●VIRAGIYAN(ヴァイラーギヤ)
vi(離れる)+raga(愛情、貪欲、欲)
VIRAGIYAN が完成すると、観聴きしたことの真理がわかる意識となる。
そのVIRAGIYAN最高の状態とは、PURSHAを知覚しGUNAへの執着も無くなったことを言う。
Yoga Sutora 第1章のどこかにある節。
わからない人は探してください。
さて、2020年は、Covid-19で世界中がパニックとなってしまいました。
さまざまな面で大変な思いをした(している)方も多いことでしょう。
mayuraも長年、細々と続けてきたYogaクラスが、場所の都合でついに開催出来なくなりました。
ついに(やっと)Yogaクラスが、全く無くなったのです。
Yogaの崇高な哲学(初期の仏教につながる)を、ピュアに知覚しうる環境が整ったとも言え、むしろ喜ばしく思っています。
このように、Yoga Sutoraの第1章は、心の持ち方に何らかのヒントを与えてくれます。
さらに、私の場合、迷ったときは、Samyamaを用いた瞑想を、短時間集中して行い、自分自身を導いています。
(本来の)Yogaが「独尊=Kaivarya(カイヴァルヤ)」を目指すものとするならば、誰に依存することなく、誰から観られるものでもなく、自分で内なる自分を見つめ、その結果、さまざまな悟りと解放を得られるもの。
そこに至るまでには、ひとりひとり異なる思考、身体、生活環境に対し、ひとりひとり異なる道(Yogaでも良い)があるはずです。
Yogaは歴史が古い分、さまざまな解釈や流派が存在しますが、ポーズや呼吸を追い求める肉体的なものは新しいもので、今のようなフィットネス風のグループレッスンになったのは、1930年代位からと言われます。
それ以前は、グルジとマンツーマン、山奥で生活を共にし学ぶスタイル。(アーユルヴェーダもグルクラと言い同じようなシステムをとります)
弟子入り時には、グルジの選考試験?もあるわけですが、これはVEDA時代から数千年も続く、ブラフミン(バラモン)の選び方とも少し似ています。
完全な格差社会が長く続いてきたインドで、誰でもがYogaを学べたわけではないのです。
余談ですが、2000年以上前に格差の根源である「カースト制」に異を唱えたのが、かの「ブッダ」、しかし、教団化した後、上座部(小乗 )と大衆部(大乗)で分裂したのは(詳しくはご自分で調べて下さい)ブッダの教えを真に理解出来る者とそうでない者に分かれたとも考えられます。
誰でもYogaが出来るようになった現在も似ているのかも知れません。
実は、ここへの書き込みもやめようかと思いましたが、なぜかアクセスがそこそこあるのです。
DeepなYoga哲学を求めている方が、少しばかりはいるようなので、時間があったので書込み致しました。
次の予定は未定です。
ごきげんよう。