象が転んだ

たかがブロク、されどブロク

何故?日本人は寿司に群がるのか〜寿司は美食か?おにぎりか?

2021年05月17日 04時41分43秒 | お題

 深夜、NHKBSを見てたら、「究極の鮨」という番組が流れていた。
 ”江戸前ずし200年の歴史で、天才の名を欲しいままにした男がいる。伝説のすし職人・藤本繁蔵だ。その卓越した技術と美学は、亡くなって30年がたった今も語り継がれている。
 高級すし店では当たり前になった劇場型の白木のカウンターや職人が握るタネと順番を決める<おまかせ>は、藤本が始めたものと言われている。番組ではその神髄に迫る”

 寿司にあまり有り難みを感じない私は、”たかが寿司にそこまで・・・”と、蔑視に近い感情を抱えながら漠然と眺めていた。
 寿司は芸術か?美食か?ファーストフードか?それとも単なるおにぎりか?
 寿司と言えば、職人が握る高級寿司が”高嶺の花”として長らくイメージされてきた。我ら貧乏人は、”何時かはカウンターで寿司を食える様に出世するんだ”と自分に言い聞かせ、人生を頑張ってきた。
 しかし悲しいかな、それが無理だと悟った時、時代は変わり、回転寿司というものが時代を席巻した。そして今や、何と”回らない寿司”までが登場する。
 金持ちは着飾り、上級市民になりすまし、ケバい愛人を引き連れ、高級寿司屋に通い、庶民は普段着や作業着のまま、恋人や家族とファーストフード感覚で人気の回転寿司屋に通う。

 そういう私は余程の事がないと、寿司屋に行く事はない。寿司が嫌いという訳ではなく、寿司屋の酢臭さとワザとらしい高級な質感がどうも好きになれないのだ。
 かといって職人が握る寿司屋は、私みたいな貧乏人が1人で立ち寄れる所ではないし、回転寿司屋はネタが長時間空気に触れた”パサパサ感”のイメージが強いから、近づく気すら起こらない。
 故に、寿司を買う時はタイムサービスのパック寿司となる。
 でもこのパック寿司は、空気に触れる事なく低温状態で陳列されてあるから、少なくとも回転寿司よりも美味しい気がする。


江戸時代のファーストフード

 忙しくても、すぐに食べられるファストフードとして江戸時代に誕生したとされる握り寿司。
 働き者の日本人の心をあっという間に掴んだ。加えて、生魚の旨みと酢飯の酸味、それを安全に食べる為のわさびの絶妙な組み合わせ。その美味しさから全国に広まったと言われている。
 勿論、外国人も日本の食と言えば真っ先に”SUSHI”という言葉が思い浮かぶから、日本人が寿司に群がるのも当然ではある。

 しかし、ファーストフードとして誕生した寿司が何故?高級化して”握り鮨”となり、バブル期の日本の高級食を制圧したのだろうか。
 その後バブルが弾け、寿司の価格も過当競争となり、カジュアルな回転寿司というのが日本列島を覆い尽くす様になった。

 そんな寿司も歴史を紐解けば、いろんな事が見え隠れする。
 以下、「握り寿司ブームを支えたのは・・・」より一部抜粋です。
 今でこそ、寿司といえば鮮魚を使う”握りずし”を指すが、寿司の原点は魚の保存食だった。琵琶湖の”ふなずし”の様に、最初は塩漬けにした魚と米を乳酸発酵させる”なれずし”で、紀元前に東南アジアで生まれたとされる。
 中国を経て、”すし”が日本に入ってきたのは平安時代。やがて作る時間が短くなるとともに、保存から酸味を生かす味付けに主眼が移り、江戸の始めにはお酢を加えて短時間でつくる”早ずし”が登場。最後には、鮮魚を使う江戸前の”握りずし”に進化した。
 「東海道中膝栗毛」や「南総里見八犬伝」がベストセラーとなり、歌舞伎が人気を博し、百花繚乱の如く庶民文化が栄えた文化文政時代に、握りずしは爆発的なブームを迎える。

 仕込みさえしておけば早く作れ、器さえいらない握りずしは、”江戸のファストフード”だったが、当時の握りはおにぎり程にデカく、今の3倍はあったとされる。
 味付けも酢と塩味がメインで、ネタは白身やこはだ、赤貝等で、マグロは余り喜ばれなく、トロは捨てられてたという。
 この文化文政時代は、すしに限らず、そばやうどん、うなぎや天ぷらなどの外食産業全体が江戸で急速に発展した時期だった。その中でも寿司はブームの筆頭で、外食メニューにしっかりと定着する。
 つまり、酢の存在が握り寿司というファーストフードを支えていたのだ。
 以上、ITMediaからでした。


たかが寿司、されど寿司

 どうりで、寿司屋が酸っぱいわけだ。
 しかしそうでなくとも、寿司は大好きだが、寿司屋はどうも好きになれない。
 非国民と言われそうだが、白木のカウンターが出来過ぎ感あり過ぎで、馴染めないのだ。
 回転寿司屋さんのテーブルくらいが丁度いいとも思うが、半日近くも生のネタが外気に触れて回り続けてるのを見ると、衛生上食べるのを躊躇してしまう。

 私は回転寿司屋では、生モノよりも巻きずしや穴子など火の通ったものを優先する。
 不味そうな顔で回転寿司を食ってると、隣に老夫婦が座ってきた事がある。身なりや雰囲気からして、職人が握る高級寿司屋がお似合いのような感じだった。
 私がイカのゲソでビールを飲んでるのを見て、”何だか食う気が削がれるわね”とため息を漏らし、老夫婦は握り寿司を一貫だけ口にすると、すぐに店を出ていった。

 大手有名チェーンの回転寿司屋は、喫茶店と同じくメニューが豊富で多彩で子供の方が大喜びしそうな店が多い。寿司屋というよりもファミレスと言った感じで、いい歳した私は近づくのも躊躇ってしまう。
 一度、開店セールという事で、行列に並んだ事があるが、案の定、スーパーのパック寿司以下だった。
 勿論、私の田舎にも職人が握る寿司屋があるが、悲しいかな、おにぎりにネタを乗せただけのレベルである。

 しかし上述した様に、江戸前寿司の原点が”早ずし”というおにぎりにあった事からすれば、高級食というよりファーストフードの意味合いの方がずっと強いのではないか。
 つまり、回転寿司がブームになるのは当然で、職人が高価な芸術品を扱う様に寿司を握るのには、やはり抵抗がある。
 上級市民になりたくて背伸びする庶民を見てるみたいで、少し辟易する。
 食に松も竹も梅もない筈だ。上も中もない筈だ。食に高級なものを求めた所で、何が美味しいのだろうか。


最後に〜私の流儀

 ハンバーガーを1つ1つ、職人が丹念に焼いてたとしたら、ホットドッグに使う肉の食材に拘り、そこに美食と芸術を追求したとしたら、それも”江戸前”と呼ぶのだろうか?
 江戸前とは”江戸の流儀”という庶民の文化であり、ごく一部の上級市民だけの流儀ではない。同じ様に、寿司も庶民の食べ物で、上級市民の占有物ではない筈だ。
 しかし私には、江戸前寿司と言えば、一見客お断りの”高給寿司”という錯綜したイメージが脳裏から離れない。 

 その名の通り、高給(取りの)寿司を私が好きになれないのは、そういう所にあるのかもしれない。勿論、食ごときにカネを賭けたくないという貧乏人の屁理屈もある。

 私は今、タイムセールで買ったレタス巻きを食ってる。
 「マグロに群がるハエ」でも書いたが、悲しいかな私には、大トロとレタス巻きの本質的な違いがわからない。寿司職人の上から視線で差し出された腐った大トロなら、スーパーのレタス巻きの方がずっといい。
 私にとっての江戸前とは、誰でも気軽に食える新鮮で安価な巻き寿司なのかもしれない。それでいいじゃないか。
 つまり、”流儀”とはそういうもんだろう。



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
腹打てサン (象が転んだ)
2021-05-17 12:14:33
関西は押し寿司だったんですね。
京都の押し寿司は有名ですが、初めて知りました。
でもまだまだ、”高給寿司”はしぶといです。とっとと死滅すればいいものを、たかが魚にですよ。
食は大衆の為にあるべきだと思うんですが、一体握り寿司はどこへ向かうんでしょうか。
返信する
高給寿司 (腹打て)
2021-05-17 07:20:10
江戸前寿司は高価な美食というイメージが強くて、我ら庶民は近寄りにくい。
そんな我らをあざ笑うかのように、1人前1万円以上もする高級寿司の人気は落ちない。

押し寿司の関西寿司と区別する為に、江戸前寿司と呼ばれるようになったという説もあるけど、美食という点では押し寿司の方じゃないかな。
転んだ君が言うように、江戸前=大衆という認識の方が正しいと思う。
返信する

コメントを投稿