象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

妬みは憎しみよりも更に強い〜なぜ人は他人を攻撃するのか?

2022年02月22日 05時04分02秒 | 読書

 あるフォロワーの記事で「他人を攻撃せずにはいられない人」(片田珠美著、PHP)が紹介されていた。
 人類はいや、ホモサピエンスは基本的には”攻撃的”に出来てると思う。いや、どんないい人も少なからず攻撃的に出来てると思う。いいねを多くもらう為にアクセ数を稼ぐ為に、自分の行為や言動が正当である事を主張する為に・・・
 つまり、攻撃は”自分を持する”為の最大の防御だとしたら?

 レビューにもある様に、”他人を攻撃する人にでくわした場合、自分が努力した所で相手は益々勢いづき、努力してきた方は・・・程度では済まない程のダメージを負う。関わらないのが一番いいけど、そんな訳にはいかない”
 確かにである。
 特に非力な女性の場合、やり返した所で致命的な損傷を負うかもしれない。更に自分を責め、追い込み、最悪自殺に至るかもしれない。
 そういう私も、小さい頃は典型のイジメられっ子だった。勿論、イジメ返した事もあったし、やられたらやり返した事もあった。
 大人しそうに見えて、権力には(攻撃的で)歯向かう方だから、上下関係が根強く残る田舎では煙たがれた。
 

冷酷無比になれ

 しかしこの本では、やられたらやり返すではなく、相手を理解し分析するではなく、”自から冷酷無比になる”事が最高の防衛手段だと説く。ただ、その後はどう行動するかは、書かれてない。
 ”他人を攻撃せずにはいられない人”は人前で虚勢を張り、罵詈雑言を浴びせ、”俺は上、お前は下”という基本原理(理念)で行動する。
 周囲の指摘や助言を、存在否定や人格否定と認識し、逆に徹底的な攻撃に出て、自己防衛の為に(自分の驚異となる様な人物や邪魔なライバルを)条件反射的に徹底的に潰す。相手がどうなろうと関係ない。
 確かに私の田舎では、”イジメられる方が悪い”という風潮が根強い。一度権力に登り詰めれば、一生そのままでいられる。
 原始的と言えばそれまでだが、田舎とはそういうもんだ。変化と進化のない田舎は、そうやって風化し過疎化していくのも現実である。
 変異や淘汰の乏しいブログの世界でも、同じ事が言えると思う。

 こうした職場にも家庭内にも、そしてネット上にもいる”害になる人”という残酷無比な脊椎反射系人種に、何を言っても”聞く耳を持たない”のは明らかだろう。
 つまり、精神ではなく脳が(病的に)攻撃的に出来ているとしたら?
 この本の著者は精神科医で精神病的な視点からのみ書かれてるから、根本的な解決策には程遠くも感じなくもない。
 一方で、攻撃対象となりやすい人間の特徴も挙げている。精神的に真っ当な自己評価と健康的な自信がある人間は、攻撃する人にも攻撃される人にもなりにくいと。
 つまり、DVとその被害者の様な共依存の関係が、職場や友人関係やネットの中でも起きているという奇妙な現実。
 加害者には精神的な障害があったかもしれないが、能力は非常に優秀だったのだから、”攻撃性さえ治療できていたら”との言い方もできる。が、攻撃性の制御(=自制心)こそが社会人として必須な能力でもある。
 しかし著者の一番の勘違いは、精神ではなく,”脳が攻撃的である”な事に気づいてない点にある。


奴らを高く吊るせ?

 ”嫌な事には関わるな”とか”冷酷無比になれ”というのは、1つのアドバイスには成り得る。
 しかし、病的な不安遺伝子を持つ日本人には、”人と関わらずに生活する”事は不可能に近い。嫌な人間にも(仕方なく服従して)付き合っていくという長い歴史がある。
 いつでもどこでも、イヤな人間は1人や2人はいる。奴ら(の脳みそが)が攻撃的であれば尚更である。
 もし、その攻撃的な奴らが脳の病気であるとしたら、こちらが冷酷無比になったとしても、益々攻め込んでくるだろう。

 攻撃は最大の防御である。
 それは”奴ら”も”我ら”も同じである。もし奴らが生存本能として(無意識に)攻撃を繰り返すとしたら、どんな思考の繋がりで奴らは攻撃を繰り返すのか?
 それは脳の病気か?それとも脳の仕組み自体に問題があるのか?いや、故意に楽しむ為にやってるのか?少なくとも(この本で言われてる様な)精神の問題でもない筈だ。
 そういった複雑で高度な”脳の真実”がわからない限り、我らを悩ます”奴ら”脊椎反射系人種の無差別攻撃はこれからも続くだろうし、止む事はないだろう。

 ”奴らを高く吊るせ”じゃないが、粗悪な攻撃的人種に懸賞金を掛け、大衆の前に引っ張り出し、”さらし首”にするのが理想なのか?
 ”妬みは憎しみより消えにくい”(ラ・ロフシュコー)そうだ。
 つまり、奴らの行動の1つ1つが妬みや羨望に突き動かされている現実。
 一見、社交的で良い人に見え、異常なまでに外面を意識する人は、警戒した方が良さそうだ。こういう人種は、ある人物だけをターゲットに絞り、徹底的に痛めつけるという。
 しかし無視する事で孤立させ、その攻撃性を自分に向かわせる事が出来るかもしれない。いや、そんな単純ではないかもしれない。
 

最後に〜攻撃性と凶暴性

 レビューと主観をを交えながら紹介しましたが、上手く纏まらず、結局は(中途な)アルアルで終わりそうな感じもします。
 人は見た目で決まるが、そこまで単純でもない。つまり、脳の病気は見た目では判るはずもない。
 常識範囲内での攻撃性は、生き抜く上では必要だが、それを超える攻撃性は周囲や家族やチームを乱し、自らをも凶暴にする。
 脳の病気は、人が凶暴性を帯びた時に露呈するが、一方で、精神の病気は錯乱性を帯びる。
 その凶暴性に計画性と錯乱性が融合すれば、最悪の結果になる。

 一見穏やかで律儀な旧日本軍人も追い詰めれれれば、バンザイ攻撃も辞さなかった。特攻も志願して行ったし、国の為に死ぬ事を誇りに思い、桜の様に潔く散っていく。
 遺書や日記を見る限り、彼らは非常に優秀で勤勉な若者だった筈だ。しかし、(神の領域を超越したかの様な)ある種の崇高な攻撃性と自虐性も残されてはいた。
 一方で、旧陸軍上層部の中には粗悪な凶暴性と残忍性を露呈する者も沢山いた。奴らの子孫が今の日本政治を支えてると思うと、心底ぞっとする。
 日本は太平洋戦争で数多くの優秀な若者を失った。一方で、A級戦犯を逃れた上層部の多くは「他人を攻撃せずにはいられない人」という典型の人種に思えなくもない。

 「奴らを高く吊るせ」(1968)は、殺人と牛泥棒の濡れ衣を着せられたジェド(クリント・イーストウッド)が裁判もなしに、9人の男によって縛り首にされる。が奇跡的に助かった彼は、復讐の為に保安官となって舞い戻るという物語である。
 ここで言う”奴ら”とは9人の男である。粗悪な攻撃性を持つ奴らを追い詰めるジェドの背中には、”復讐せずにはいられない”男の哀しさが充満していた。

 ”他人を攻撃せずにはいられない”人の(病んだ)脳の構造を調べない限り、攻撃の連鎖も(それに対抗する)復讐の連鎖も延々と続くのだろうか。


追記〜嫉妬は憎悪よりも強い

 「州io−世界征服」というアプリは、”信長の野望”を超単純にした(ターンテーブル系の)ゲームだが、不思議とハマってしまう。
 多くのパズル系とは異なり、脳トレではないから、脳内ストレスも溜まらない。
 とにかく先制攻撃が有利に働くゲームである。私はくよくよ考えてから行動するタイプなので、こうした何も考えず隣の州を攻撃し、領土を広げ、(ポイントを稼ぎ)ステージをクリアする、こうした(愚直な程までに)シンプルな展開が私には合ってるのだ。

 昨今の戦闘ゲーみたいに、派手なCGもなく(その上、武器もシナリオもない)から、残忍性やリアルを感じる事もない。戦略や戦術は攻め込むだけで、何も考えなくていい。つまり、ただただ攻撃するだけ・・・
 しかし、こんなアプリに没頭してると、つくづく人間は攻撃的に出来てると痛感する。
 ステージをクリアした所で、配当金がある訳でもないし、稚弱な自己満足にも程遠い。しかし、知らず内にハマってしまう自分がいる。
 私もブログでは好き放題書いてるが、一応は内容をチェックするが限界もある。
 しかし、人の好き嫌いは様々で複雑多岐にわたる。相手から見れば、さぞ不愉快で攻撃的な記事に映るだろう(多分)。

 しかし、攻撃の多様性という視点で見れば理解できなくもないし、ユニークな読み方もできる。
 物事の本質を見抜くのも一種の攻撃である。が、本質を見抜けなかった場合、気に食わないという理由だけで(その記事を)有害とみなし、しつこい攻撃を仕掛ける。
 つまり、書く側も読む側も、本質を見抜く攻撃性は時には必要なのだろう。
 私は他人のブログは殆ど読まない。タイトルを見て、気に入った記事しか読まない。記事のレベルは数行読んだだけで大抵は判別できる。そういう事もあってか(ブログを始めて3年以上経つが)、攻撃的な嫌がらせのコメに遭う事は数える程しかない。
 ま、それだけ過疎なブログである事も証しでもあるが・・・

 あるフォロワーは今、嫌がらせのコメントに頭を悩ませている。
 その嫌がらせの犯人が実は、身近にいる(嫉妬深い)親しい友人だったとしたら?
 考えるだけでも悍ましいが、人間の攻撃性の本質とはそんなものかもしれない。”嫉妬は憎悪よりも強い”と攻撃性の本質を見抜けば、理解できなくもない。
 しかし、ブログとてありふれた趣味の1つである。言い換えれば、暇つぶしのパズルみたいなものだろう。
 人間の攻撃性も嫌がらせのコメントも出来の悪いアプリみたいなもので、それに真正直に付き合うのも(反応するのも)勝手だが、そこにあるのは魂の欠片もない言葉の残骸である。

 ポール・オースター風に纏めれば、ブログもコメントも、所詮は(無限に錯綜する)言葉のお遊びであり、思考の排泄物でもある。そこに何の意味があるのだろう?



4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (びこ)
2022-02-22 05:51:40
そうですね。私が完全に無視すればいいのに反応するのがよくないんでしょうね。と、わかってはいるんですが、ひとこと言ってやりたくなる私にも問題があるのかもしれません。今日のこの記事は大変参考になりました。ありがとうございました。
返信する
ビコさん (象が転んだ)
2022-02-22 08:16:05
無視しても
反発しても
結果は同じでしょうね。
こういうのは時間でしか、解決しないかもです。
こちらこそ、色々と勉強になります。
ビコさんの憂鬱は、誰にでも起こりうる今そこにある危機ですから。
返信する
象がころんださんへ (徒然)
2022-02-22 11:05:43
徒然のブログは 
他を攻撃もしない されもしない 自己防衛か 煩わしいことはゴメン
アクションは設けない アクションの意味も不確か

読みもしない 冒頭にポチッとお願いしますなんて笑ってしまう

ブログアップも刹那の作業と感じなければ長年続けられない

コメント真面目になさる読者には誠意をもってコメントの姿勢ですが

承認コメントは実に良い物 
怪しげなコメントもバッサバッサ削除

我がブログに未練はなし 画像もバックアップ必要なし 
自分がそうであるように読者は頭をかすめるに過ぎない
その意で綴っているお婆

象さんの意図する事とは外れているかもしれません
返信する
徒然さんへ (象が転んだ)
2022-02-22 17:44:01
全く言われるとおりです。
実に達観しておられる。
ホント、ブロガーとはそうあるべきですよね。それに比べれば、私なんぞまだまだ子供です(笑)。
”迷惑コメントなんかバッサと削除”
実に爽快ですね。

この本にも無視するが一番と書かれてますが、私も迷惑コメをバッサと切り捨てる事を覚え、するとすぐに消え去る。
それに”ポチお願い”もアホ臭ですよね。

コメントとても勉強になりました。
返信する

コメントを投稿