アーベルは、5次方程式の非可解性を厳密な形で証明した1826年に、ルフィニの論文を読む機会があった。
”私以前に一般方程式の代数的解法の不可能性を示そうと試みた唯一の人、その人こそがルフィニである。しかし、彼の論文はあまりにも複雑で、議論の正否の判定は非常に困難だった”
若干19歳のアーベルは、5次方程式の解法を証明した(1821)と信じ込み、大興奮した。だが、すぐにそれが過ちだと判り、大きく落ち込む事になる。事実、ルフィニが非可解性の証明を出版してから22年も経ってると言うのに、アーベルはその事を知らなかったのだ。
元々謙虚だったアーベルだが、1823年にもフェルマー予想にも挑戦していた。が、すぐに”自分の限界を超えてる”事に気づく。事実、この難題に決着がついたのは170年以上も後の事である。これはモジュラ定理という非常に精巧で抽象的な数学を駆使しての事だったから解けなくても当然だが、アーベル自身が研究していた楕円関数(モジュラ関数)の延長上にあったのは偶然ではない。
但し、「アーベルの不等式」を導き、フェルマー予想を解くヒントを与えた。詳細は省くが、これを使えば反例があったとしても、とてつもなく大きい数である事が解る。
アーベルとガウスの衝突
そんなアーベルだが、”5次方程式は代数的に解けないだろう”というガウスの見解を知ってたと思われる。ガウスもラグランジュも出来なかったこの”代数的非可解性の証明”は、アーベルが彼らよりも自分の方が数学の天才だという事を証明する、絶好の機会に思えたのかもしれない。
アーベルがラグランジュの方程式論を熟読したのはこの頃だ。更に、コーシーの置換論(1815)も読む事になるが、これはルフィニの論文に基づいたもので、やがてアーベルの直感は確信に変わる。
ルフィニの死から2年後の1824年、22歳のアーベルは”5次方程式の代数的非可解性”に人類で最初の証明を与える。ルフィニの不足を埋めてはいたが、多くの点でルフィニの証明に近い論文ではあった。
アーベルは自費出版したこの論文を、ガウスの注意をひく為の名刺代わりにしようとした。が、経費節減の為に議論を簡素化しすぎたが為に、”よくこんなものが書けるな”とガウスは、当時困窮に喘ぐアーベルが(結婚資金を注いでまで)印刷した論文を読む事さえしなかった。
事実、この論文の序文に”多くの数学者たちが5次方程式の一般的解法の不可能性を証明しようとしたが、誰も成功していない。従って、方程式論の空白を埋める為に書いたこの論文を、数学者たちが好意を持って受け止める事を期待する”とあるが、ガウスは悪意と怒りを持って受け止めたのである。
この”一般的解法”との記述が、ガウスの逆鱗に触れたとされるが、”代数的解法”と改めたとしても、ガウスは頑として認めなかったであろう。つまり、ガウスはアーベルよりも若い時期に、5次方程式の代数的解法には既約でも例外がある事を、円周等分方程式(xⁿ−1=(x−1)(xⁿ⁻¹+xⁿ⁻²+⋯+1)=0)の発見で見事に見抜いていたからだ。
因みに、p:素数の時、xᵖ⁻¹+xᵖ⁻²+⋯+1=0は既約であっても代数的に解けるので、”5次以上の方程式は一般に代数的には解けないであろう”とガウスは予想していた。
確かに、「アーベル(前編)」(高瀬正仁著)のレヴューにもある様に、ガウスの円分方程式の根の巡回(可換)性に着目したアーベルだが、これを機にアーベル方程式を発見する。一方で、代数的可解性の本質は”根の相互関係”とみなすガウスの認識と”代数的に可解な方程式の根の形状”を探求するアーベルの独創性にあると言える。
現在判ってる知識で言えば、代数的可解性は方程式の”ガロア群の構造”に依存し、アーベルの不可能の証明は”対称群の非可解性”に帰着させる事が出来る。更に(次回でも述べるが)、円分方程式やアーベル方程式が代数的に可解なのは、それらの方程式のガロア群が巡回群やアーベル群であり、可解群である事に帰着するからだ。
故に、アーベルはラグランジュというよりガウスの足場を起点に”不可能の証明”のヒントを得たとも言える。
一方で、高瀬氏は”アーベルの証明方法がガウスの意に添うものではなかったのでは”と考察されるが、私も同感である。ただレビューにもある様に、代数的に可解な方程式の根の代数式を具体的に明示したアーベルのアイデアを何故、ガウスが無視したのか?という疑問も残る。
アーベルの不可能の証明
アーベルの5次方程式の非可解性の証明は、サイトやPDF等で様々に紹介されてはいるが、方程式のガロア群と同様に、原文(翻訳)を見た方が理解はスムーズでかつ明快である。
運良く、「アーベルの証明」(ピーター・べシック著)が山下純一氏の翻訳で出版され、原文を丁寧に説明されてるではないか。山下氏に関しては「数学のアイデア~甦るガウスの夢」(ハッル著)の翻訳で、すっかり虜になってしまっていた。
因みに多くのサイトでは、5次方程式の解が係数の四則とべき根で解ける為には、”べき根拡大”を満たす必要があり、その矛盾を示す事で証明を与えてるが、所詮はガロア拡大体というガロア独自の手法を利用して説明したに過ぎず、アーベルの天才ぶりは見えてこない。
事実、ガロア理論で言えば、代数的可解な代数方程式の最小分解体は、係数体にべき根拡大を添付して構成され、元の方程式の根がべき根と係数を含む形の代数式を持てば、その代数式は元の方程式の根の有理式として表示されるという”代数的解法の原則”が成立する事が推察はできる。が、以下でも述べる様に、ルフィニはこの”原則”を無視して議論を進めてしまう。
そこで、アーベルの1824年の論文(原文)を忠実に辿る事にする。がまずは、アーベルの証明の大まかな概略を紹介するに留め、厳密な証明は後で述べたいと思います。
まずアーベルは背理法という古典的な手法を使う。証明の第1のステップは、方程式が代数的解を持つ形を特定する事である。
最初に、一般の5次方程式をy⁵−ay⁴+by³−cy²+dy−e=0―①と書き、その解yをべき根と係数を含む形の代数式で表す。
アーベルは、解yの代数式をy=p+ᵐ√R+p₂・ᵐ√R²+⋯+pₘ₋₁・ᵐ√Rᵐ⁻¹―②と表現した。但し、mは素数で、R,p,p₂,…はyと類似の代数式とし、新しく出てくるR,p,p₂,…も同様で、最終的に最初の方程式の係数の有理式になるまで続くとする。但し、有理式とは”多項式/多項式”となる代数式の事で、√を含まないという条件が付くが、”代数式=有理式+無理式”で”有理式=整式+分数式”と覚えとけば誤解はない。
最初の、このアイデアこそがアーベルの天才所以ではあるが、仮にyが5次方程式の解だとすれば、yは係数とᵐ√Rの様な無理式を含む多項式の様な形で表現できると考えた。
これはオイラーが予想した一般形に限りなく近いが、こうした代数学の原則のアイデアだけなら、勘のいい人は気づくかもしれない。
例えば、2次方程式y²−ay+b=0の解は、y=a/2±√(a²−4b)/2となり、p=a/2,m=2,R=a²−4bとし、√R=±√Rとみなせば、y=p+√Rと表現できる。逆に、これを元の2次方程式に代入すれば、(p+√R)²−a(p+√R)+b=(p²+R−ap+b)+(2p−a)√R=0となり、p²+R−ap+b=0,2p−aを得て、p=a/2,m=2,R=a²−4bとなる。但し、p,Rは係数a,bの有理式(整式=多項式)である事も解る(証明終)。
(ややこしくはなるが)同様にして、3次方程式y³−ay²+by−c=0の解もy=p+³√R+p₂・³√Rと表現できる。
この場合、R,p,p₂は、(a,b,cの有理式)+√(a,b,cの有理式)の形の代数式となる。但し、2次方程式の時のR,pは、(aの有理式)+√(a,bの有理式)の形の代数式である事に留意する。
実際にアーベルの論文では、5次方程式y⁵−ay⁴+by³−cy²+dy−e=0の場合、②式にてm=5とすれば、y=p+⁵√R+p₂・⁵√R²+p₃・⁵√R³+p₄・⁵√R⁴の様な代数式で表される事が判る。更に、R,p,p₂,p₃は、(a,b,c,d,eの有理式)+√(a,b,c,d,eの有理式)の形の代数式となる事も判る。
証明の為の3つのステップ
そこでアーベルは、5次方程式の場合に解がこの形に書けたとすると矛盾が導ける事を示そうとした。但し、この為には3つのステップを踏む必要がある。ルフィニはこの証明を飛ばしたが、アーベルはしっかりと証明した。
まず最初に、②式に登場するp,p₂,p₃,…,pₘ₋₁,Rが方程式の解の有理式となる事を証明する。
このアーベルの閃きは単純だが、実に素晴らしい。方程式の係数を使う代わりに解を使えば、p,p₂,p₃,…,pₘ₋₁,Rが解の有理式になるとのアイデアは、天才アーベルならではだ。
そこで、先と同様に2次方程式y²−ay+b=0の例で考える。解はy=p+√Rの形で書け、y₁=a/2+√(a²−4b)/2、y₂=a/2−√(a²−4b)/2とすると、y₁−y₂=√(a²−4b)となり、(y₁−y₂)²=4(a²/4−b)=4Rを得て、R=(y₁−y₂)²/4と書ける。
故に、√R=±(y₁−y₂)/2となり、√Rは解y₁,y₂の有理式になる事が判る。アーベルはこれを5次方程式の場合にも証明しようとした。
例えば、解は係数の無理式となるが、係数自身は常に解の有理的な和や積となる。つまり、解と係数の関係で言えば、解を係数の代数式として見ると無理性に満ちてるが、逆に係数を解の代数式と見れば、簡単な多項式となり有理性に満ちている。
事実、2次方程式y²−ay+b=0の解をα,βとすると、α+β=a,αβ=bとなり、3次方程式y³−ay²+by−c=0の解をα,β,γとすると、α+β+γ=a,αβ+βγ+γα=b,αβγ=cとなる。
更に、4次方程式y⁴−ay³+by²−cy+d=0の解をα,β,γ,δとすると、α+β+γ+δ=a,αβ+βγ+γδ+δα+γα+βδ=b,αβγ+βγδ+γδα+δαβ=c,αβγδ=dとなり、これらを”基本対称式”と呼ぶ。つまり、”有理性に満ちている”とはこういう事である。
この様な、無理性と有理性の間の緊張関係だが、次数が高くなる程に、この緊張を緩和するのが難しい。言い換えれば、対称性を崩すのが難しくなる。つまり、対称性を崩す事で√を使って解を得るのだが、5次方程式では対称性が崩れず、べき根では解けないとなる。
次のステップでは、存在を仮定された解の形を限定する為に、決定的な事実を証明する事である。
”5個の変数からなる有理式が、変数全体を様々に変換する時に取りうる値の個数が1より大きく5より小さいとすれば、2個の異なる値をとるに過ぎない”
アーベルによるこの定理は、コーシーの置換に関する論文にある、特殊なケースに過ぎない。
因みに、5変数の有理式f(x₁,x₂,x₃,x₄,x₅)の場合、変数をどの様に置換しても変化しない時、その有理式を”対称式”と呼ぶ。5変数の時、置換は5!=120個あるが、そのどれについても値が変化しない。
コーシーの主張とは、”n変数の有理式の取りうる異なる値の個数は(1でも2でもないとすると)n以下の最大素数p以上である”との事だが、これから”5次方程式の場合、解の有理式は5個の異なる値をとるか、2個の異なる値をとる”と書ける。
これに対しアーベルは、”n変数の有理式の取る異なる値の個数は(同)nの約数となる最大素数以上である”事をコーシーの方法を使い、証明した(1826年)。
つまり、解の有理式にて解を置換すれば、2又は5の値をとる事は出来るが、3又は4の値をとる事は出来ない。これが鍵となり、解の公式が作れない事が証明できる。
こうして、コーシーとルフィニの考察はアーベルの証明の最終段階で決定的なものになるのだ。
最後に〜不可能の証明のその先に・・
結論から言えば、アーベルは解の有理式ᵐ√Rが解のあらゆる置換により5つの値をとる(つまりm=5となる)事の矛盾を背理法で証明した。これは、⁵√Rが解のあらゆる置換にて2つの値(m=2)をとる事を意味する。
つまり、代数的方法で解を求めようとする時、最初に開くべき根は平方根であるべきだが、そうだとすると、m=5と仮定すれば、⁵√Rの左辺は120個の値をとる。が、右辺は10個の値をとる様な等式が存在するので、矛盾に辿り着く。
以上の様に、アーベルの証明の戦略は直線的だが、方程式がべき根で解けるならば、解が持つべき代数式を導き、この代数式を使い、方程式の解を置換する時に矛盾が導ける事を示した。この矛盾は、5個の解を置換する時に解がとる事の出来る5個の値に依存する。
最後に、この議論は5次以上の方程式にも適用できる。例えば、べき根で解けない5次方程式にyを掛けて得られる6次方程式は、解ÿ=0と、5個のべき根によって解けない解を持つ。これは7次以上の方程式にも適用できる。
アーベルは、一般の5次方程式をべき根によって解く事が不可能な事を証明したが、まだ不明瞭な感じがする。この不可能性の本質は何なのか?という疑問も残る。
これを証明するには、アーベルの証明の核心に迫る必要がある。つまり、ガウスが発見した円周等分方程式という例外を一般化する必要があったのだ。
転んだ君の<ガウスが証明できなかった>という明確な根拠はどこにあるのだろう?
もしあるのなら、教えてほしいのだが。
ガウスは”解の対称性”までは気付いてたと思いますが、コーシーの置換論となると、そこまで進んでたかは疑問が残ります。
ガロアも置換論には精通してたし、その置換論が基盤となり、方程式のガロア群が生まれたとも言えますね。
これは、アーベルがコーシーの置換論をヒントに不可能の証明を発見したのとよく似てます。
勿論、ルフィニの不完全な証明がなかったら、コーシーの置換論もなかった訳で、今になってルフィニがアーベルと同等なまでに評価されてきたのも頷けます。
事実、ガロアの論文を高く評価したのは当時は(アーベルのパリの論文を無視した)コーシーだけでした。
故にコーシーも、わざわざガロアに遭い、論文を完璧にする様にと励ましたそうです。
勿論、その論文を紛失してガロアの逆鱗に触れたのも事実ですが・・
こうしてみると、ラグランジュとガウス、ルフィニとコーシー、アーベルとガロアのこの見事な連携と流れは、歴史と同様に韻を踏んでますよね。
でもこれは、あくまで憶測の範疇に過ぎないのですが・・・
確かに、ガウスの円分方程式論や代数学の基本定理だけで、代数的非可解性が証明できるというのも少し飛躍があるのかな。
勿論、アーベルもガロアもガウスの論文は可能な限り読んでたろうけど、それだけが全てということもない。
韻を踏む様に受け継ぐが、同じことを繰り返す筈もない。
そこには、天才たちの多種多彩なアイデアが十全に散りばめられているってことだろうか。
それこそが継承って事になるんでしょうね。
私達は外野から好き勝手な事を言うんですが、何処までが継承で何処からが発見又はアイデアかっていう境界が見えにくい。
ただ、アーベルやガロアの論文にも、ガウスの円周等分方程式の事は述べられてますから、継承と言えるかもですね。
でも継承という点で言えば、コーシーの置換論の方が強いような気もしますが・・
つまり、様々な事を継承し、アイデアを織り交ぜ、韻を踏む様に推し進めていく事が数学における創造となるんでしょうか。
何時もコメント参考になります。