も何度も家を訪ねてきたらしい。
世話人の仕事の殆どは集金である。
集金作業を簡略化する事は、世話人の負担を軽減する事でもある。世話人が高齢になるにつれ、一軒一軒足を運び、集金するのは至難の技である。高齢の域に達してない私だって、集金作業と聞いただけで嫌気がする。
因みに我がド田舎では、3月の祈祷代(1000円)に始まり、4月の公民館費と隣組年会費で7500円、7月の老人会費(3000円)、8月は集会所費(1000円)、9月にはお寺代で4500円、11月はお寺の秋祭りで2800円。それに稲荷祭り(2月と9月)の当番になれば、1回に付き3500円ほどの自腹が嵩む。
ひと目見れば明らかな様に、大半が”お寺代”で、それも腐れかかったお寺である。
それに隣組年会費の内訳を見ても、交通安全協会費(300)、緑と赤の羽根募金(800)、消防団費(1500)、神社奉賛金(300)、福祉協議会費(900)、外灯代(1200)。募金と消防団費と外灯代を除けば、極論を言えば”使途不明金”である。
つまり、隣組の世話の大半が無駄だと言えなくもない。
極論を言えば、公民館とお寺と老人会と地域消防団の4つはなくてもいい。
まず公民館は運動会と会合の為だけにあり、老人会は饅頭とタオルを配るだけ。それに、消防費は(会計をした経験から言えば)、団員の呑み食いと旅行代にそのまま消え、旅行費の大半はソープランド代。その上、消化器の入替えと火災保険の分厚いマージンは団員の小遣いになる。
故に、この4つと使途不明金がなければ、隣組の全会費の19700円は、羽根募金と外灯代の2000円だけで済み、集金も僅か1回で済む。それに、集金作業で排出されるCO2も削減できる。
因みに、外灯はLED電球なので理論上だが、1日8時間点灯で14年~17年はもつ。
隣組は何が為にある
しかし、こういう事を隣組の会合で言おうもんなら、”そんな事は言わないもんだ。昔からやってきた事だ”と、古参たちは牙をむき出しにする。会合が体をなさないとは、そういう意味である。
それ以外にも、殆ど草が生えてない(腐り切った)お寺の掃除が年に2回(1月と8月)あるが、出ないと罰金として2000円も取られる。
確かに、昔は特に田舎は、娯楽と呼べるものが何もなかった時代。隣組の世話は年配者の唯一の楽しみであり、喋り場でもあった筈だ。
しかし高齢者の楽しみ?の為だけに、これだけの金額と労力が犠牲になる。
高齢化社会やCO2排出による温暖化も深刻だが、ド田舎の隣組の世話も思ってる以上に深刻なのだ。
経験だけで生きてきた人は、経験から何も学んでこなかった証拠でもある。結局、学ぶ事を忘れた高齢者の問題こそが、高齢化社会の一番の問題でもある。
そう思うのは私だけだろうか。
因みに、私のド田舎の老人会はタチが悪く、我が庭に植わってる夏ミカンを毎年の様に黙って千切っては持ち去っていく。
文句を言えば、”お母さんは何も言わんかったけどね〜”と開き直る。夏ミカンとはいえ、盗みは盗みで立派な犯罪だ。耄碌するとそんな事もわからなくなる。
心底腹が立つが、これも高齢化社会の弊害なのだろうか?
「過剰包装と隣組の世話」でも書いたが、この2つは環境問題にも直結すると思う。
CO2削減も、こうした化石となりつつある”古い慣習の無駄”という所から削っていかないと、COP25で不名誉な「化石賞」を受賞した二の舞になるかもだ。
世話も包装も会食も必要最低限でシンプルに限ると思うのだが、言い過ぎだっただろうか。
隣組は、戦前に出来たシステムだと聞いたことがあります。軍政にとって---良からぬ動きはないか?悪しき思想に傾いていないか?非協力の輩はいないか?などを「相互監視」するためだとか。
隣近所をないがしろにする気はありませんが、お互いの関りは節度を保ち、リーズナブルにしたいものです。
では、また。
メンバーは固定化していて、おっしゃるとおり、おしゃべり交流の場、自己満足の場になっています。
合理的に考えれば、これらは自然消滅していくものだと思っていますが、この不合理なるものに何かがあるのかもしれないと思いつつ、町内会活動をしています。
都心部なら様々な地域の人が集まってくるので、お互いを知る為にも隣組は必要だと思います。
でも、度が過ぎるとプライバシーに踏み込んだり、節度がなくなる可能性もあるので、リーズナブルにシンプルにというのが理想的ですよね。
おっしゃる通り、特に田舎の隣組は完全に形骸化し、体を成してないとも言えます。
私も消防にいた頃は、会合で火事で酒が飲めるのが楽しかった時期がありました。それこそが田舎者の自己満足だったんです。
でも急速に形骸化し、何の為の消防団なのか?疑問を抱く様になりました。
特に若者の意識は違ってて、飲み食いや無駄なお喋りや小遣いはいらないというシンプルな精神でした。隣組がなくなる事はないと思いますが、シンプルでリーズナブルにする努力は必要でしょうね。
昔は隣組の会合って
ある種のパーティーみたいなものでみんな楽しんでやってたとに思う
それが次第に節度がなくなり隣人のプライバシーに踏み込むようになり悪害化したような気もする
私の頃は老人会の形骸化した寄合いって感じでしたから。変わろうと思えば変わるもんですね。
よくわかりませんが、これはおかしな風習ですね。
「隣組」という言葉も、社会で習ったぐらいの知識しか私にはありません。
子供の時は神戸だったので一切こういうものはありませんでした。消防団という素人?の集団がいることも結婚するまで知りませんでした。
転象さんの地域、かなりおかしいですよ(ごめんなさい)。
都会の町内会はそう思うとさらっとしたもんです。集金なんて無いに等しい。
私、思うんですが、昔は大都会でも御輿を担いでたかもしれませんが、今はしてないじゃないですか。
自然と消滅していくんじゃないですかね…(*_*)
家族葬とか結婚式に仲人も居なくなりました。
私のいま住んでる地域も変な風習が少しあるので、「年寄り早く死んでくれ。そしてこんな悪しき風習誰も受け継ぐな!」とココロの中で思っています。苦笑
昔から伝わる伝統や風習が今や粗大ゴミとなってます。悪害とまではいいませんが、削減目標にスべきですね。
それに、隣組の使途不明金がどこに流れてるかも大体において想像がつきます。消防費も厳密には消防団員飲み食い費ですもの。
田舎に行くほど淘汰が少ないから変な風習が残ったままなんですよ。結局、村八分にされたくないから仕方なく続けてるだけなんですよね。
なんだか、世界って、大きな田舎なのかもしれません。
みんな、隣の家の娘が毎晩ちがう車で送ってもらって帰ってくる、その相手の男どもの顔を拝みたい、そういう下衆な心理から諜報は始まったのかもしれません。
村八分が行き過ぎると民族浄化となり、祭りの騒動が宗教戦争になる。
やっぱり世界はドのつく田舎なのかもしれません。
思わず笑ってしまいました。
消防のポンプ走法大会では選手に選ばれた団員は家庭崩壊の所もあるらしいです。
こんなのを未だに続けてるんですよね。全く笑えないお祭りという悲劇です。
言われる通り、世界はムラ社会で出来てるんですよ。
あんまり言うと色々語弊もありますから、何でもリーズナブルでシンプルが一番ですね。返しのコメント少し修正しました。