手に入れる事と失う事をウンザリするほど繰り返して、最後の最後は一人ぼっち。この状況をポール•オースターはある作品の中で、”心はもう壊れた。後は体だけで生きていけばいい”と著した。
ブログを初めて2年が経つ。正直あっという間だった。暇があればブログを書いてたように思う。
フォロワーの中には、8年や10年という人がザラにいる。それに比べれば、私なんかまだ子供である。
でも、素人ブログの限界を感じてるのもまた事実。
”百聞は一見に如かず”ではないが、1000のブログよりも自らが見た1つの真実には遠く及ばない。当り前の事だが、不特定多数のブログから見聞するより、実際に自分の目で見る方がより確かであり、より理解できる。
”何も解っちゃいないのに”
そういう私のブログといっても、大半が愚痴や妬みや独り言だし、無知と主観と我儘が殆ど。何も解っちゃいないのに、知ったか振りをしてるだけ。
いや知ったか振りをしたいから、全てを解った様なふりをする。
2年間、好き勝手にやりたい放題に書いてきた。難グセのつけ様がない程に酷い事も書いてきた。放送禁止に触れる様な表現は、日常茶飯事である。他のSNSではとても書けない様な事も、”Gooブログ”では合法だ。ツィートやインスタでは炎上しそうな記事も、ここでは煙すら出ない。
まるで自分だけの世界に、自分の感性だけが通用する世界に、それも”裸の王様”気分でブログの世界に浸る。
しかし自分の素人ブログが、不特定多数のSNSの世界で受け容れられてるとは到底思えない。
事実、2年近くにもなるのに、ブログ友と呼べるのは僅か数人しかいない(悲)。信用となると殆どゼロだ。それでも最近になって、少しずつお情けの”ポチ”がつい来てた程度。
悲しい現実だが、ネットの世界では私のブログは、”生ゴミ”にすらなり得ないのが実情だ。
結局、私がネット上で発信してるのは、単なる稚屈な”悪口”や”愚痴”に過ぎない。つまり、私は何も知らないのだ。
故に、書けば書くほどに知らない事に気付く。そして、知れば知るほどに知らない事に気付く。
ブログの限界とはこういう事。それでも私は飽きずにブログを書く。アホ臭と内心思いながらもだ(悲)。
それでいて、ブログ友が”ブログを一旦お休みしようかな”と吐露すると、”辞めない方がいい”と偉そうに説教を垂れる。
全く、辞めなきゃいけないのはこの私のブログなのに。
結局、私は何も知らずに偉そうに記事を書き、自己満足の中にポツリと一人浮かんでるだけなのだ。
ブログを書く理由?
ある知人はLINEのお陰で、ネット上で沢山の友人が出来たと自慢する。事実、仲のいい友人からはタダで披露宴に誘われたと。全く羨ましい話だが、ネットで沢山の友人に恵まれるには、神様に愛される他ないのだろうか。
しかし、私にはこれといったネット友がいないから好き放題書ける。そこには真っ更な自由があり、真っ白なカンバスが無限に横たわってる。そこには、自分という”孤高の虚しい男”がいるだけだ。いや、自分すら存在しないのかも知れない。
そこで私は、飽きずに毎日ブログを書く。暇があればブログでなくても何かを書いてる。お陰で本を読む時間が激減した。
ホント言えば、今書いてる倍ほどの量の記事を書きたいし、書こうと思えば出来なくもない。でも酒も飲みたいし、ごく普通の人間の様な暮らしもしたい。
何故、ブログを書くって?お金にもならないのに?
正直そう思う事もしばしばだが、書く事でもう一人の自分を慰めてる様な錯覚に襲われるからだ。しかしそれ以上に、単にアホらしいから書く、それだけの事かもしれない。
つまり”吾輩は猫”なのだ。
蝶のように舞い蜂のように書く?
私のブログの書き方は少し変わっている。客観的な事物や題材の中に主観をねじ込み、ウエブで得た史実を埋め込む。その中に自分の物語を挿入し、自分自身を埋め込む。
最後に、泥臭い”愚痴”で飾りづけし、真っ向に見える”独り言”でコーティングする。
こうすれば、一つのテーマで無限の多種多様なブログが書ける。好き放題描いた所で、ベースとなるのは、信頼性の高いプロが書いたコラムである。
故に、テーマはありとあらゆる分野に蔓延し、分散する。難グセのつけたくとも、相手からすれば、人畜無害の”亡霊ブログ”に見える。
そう、私は実在しない”亡霊”なのかも知れない。ブログは実在するが、書いてる本人は実在しない。得体の知れない”亡霊”ブロガー。
ある時はポール•オースターに、ある時はラマヌジャンに、ある時はチャンドラーに、そしてある時は奥田英朗になる。いや、なれそうにもないか(笑)。
それに、テーマと奥行きを自在に変える事で、タブーも放送禁止も失礼な事も、口で喋ったらド突かれる様な事も、平気で書ける。打って擦れば元通りではないが、書いて書いて書きまくれば、元に戻る。
そして、何も知らない自分に舞い戻る。
理想は、蝶のように舞い蜂のように書く。
亡霊ブログとミスター•ノーバーディ
リーマンのゼータ関数ではないが、日常生活ではどんなタブーでも、仮想空間に持ち込めばタブーではなくなる。ブログという名の仮想の世界。そこには虚のブログと実のブログが混在する。多様に混ざり合い、多重に重なり合う事で、架空の世界をスイスイと泳ぐ事も可能だ。
そう、ブログとは書くんではなく”泳ぐ事”なのだ。じゃなきゃ、ブログなんてやってられない。クソ真面目に書いた所で、疲れるだけだ。
若者がほざこうと中年が愚痴ろうと高齢者が説教しようと、知ったこっちゃない。所詮、俺は亡霊なのだ。虚構のネット社会を泳ぐ魂なき亡霊に過ぎない。
私は過去の人生の中で何度も死んでいる。生きてるのが奇跡なくらいだ。故に、私のブログが亡霊みたいにネットの海を彷徨っても、不思議じゃない。
そう、私はポール•オースターの作品の中に登場する、”ミスター•ノーバディ”なのだ。
相対性理論ではないが、ネットという大きな海をあらゆるブロガー達がある一定以上の速さで泳げば、ブログという重力でネット自体が歪む。
ブログも同様で、ある一定以上の歪みを持つと、言葉の暴力ではなくなるのか。挙げ句には、ブログもSNSもブラックホールに吸い込まれ、無に帰すのだろうか。
結局、私達は何も知らないのだ。
肱雲さんの政治哲学のネタは大変興味深かったですよ。
ブログのペースは落ちるかもですが、できるだけ書き続けていきたいと思います。
これからもコメント宜しくです。
疑ってもキリがないから何かを信じたがる。いや信じないとこの複雑で雑多な世界ではとても生きていけない。
信じる者は疑われるという言い方もできそうですが。
”たかがブログ”と”信じる者は捨てられる”とコメントが逆になっちまいました(*_*;
確かに、疑いから入れば、裏切られる事も捨てられる事もないですもんね。paul
さんも朝から冴えてますな。
滅相もない。象が転んださんは博学で、いつも凄いな‥と思って拝見させて貰っていました。
私には知らないことが多く、難し過ぎることも多いですが(数学分野。笑)、分野も多く興味深いこともちゃんと自分の言葉で書かれていて、「この方は一体何をされて来た人なのだろう。きっとちゃんとお仕事されて来てる人…」と思って読んでいました。
なかなか訪問できませんが(長文の方が多くて読み切れません。追いつきません…汗)、これからも頑張って下さい。辛口意見…楽しみにしています(^^)
コメントに思った事を、スッと表現出来ない事が多いです。
ボクシングが一番苦手です(怪我を見るのが怖い)。 野球も高校野球を少し見る程度です。
サスペンスドラマを、よく見ていますが、血の所は見ない様にしています(笑)。
一方で、erikoさんは充実の人生を歩んでおられるのでとても羨ましいです。
サスペンスで思い出したんですが、北欧のサスペンスはあまり血が出なくて、逆に怖いくらいですね。