「その6」の最後で述べた様に、素朴集合論の”素朴”という言葉は、カントールの性格や気質そのものを具現しており、特に”対角線数”への変換のアイデアは数学史上において特筆すべきものでした。
この対角線数の素朴なアイデアこそが神を超越し得るカントールの純朴さなんでしょうが、その彼も”神に告げられた”と言い放ち、無限論に深く濃く埋没していきます。
因みに、対角線数ではX座標の点を(1未満の数に限定し、0.a₁a₂a₃・・・として、{a₁,a₂,a₃,・・・}という集合の無限の要素を使って表現しました。もし、これを単にa₁a₂a₃・・・としたら、a₁,a₂,a₃,・・・の順序を入れ替えても座標の点は同じになり、XY座標との1対1対応は破綻する。
こういう所にも、カントールという超天才が持ちうる素朴さが、次元というものを超越してる様にも思えます。
個人的にはですが、カントールの数学者としての全盛期は、”無限に次元は存在しない”と主張(証明)した頃(32歳)だったと思います。
お陰で、ヨーロッパ中の数学者や聖職者を敵に回した結果となったんですが、ローマ法王レオ13世に救いの手を差し伸べられた時に、数学と一旦距離をおいて聖職者に転身してたら、カントールの偉業も含め、彼の人生は大きく変ってたとも思います。事実、彼は聖職者が数学をやってるような人でしたから・・・
現在のローマ教会や宗教のように権威やカルトに縋り、腐敗してるのを見るにつけ、カントールが法王になってたらとつくづく思います。
今日は「その7」と続きたいんですが、少し説明が足りない感のある”素朴集合論”と”選択公理”について、「その5」に寄せられたコメントを元に軽く?おさらいをしたいと思う。
ここを抑えとけば、小難しい集合論を理解する近道だと思うからです。つまり、”カントール=素朴”という事を理解するだけでも大きな前進だと思います。
因みに、パラドクス(paradox)という言葉が以下では頻繁に登場します。
日本では”逆説”(背理)という意味で使われますが、(厳密には)”論理的な矛盾”と”直感的には受け入れ難いが矛盾はない”事に分けられる。
特に数学は公理系の無矛盾性を重視しますから、前者の論理的矛盾を重視するし、(バスケル・カリーは)後者を”擬似パラドクス”と呼び、矛盾を含む(論理的)パラドクスと区別した。
数学以外の一般的な分野ではパラドクスとは、ジレンマや矛盾、意図に反した結果や(理論と現実の)ギャップの様に様々にかつラフに使われる。発音はパラドクス(英)とパラダクス(米)ですが、ここではパラドクスで統一したいと思います。
素朴集合論とは
(初期の集合論)とされる素朴集合論とは、現代の公理系集合論の非形式的版ではなく、カントールの無限の研究により構築され、3歳年下のゴッドロープ・フレーゲ(独)の著書により大きく発展した集合論を指します。
”素朴”集合論との呼び方は、公理的ZF(ツェルメロ=フレンケル)集合論の非形式な表現となっていて、言語と表記が通常の非形式的な数学のものであり、”公理系の無矛盾性や完全性を扱っていない”という点で、”素朴”とされる。
しかし、考察する集合を正しく指定すれば、必ずしも矛盾を生じる訳ではない事も判っている。同様に、公理系集合論も無矛盾という訳でもなく、(ラッセルの様な)パラドクスも存在する。
因みに、”無制限に集合を構築できる”と仮定した場合、ラッセルのパラドクスの様に、自分自身を含まない全ての集合で構成される集合は存在しない。故に、素朴集合論を無矛盾とするには、集合を構成する時に制限をかける必要がある。
但し、カントールは素朴集合論の公理化を行わなかった。彼は”無制限”の解釈により、幾つかのパラドクスに気付いてたが、それらが自論の評価を下げるとは思ってなかったのです。
事実、ゲーデルの「不完全性定理」によれば、”パラドクスが一切ないとしても無矛盾性を証明できない”とされる。故に、ラッセルのパラドクスの様な矛盾は排除する必要がある。
要するに、素朴系も公理系も矛盾が存在するのなら、直感で理解できる様な素朴集合論の方が使い勝手が良いのでは?って思えてくる。
つまり、数学的利便性の問題で、日常の数学では公理系集合論を非形式的に使うのが最善の選択とされる。
素朴集合論の見た目と同様に、非形式的な方が読み書きが簡単で、厳密に形式的なアプローチよりも誤りが起こりにくい(ウィキ)。
私達は、厳格な論文は形式的である必要があり、専門用語を使って論理的に書かれてあるべきだと思い込む悪い癖がある。しかしもし、専門用語が一つもなく、全てが哲学的に超越的に書かれてたら、私達は単なるデマや狂った奴らの妄想だと勘違いする(多分)。
同じ様に、”ラッセルのパラドクス”で有名なラッセル卿(英)ですが、晩年のカントールの手紙を受け取った時、頭が狂ってると思い込み、会う事を拒否しました。
そのラッセルも、数学の全領域を集合論の上に構築しようと目指してたから、もし会ってたら、カントールの評価はずっと揺るぎないものになってただろうし、現代集合論ももっと飛躍したでしょうか。
これこそが直感や思い込みのパラドクスとも言えますね。
選択公理
”選択公理”とは複数の集合(族)の中から集合内の元(要素)を”順番に選び出す”時の公理の事です。
例えば、{{A,B,C,D,E},{あ,い,う},{α,β,γ,δ}}という集合族から、1つずつ要素を選び、{A,あ,α}という新たな集合を作る。
ここに矛盾はないのは自明(明白)です。つまり、どんな選び方をしても、有限個の集合族の場合は矛盾は発生しません。
そこで、選択公理の無矛盾性の説明ですが、”順番に選び出す”という選択公理を適用し、無限回の選択を行う場合、”順番に選択する”という行為が正しく行われるかは、自明ではない。
つまり、無限個の集合に順序をつける事は可算無限では可能だが、非可算無限では可能であるかは自明ではない。言い換えれば、”無限回を超える回数の選択を行う”という行為は可能なのか?
もし可能ならば、無限回の選択は自明ではなくなる。つまり、どれだけ無限回の選択を行っても、先にはまだ無限回の選択が残ってるからだ。
カントールは、”いかなる集合もその元の間に適当に順序を定義して整列集合にできる”という「整列可能定理」を予想してましたが、ツェルメロが選択公理を用いて整列可能定理を証明した(1904年)。
しかしその後、ゲーデルやコーエンにより”選択公理が証明も反証も出来ない独立した公理”である事が証明されました。
故に、無矛盾性の反証も証明もできない”選択公理”を使う時は、(有限個の場合を除き)”自己責任で”という事になる。
砕けた言い方をすれば、鶏肉と金の延べ棒みたいに、要素の属性が異なる集合では、数やサイズが同じでも価値や値段では全く違ってくる。
つまり、集合論の公理とは集合の要素の属性によっても異なる(多分)。
故に、要素の属性に応じた(独立した)公理を持つと言えるのかもしれない。また、そう定義する事で矛盾を省けるし、かといって元々の矛盾が全てなくなるとも言えない。
つまり、可算無限と非可算無限も数の属性として見れば離散と連続で、集合としても”濃度”(測度)が違うから、同じ無限でも”取り扱いに注意”となるんだろう。
ま、(正確かどうかはともかく)ここまで煮詰めておけば、酒のネタとしては困る事もないんでしょうが・・・でも現代の集合論とは、頭が狂いそうな領域である事は確かです。
何事も程々が宜しいようで、これは無限論や集合論にも当てはまりますね。
その永遠の度合いを数学的に探求し過ぎて
カントールさんは頭がおかしくなったんだろうか。
もし普通の神様と超越した神様の二種類しか存在しなく、その間の中間の神様がいないと仮定したら?
やはり怖いよね。
理想は人それぞれに固有の神様が存在し
身近でありながらも遠くの存在であるのが望ましいと思うんですが。
数学にも神様にも超越という存在は必要なのでしょうか?
以上テーマに添えずスミマセン。
元々、”カントールと神様”をテーマにした一連の記事ですから。
でも、どうしても数学っぽく堅く小難しい記事になるんですよね。
言われる通り(それぞれに固有の)”様々な神様”とありますが、カントールも色んな無限が存在すると考えましたが、無限の神秘にのめり込みすぎて、最後は悲しい生き様になりました。
数学には超越数や超越関数というものが存在しますが、超越の神というのはどうなんでしょう。
ただ、神様も色々と存在しすぎると腐敗したカルト信仰みたいになるので、神様の種類も何事も程々が一番でしょうか。
そういう私にとって、過去の偉大な数学者は全て神様ですね。