空耳 soramimi

あの日どんな日 日記風時間旅行で misako

「そばかすの少年」 ジーン・ポーター 鹿田昌美訳 光文社古典新訳文庫

2021-12-05 | 読書

「そばかす」という名前の天涯孤独な少年が、暖かい人々と厳しい自然の中で成長していく物語。
 
小学校の図書室で初めて読んだときは涙が止まらなかった。今でていく物語も感動するだろうか。

調べてみると最初は2015年に河出文庫から出ている。村岡花子さんの訳で竹宮恵子さんが解説を書いている。
今回図書館で借りたのは1964年(昭和39年。昭和39年は東京オリンピックの年だった)
の初版で、読んでみたがちょっと言葉遣いが違う、今年のオリンピックの騒ぎもまだ新しいがあの東京オリンピックからは57年の時が流れた。

なるほど村岡花子さんが初めて紹介した「赤毛のアン」の初版は1952年(昭和27年)はこういう言葉で訳されていたのかなと、ついでに調べてみた。
アンシリーズで書棚に並んでいるのは1979年版10冊(昭和54年版で45刷)セットで買うと12冊、12冊?みんな読んだつもりが10冊しかない。あと2冊は何?とまた虫が騒いで調べてみたら「アンの想い出の日々、上下巻」が増えていた。これは読んでないが戦死した魅力的なウォルターの想い出もあるなら読んでみなくては。

訳の言葉遣いに気を取られて一瞬「そばかす」を忘れていた。
尖がった本を読みかけていて、冷えてしまった思いをあたためようと新訳のKindleアプリを開いた。
図書館の村岡訳はそんな風で読みにくかった。それで光文社の新訳で読み返したが、やはり古典の名作も読みやすい新訳が楽だった。


乳児院に捨てられ、赤毛で顔中にそばかすがありおまけに右手首がない。子供時代どこにも貰い手がなく、ろくに学問も受けられなかった。浮浪者のようななりで、アメリカ南部、リンバロストの森にたどり着いた。木材会社の飯場は活気がありそこの支配人に近づいていった。
痩せてみぼらしい若者は一目で役に立たないと思えた。マックリーン支配人は一言で断ったが、なぜか話だけは聞くことにした。若者は正確できれいな言葉を話し声は澄んで礼儀正しかった。
ただ南に広がる深い森の見回りは到底無理だと思えた。
しかし若者は真剣に頼み込んだ。試しに使ってみよう。御者長夫婦と子供たちが森のそばに住んでいた。そこに下宿させて様子を見ることにした。

若者は「そばかす」という名前しかなかった、名無しでは困る。支配人は尊敬する父の名を与えた。

若者の仕事は一日二回南の作業場までの小道を回って張ってある鉄条網が無事か調べ、極上の材木が盗まれないよう目を光らせなくてはならない。
森は深く沼は淀んで蛇もいる聞きなれない鳥が甲高い声で啼く。始めは一歩ごとに恐怖で体がすくみ上がった。それにも慣れ。様々な鳥の声が聞き分けられ、その可愛らしい姿や巣作りを見、野生の花の可憐な美しさや四季折々に木々が葉を染めて散りまた新芽が芽吹く。冬は残り物を生物に与える、鳥は体のまわりで飛び、頭や肩に止まって餌をねだりノウサギやリスも集まるようになる。
そこで彼の心は豊かにのびのびと育っていった。御者長のダンカン夫妻や子供たちは優しくおおらかで暖かい家庭の仲間に加えられた。支配人のお気に入りになり、あまり使い道のない給料で買った本を読んで森の生物の名前を知り、小屋を花で飾りくつろぐようにもなった。

野鳥を撮って調べるバードレディーや、美しいエンゼルとも知り合った。
そして偶然行方のしれない子供を探している貴族がやってくる。

この読みどころは森は銘木を探している者や会社には宝の山だが、そこに入ってみると自然の息吹は豊かで厳しい中にも美しく、生物たちの世界は自然の流れのままに、鳥は去ってまた訪れ、花は咲き、常に豊かで変わらない。
優しさや厳しさを身をもって感じそれに育てられる「そばかす」の日常が感動的で、心身ともに逞しくまっすぐに育っていく様子が、忘れ物を見つけたような感動的な名作だった。
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風葬の城 内田康夫

2021-10-04 | 読書

 

 

本の整理をしていたら、内田さんの本が4冊あった。中から「風葬の城」が出てきた。戊辰戦争で戦った後の亡骸は負け戦の常で埋葬もされず
風葬という悲しいものだった。シンプルなミステリで会津愛が深い作品だった。
 
「平家伝説殺人事件」「天河伝説殺人事件」はドラマでも見たし本も読んでみた。
でもこれはまったく覚えがなかった。
裏の解説を読むと「白虎隊」とある。会津に行った後にでも買ったらしい。天河に行った後で「天河伝説殺人事件」を買ったし。

頭の中に本のことは影も形もなかったが、会津の旅のことよく覚えている。お城に行かなかったのが心残りで、飯森山に上るときは
スロープコンベアという動く歩道に乗った。
白虎隊の自刃の地はさすがに歩くのも恐れ多く、石碑が並び線香の煙が揺らいでいた。一度合掌してもう来ることはないように感じた。
歴史とは見方によれば残酷で、そんなものかもしれないが。白虎隊はまだ幼い未青年ばかりだった。
飯森山から遠くにお城の影が見えた。

興味があって見たかった「サザエ堂」はねじれた古い建物で、構造は珍しく登り下りの階段が別の作りになっている、壁に彫り込まれた何体もの観音像が煤けてくすんだ陰に座っていた。仏は白虎隊の後で訪ねたので背後に何かありそうな恐ろしさを感じて駆けおりてしまった。一番先に外に出た小心者だったが、多分青天の明るい陽の元だったらもっと違った印象だったと思う。

というので前置きが長いが、内田さんのミステリは旅や歴史を織り込んであって読みやすく興味はあった。


今回、光彦は仕事で会津に来た。ルポの取材で漆器の製作所を訪ねる。会津の漆器は美しい。塗りの工程などの説明を聞きながら見学していると、生地の下塗りのコーナーで塗師の職人がうつぶせに倒れすぐに息を引き取った。光彦はその様子から他殺かもしれないと感じた。

お約束のように、観光客が生意気に口を出すな、と地元の警察が邪魔にする。
解剖をして他殺の線が固まった、東京を発ったというひとり息子が待てどくらせど着かない。
息子が胃薬だとくれたカプセルを飲んで死んだらしい。助けも呼ばないで苦悶の表情を残して死んだ父は、息子をかばったのだろうか、と光彦は思う。
しかし、道楽息子は今では歯科技工士になって歯科医院で働いている。地元の高校時代恋仲だった人に訊いてみると、帰らない訳は分からないが、
もし何かあったら喫茶店のノートを見るようにと言っていたという(なんかすらすら進むではないか^^)
そして光彦はノートにあった近藤勇の墓地に行ってみる。勇は流山で土方と別れ捕縛されたということだが、縁のある会津でも墓を建てていた。
息子の死体は元恋人との想い出のあるデート場所のダム湖に浮いていた。無骨な担当刑事の可愛い娘が光彦と郷土の過去をつないで、
ここでも美人で気の利くお約束のマドンナが、何かと知恵を貸してくれる。
光彦の身分も終盤になって公開され、刑事局長の偉いお兄さんが顔を出して「光彦をよろしく」と言ったりして(今回はないが)
「お坊ちゃま」は照れる。
警察も一丸になって光彦に協力。勇の墓地から息子が隠した紙の束が出てくる。
歯科技工士が見下される恨みつらみを晴らそうとした、だが歯科医師のつながりは強い。
裏口入学、試験問題の漏洩を匂わし、二件の殺人事件は、シンプルなストーリ―になって解決する。

面倒な暗い小説を読みかけていたので、あまりの読みやすさに一気に頭がよくなったのかと勘違いをした。
そんなめでたいことは起きるはずがない。
ごく最近誕生日という一里塚を超えたばかりで。

内田さんは、残念だけれど2018年に亡くなった。ドラマはあまり見てないけれど、初めて「死者の木霊」を読んだときは
もうドラマが始まっていたが、あの面白いドラマの作者かと、興味深く読んだ。
たくさんある作品の中でも秀逸だと思った。ここでもダムだったかつり橋が出てきた。

すぐに読めて楽しい。いい読書だった。

講談社文庫で読んだが出ないので、書影は既出の祥伝社文庫にした。
 
 
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「月魚」 三浦しをん 角川文庫

2021-09-17 | 読書
三浦しをんさんのデビュー作、「格闘する君に〇」に続く二作目の「月魚」を読んだ。
この作品が若いからというわけでもないだろうし、決めつけるのも失礼だ。こみいったストーリーでもなく楽しんで読める。

感情描写も、風景描写の瑞々しさも新鮮でとても美しい、何度読み返してもいいような気がする。後味もいい。
これも持ち味の一つかもしれない。
一度読んで好きになっていたので。「2021カドフェス」で再読。


「無窮堂」の若い店主、本田真志喜24歳、祖父から受け継いだ店を守っているが、本来の本好きで不満もない。少し色素の薄い(白皙の)美青年。
祖父の本田翁は古書の業界で力があり尊敬もされている。
店を持たず、仕入れた古書をセリに出して利ザヤを稼ぐ「せどりや」でやくざまがいの父親を持つ瀬名垣太一25歳。上背もあり多少荒い気性もある偉丈夫。見立ても天才的な古書屋。
やくざだが父親は目端がきいて才能があるのを翁は見抜いて可愛がり、太一も子供の頃から真志喜の遊び相手で一緒に育つ。

だが瀬名垣は二人で遊んでいるとき「無窮堂」の捨てようとした本の中から、日本に一冊しか残っていないという稀覯本を見つける。
これで父は「せどり」から抜けられる。
だが父は恩ある「無窮堂」の物だと頑として受けとらなかった。その目を持ったことを喜べと言った。

振り向くと真志喜の父の姿がなかった。

その時から真志喜の父親を追い出したという瀬名垣の罪の意識が重く背中にとりついた。

真志喜は屈託がなく瀬名垣が来るのを待っていた。そして瀬名垣と真志喜は古書好きというほかは全く違っていたが、それがなぜか微妙な禁忌の雰囲気を纏って大人になった。

山奥の素封家の主人が無くなり残った書籍を処分したいという。瀬名垣は真志喜とともに出かけて行った。土蔵の二階は専門書の書棚があったが、先妻の子供は売らずに図書館に寄付するのを望んでいた。だが若い後妻は頑として譲らず、瀬名垣たちは整理にかかった。そこにもめ事の折衷案として町からもう一軒の古書店を呼んだ。それは行方不明だった真志喜の父親だった。やはり「黄塵庵」という古書店を開いていた。

しかし出会った二人はもうすっかり他人だとお互いに実感した。
長い道のりをポンコツのトラックはあえぎあえぎ帰ってきた。

買い付けの旅から1か月後
瀬名垣が来た。
店を持つという、「開店祝いにあのトラックをやる」「いらん」


稀覯本「獄記」を見つけ出した時から世間に出ることを拒んできた瀬名垣は、店をもって人と交わろうと思った。
あの夏の日から真志喜は瀬名垣の傍にずっといたのだから。


甘い甘い、が、めでたい快い締めだ。うっすらと官能的。古書の流通の様もうっすらと。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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「地を這う虫」 高村薫 文春文庫

2021-09-15 | 読書

 

日陰にありながら矜持を保ち続ける男たちの、敗れざる物語です――裏表紙――
 
一言拝借しました。
充実して忘れがたい短編集です、先行の「黄金を抱いて跳べ」を読んで、その後「マークスの山」「リヴィエラを撃て」と前後して読み、あまりの面白さに買ってきて積んでいたのを、本棚の整理で掘り出しました。

☆愁訴の花

田岡は定年後小さい警備会社で働いていた。上司だった須坂の命が危ないので見舞いに行くように連絡が来る。
そこに妻殺しで服役していた小谷が電話をしてきた。出所していたのか。

彼はなにかと噂のある女性と結婚して、警官の身にそぐわない家を買った。招かれて行ったことがあるが内装や家具は質素だった。六千万の家は半分が頭金だったらしい。これを奥さんが工面したという。どうやって。

夫婦はどうもうまくいってない様子だったが、妻が殺され小谷が捕まった。捜査中に行方不明になりその後自首したのだ。
調べが進むと奥さんは覚醒剤の販売をしていたらしい。殺された部屋にはリンドウが一枝活けられていた。田岡はその花が頭の隅に残った。

もう助からないだろう上司から呼ばれて一通の封書を預かった。その記録で上司の恩情とリンドウの花がつながった。
退職してやっと落ち着いた生活だったが、忘れがたい事件が蘇る。

リンドウにまつわる真相は心の底に葬られた。一人の警官と、死ぬまで胸に秘めた上司の心情が哀しい物語。

☆巡り逢う人びと

刑事だったが、今は金融会社で債権の回収をしている。借りたものは返すのが当然、彼は仕事と割り切っている。
課長からまだかまだかと嫌味を言われるがうまくかわしている。

行き詰った町工場に再三行き、居座ることもあるが、社長は行方不明だという。
若い工員が親し気に近づいてきて刑事時代にどんぶりを奢ってくれたねという、そんなこともあった。あの頃と同じカバンだね。

もう工場は追い詰められている。昔ぐれて陰のあった工員は明るい顔になり社長の穏やかさがうかがえた。
ふと仕事を変えようかと思う。

駅で高校時代の知り合いを見つけた。彼は顔色も悪く俯いたまま座っていた。声をかけると穏やかに親し気に笑いながら近づいてきた。
また彼にあった。電車で一日中往復しているようだ。

工員が頭を打って重傷だという。
不動産業者が例の債権回収は話が付いた、社長が帰ってきて白紙委任状に判を押したもう行かなくてもいいという。そんなに簡単になぜだろう。

現役時代、彼は恐喝事件で父親を逮捕した、残された家族が一家心中をした、仕事への精神的な苦痛を覚え、自ら退職したのだったが、民間に移っても、結局自分が似たような世界にいることに、密かに愕然とした。

債務者を締めあげている顔は刑事時代と一つだった。だが扱われかたが変わった。組事務所に行ってもお茶も出なくなった。

病院で出あった社長はあの電車の男だった。整理した残金は工員の補償金だと笑った。
自分の胸のうちで最後の自己弁護の糸が一本、切れる音を聞いた。矛盾と痛恨と怒りと、かすかな希望が折り重なった複雑怪奇な響きだった

人のいい社長に工員ともみ合ったことは言うなと固く口留めしたが、彼はただ笑った。

☆父が来た道

警視庁捜査二課にいた息子は父のつてで永田町の元高官の運転手をしている。今、収賄事件が大きなニュースになっている。しかし見ざる聞かざるの運転手兼ボディーガードの仕事ぶりは重宝されている。

父親は地方で政治にかかわっていた。買収などの嫌疑で実刑判決を受けたのは父親ひとりだった。
父の後を継がず警視庁に入ったが、父親の有罪が決まって依願退職をし、今の仕事についている。
自分は父親とは違う。
行きつけの店の気のいい女と生きて行こうか。

政治家の世界を書いて高村さんの筆は生き生きとして細やかだ。

☆地を這う虫
足元のコンクリートをゲジゲジが這っていた。
ゆっくりと蠕動運動をくりかえす虫の進路は、何を探しているのか、行きつ戻りつ遅々として定まらない。だが、自然の摂理で生きている虫に、自分の行先が分からないということはない以上こいつは本能に従って、こうして右へ左へと這いまわっているに違いなかった。虫なりの秩序もあるはずだ。

省三は習慣になっている動作で手帳を出し「ゲジゲジを見た」と書きつけた。

定年後ふたつの職場を掛け持ちして、碁盤の目のように整然と区画整理された住宅地を往復している。三分で自宅に着くところを時間をかけて毎日違う道を歩いている。300メートルを一辺とする正方形の中をジグザグに歩く。
もう家の並びも形も住む人の習慣まで頭に入っている。

そこで空き巣が頻発した。省三は住民から見れば変な人で警察の聴取を受けて気分を悪くした。
しかしいつも閉まっている小窓が開いている家があった。そこに空き巣が入ったという。次の空き巣も窓を開けたままだった。

もう抑えられない。夜を待って省三は窓が開いていた二階の部屋に忍び込んだ。そこで散弾銃で狙っている空き巣と遭遇。危機一髪のところで目的に思い当たる。

恐るべしこだわりの習慣と記憶術。
面白かった。

というよくできた短編だが、高村さんのほかの大長編作品を読んでいたら、このくらいの話は安心だと思った。
中でも「巡り逢う人びと」は余韻が残る、市井の人々の日々がもの悲しくも優しい。
 
 


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「リボルバー」 原田マハ

2021-07-26 | 読書

 

 

ゴッホとゴーギャンとひまわりとリボルバー。ゴッホの死の謎は?リボルバーに絡むもう一つの世界。
本屋さんで目に入った「ひまわり」の表紙を見て、面白かった「楽園のキャンバス」を思い出した。
ゴッホの絵は7点大塚美術館に精巧な陶板画で展示されていた、名作というゴッホの渦巻く絵は、見たい時と見たくない時がある。激しいタッチに現れた生き方そのものも、焦点を当ててそれだけに絞ると、彼だけではないだろうと思う生き方ながら、惹かれながらも恐ろしくもある。

マハさんはそこのところを独特のミステリ(ともいいきれないけれど)にまぶして小説に仕上げている。

職を変えながら画家の本分に行きつくまでの話は短い。アルルに住んで自分の絵を見つけようとした葛藤の中にゴーギャンがいて、短い交わりでゴッホは彼に執着した。彼の画風にと言えるかも。ゴーギャンは二か月しか一緒に住めなかった。
彼はゴッホの生き方とは違っていた。
彼が去ってゴッホは有名な「耳切り」事件を起こす。ただここアルルでは「ひまわり」のタッチができ上って旺盛に描く。
精神の安定のために入院したが、そこでも今に残る有名な絵を描く。

マハさんは物語として一人の女性を登場させる。フランスでゴッホとゴーギャンの論文を仕上げようとしている冴という女性と彼女の親友、冴の勤めるオークションハウスのオーナー、社員の男性と共にゴッホの足跡を辿らせる。
単にゴッホの生きかた、作品の背景だけに止まらない読ませる技術を駆使して書き上げた作品で、ゴッホのついては弟「テオ」のこと、残っている「たくさんの手紙」のこと、死後売れ始めた作品についてもふれつつ話が進む。

持っている古いリボルバーをオークションに出してほしいと女性が訪ねてくる。
このリボルバーでゴッホは自分で自分を撃ったのか、撃ったのはゴーギャンだったのか、映画のようにふざけた子供の仕業か。
錆の塊のようなリボルバーはどんなふうに彼女に伝わったのか、話は実話なのか、銃は本物なのか、オークションに出せるか ここでリボルバーが主役。このシーンは、ゴッホとリボルバーについて知らなかったので面白かった。

ゴッホにしてもゴーギャンにしても今も美術に関心があれば知らない人はいない。
ただこうした作品を読むことでマハさんの一連のアート作品も併せて楽しむことができる。
ただ、美術書というより書きなれた軽めのエンタメ作品だった。

 
 
 
我が家の「ひまわり」
 
 
 
 
花粉まみれの働くミツバチ(笑)
 
 
 
一休み(二休み)のシジミチョウ
 
 
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「ホワイトコテージの殺人」 マージェリー・アリンガム 猪俣恵美子訳 創元推理文庫

2021-07-20 | 読書

 

77

 

イギリスの女性作家を一人覚えたが、巨匠と呼ばれているにしてはこの作品は甘かった。いろんな意味で。
これはこれはと、読み終わって力が抜けた。ミステリの要素は揃っているが、ソフトボイルドというか食べやすさとともに後味にはロマンティックな甘さが残った。ハーレクイン的ミステり。

創元推理文庫にはいつも楽しませてもらっていてハズレがないと思っている。
この作家は知らなかったがまぁイギリスの作品だし信頼は厚い。
時代はさかのぼるが、読書歴は乏しくて、思い出してみても女性作家はクリスティとセイヤーズあたり、男性作家もゴダートやクロフツ、ウィングフィールドなどほんの一握り。なので期待して読み始めた。

人間離れのしたねじ曲がり男。こんなのが隣に越してきた。一家の主婦を狙って忘れたい古傷を種にしげしげと通ってくる。
脅かされる主婦は「悪魔」のような男に怯えている。
その夫は戦争で下半身不随になり車椅子に乗ってはいるが夫婦仲はいい。
なんか貞淑そのものの妻である。

ジェリーがドライブ途中、ケント州の小さな村で、足に豆が出来た娘を家まで送っていった。可愛かったし彼はちょっとときめいたのだ。
あいにく雨に会い雨宿りをしていると、メイドが「殺人!」といって駆けてくる。テンポのいい始まりで殺人事件が幕を開け、なんとジェリーの父はスコットランドヤードの敏腕警部だった。

このジェリー親子で捜査を進めるのだが、この親子は仲がいいほのぼのとした関係で、お父さんの事件に向かう顔と息子に話す顔のやさしさがいい。
反面、殺された男を含め気味が悪い隣の男たちが、これでもかというほど怪しい。

それに比べて脅迫まがいにしげしげとやってくる男達におびえる、ホワイトコテージの夫婦、その妹、小さな娘と養育係、メイド、癖がありそうだがどうも肩を持ちたくなる雰囲気を醸し出す人たち。

なのだが何か曰くがありそうで、脅迫される種を抱えていて、殺す動機もそのあたりかと思える。

隣には前科のある男や後ろ暗そうな男がいる、警部の顔見知りの前科者もいて、彼らのイギリスとフランスをまたにかけた痕跡を追っていく。ここは警部の面目躍如といったところ。

ここで私はハタとたちどまった。国際的な窃盗団が出てくる。世界的な大富豪が裏取引で買いあさっている名品中の名品を調達するグループに、隣の家の居候がかかわっているらしい。というので、知らなかったのだがこの作家はイギリスでは巨匠らしい。ではその世界も広く、ここらで「M」でも出てくるのだろうか。スコットランドヤードのお馴染みの秘密情報部でも出てくるのか。まるで高村薫さんの「リヴィエラを撃て」のような流れになるのか、それなら肝を入れて気を引き締めてと思ったらここで読むのを一休みしてしまった。

改めて読み始めると、さにあらず、なんと居候の彼らは小物で、この追跡劇はさっさと片付き、警部の面目もたつ。
しかしこの件から手がかりを見つけ敏腕警部は、事件捜査を仕上げる。

気をもんだ息子のジェリーは美しい一目ぼれの娘を手に入れる。めでたしなのだが。

厄介者の悪質な隣人はいなくなり、質の悪い居候も去ってホワイトコテージに平和が戻る。
だが、意外な幕切れはなかなか意味深で、読みながら謎解きをするまでもなく、警部と神のみぞ知る予定調和な結末で締めくくられる。

なんとも、読みごたえはないが後味はいい。ストーリや登場人物はわかりやすく極端に分かれて、ただ少々割り切れない気がするグレーゾーンも何気なく終わりになるという、肩すかしの一冊だったけれど
まぁそれでもミステリの要素は揃っていた。

甘さもこのくらいならイギリス風アフタヌーンティータイムということで。
 
 
☆ 梅雨が明けて暑くなってきました。室内の読書報告(と言っても前に読んだもののリライト)です。
 
  出来たら散歩リポートも書きたいのですが、「日日是好日」で読んだり書いたり遊んだり日記ということで、よろしくお願いいたします。
 
 

 

 

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「鉄の門」 マーガレット・ミラー 宮脇裕子訳  創元推理文庫

2021-07-14 | 読書

霧の中から少しずつ姿を現すものを描く。夢と現実のあわいを見据えるような練った文章は、不思議な世界の楼門のように読者に向かって開いていく。
外に積もった雪の公園をミルトレッドが歩いていく、頭が割れて赤い血が雪を汚している。呼んでも聞こえないのかどんどん小さくなっていく。時折振り返る顔は人形のようで、小さい笑顔はいつまでも鮮明で、、、ルシールは胸苦しさに夢から醒める。

ルシールは何度も修復したミルトレッドの肖像画を見上げて思う。夢なんてばかばかしいわ。

ルシールは先妻のミルトレッドの友人だった。しかし、彼女が亡くなって後妻に入った。
密かに愛し続けていた医師のアンドルーが今はルシールの夫になって16年が過ぎた。
小さかった先妻の子、兄妹も成長した。アンドルーの妹イーデスが独身のまま同居している。

二人の使用人と家庭を切り回しているが、家族とはお互いに心から馴染んだことがなく常に他人の感覚がつき纏っている。

娘のポリーの婚約者が来ることになった。ルシールとイーデスは準備のために残ったが家族は駅まで出迎えに出発した。到着するはずの列車が脱線事故で遅れた、救助の手伝いをしている、帰りは遅くなると連絡があった。ルシールはまたいつものように家族に入り切れていない孤独感を覚える。

小さな箱をもった小男がドアをたたいた。その箱を開けたルシールは悲鳴を残して、外に消えた。

アンドルーは警察に届けた。妻が行方不明でそれが奇妙なんです。巡査部長は思う。行方不明なんて奇妙なものさ。

サンズ警部は聞き込みに行く。美容院で髪を切ったのがルシールらしいと。確かにここまでは来たようだ。
彼は16年前のミルトレッドの悲惨な事件を覚えていた。

ルシールは湖で見つかった。水の中で夢のように死を見つめていた。死ぬのね。悲鳴を上げ続けた細く細く何度も何度も。
アンドルーが手を差し伸べても彼女はまだ叫び続けていた。救急車が来て病院に収容された。ルシールにとって大きな鉄の門と塀のある建物はとても安全なところに思えた。

同室のコーラは正常な神経を持っていたが、一人暮らしより入院を選んでいた。彼女は頼りになるとルシールは感じていた。家族は毎日見舞いに来た、誰にも会いたくない。アンドルーとだけ暮らしたい。
いつも悪夢が押し寄せてくる。気味の悪いものが見える。

サンズ警部のところに子供が湖で箱を見つけたと言って来た。中には気味の悪い指が入っていた。

ルシールの入った門の中の共同体は自給自足で営まれていた。
この共同体の父親役は精神分析医から病院経営者となったネイサン医師、母親役は効率的でありほがらかでありながら冷静な看護師の一団が担っていた。空想癖のあるものや鑑賞主義者、芸術趣味の人間はスタッフとして受け入れてもらえない。想像力の豊かな者は危険な場合があるし、感情に流されやすいものは病棟全体の平和を乱しかねないからだ。

その点ルシールを担当しているミス・スコットは優秀だった。
混乱しているルシールはサンズにあっても恐怖しか涌かない。しかし彼から小男のグリーリーが死んだ、殺されたと知らされて訳もなく安心して、指の入った箱を受け取った所から彼に脅迫されたいきさつを話す。
まわりで事件は続く。家族が持ってきたブドウを食べてコーラが死んだ。
ルシールは言葉が明確に出なくなっても、家族を疑っていた。それを話すが、部屋を移され新しい看護師が付いた。散歩に出たが隙を見てルシールは高い塀から外に飛び降りた。
みんな待っている私のカタが付くのを、だから塀を上って逃げる。

ルシールの葬儀が行われた。サンズの仕事もカタが付いたとみんな思っていた。しかしサンズは「死の数」を忘れなかった。
コーラの姉がそっと葬儀を見ていた。そこでイーデスと会う。二人は悲しみで繋がる。
そして物語の鍵になるものに気が付く。

サンズの頭の中にもつながったものがある、やっと犯人の意図に行きつく。

ルシールが夢うつつで自分を見失ったのはなぜか、家族は皆彼女の敵だったのか、ルシールの怯えは何か。家族の心理はルシールの疑心暗鬼か、複雑に絡んだ糸は連続殺人に姿を変えて4人の命を奪った。狂ったのか。それともストレスによる混乱なのか、ルシールの世界はミラーの創造の世界を映している。
終わりまで誰がなぜという答えが見えなかった。入院者の異常な行動もはさんで、物語の底は深い。
ただルシールの混濁したままの話は、わずかながら技巧にすぎるようにも感じた。
 
 


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「犬の心臓」(KAWADEルネサンス) ミハイル・A・ブルガーコフ

2021-07-12 | 読書

 

死んだ若い男の脳下垂体を犬に移植したら、犬が人間化したという。SFのような怪奇小説のような、面白怖い作品。
ただ、これが革命直後、レーニン時代に書かれたということを解説で読んだ。新しいソ連体制に真っ向から立ち向かう作品ではなく、多くの非リアリズム的で幻想的な作品が書かれた時代、これもその中に含まれる。
ブルガーコフは時代の風俗を風刺したこのような滑稽さも含めた作品で何とか息を継ぎ、レーニンから舞台の仕事をもらったとか。本音とは矛盾した生活は彼にとって不幸な時代ではなかっただろうか。1989年になるまで出版はされなかったらしい。
極貧と貴族的富裕が混在する、革命後間もない時代の作品が見せる背景を多少は理解することはできた。

参考にと「中野京子さん」のロシアの怖い絵を読んでみたがメインになっている時代の話が、この作品の時代の少し前でおわっていた。それでもロシアという特殊な成り立ちの国と、蓋を開ければ何処も同じ、何も変わってはいない人間の歴史にはまってしまった。といっても、ロマノフ家崩壊の後がすこし少し重なっていたので理解には役立った。

死んだ酔いどれの若い男の脳下垂体を、「シャリフ」(一般的な犬の名前)と呼ばれている野良犬に移植する
医者は若返り手術の権威で数々の実績を上げていた。
犬は熱湯を脇腹にかけられて死にかけていた。飢えてもいた。親切ごかしに暫くは天国のような暮らしをした後、粗野で無教養の男の脳下垂体と陰嚢を埋め込まれる。

犬は元の素朴さを失い、人間に徐々に変化する。二足歩行から言葉を覚えていくが、男の下品な本性も受け継いでいた。

この経緯を助手は研究のために記録しているが、少しずつ人化していく段階はSF的で面白い。だが現実はてんやわんやで、若返り自体は世間に受け入れられ医師の商売は繁盛しているが、この実験で日常が破壊されていく。

最後の手段でもとに戻すことになった、頭に傷のある犬の穏やかな日常が戻ってきた、医師は傍で腰を下ろし、スチームの効いた部屋でくつろいでいた。犬もなんとなく幸せ。

何度も挫折した代表作の「巨匠とマルガリータ」は読了出来るだろうか。

変容といえば以前筒井康隆の「メタモルフォセス群島」が面白かったのも思い出した。突然変異した生物の島は、人工的ではない。それは進化の過程を切り取ったものだったかもしれない。記憶は薄れているが思い出したのでそのうち本を探してみよう。

後ろに河出書房新社の「奇想コレクション」が掲載されていた。コレクションは20冊ある。どれも面白そうなのでメモをした。

ダン・シモンズ『夜更けのエントロピー』 嶋田洋一訳、
シオドア・スタージョン 『不思議のひと触れ』 大森望編
テリー・ビッスン 『ふたりジャネット』 中村融編訳、
エドモンド・ハミルトン 『フェッセンデンの宇宙』
アルフレッド・ベスター 『願い星、叶い星』 中村融編訳
シオドア・スタージョン 『輝く断片』 大森望編訳
アヴラム・ディヴィッドスン 『どんがらがん』 
ゼナ・ヘンダースン 『ページをめくれば』 
ウィル・セルフ 『元気なぼくらの元気なおもちゃ』 安原和見訳、
コニー・ウィリス 『最後のウィネベーゴ』 大森望編訳
パトリック・マグラア 『失われた探険家』 宮脇孝雄訳
タニス・リー 『悪魔の薔薇』 安野玲・市田泉訳、
シオドア・スタージョン 『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』 若島正編、
ジョン・スラデック 『蒸気駆動の少年』 柳下毅一郎編、
マーゴ・ラナガン 『ブラックジュース』 佐田千織訳
グレッグ・イーガン 『TAP』 山岸真編訳、
ジョージ・R・R・マーティン 『洋梨形の男』 中村融編訳、
フリッツ・ライバー 『跳躍者の時空』 中村融編、
テリー・ビッスン 『平ら山を越えて』 中村融編訳
ロバート・F・ヤング 「タンポポ娘」伊藤 典夫 編
 
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「ソウルケイジ」 誉田哲也 光文社文庫

2021-07-09 | 読書

 

会話の部分は一人分で改行しているので白地の部分も多く、眠くなる暇がなく読み終えた。軽く面白かった。前作の「ストロベリーナイト」ほどのグロテスクさは薄味。
警察内部の話で紅一点の姫川刑事がいい。それに絡む年上の部下から監察医、そして背景では、組織の闇の部分に落ちていく警官など、前作は衝撃的だったが面白かった。
前置きが長くなったが、その「ストロベリーナイト」の数ヶ月後に起こった事件だ。


多摩川の土手に放置されていたライトバンから左手首が発見された。
だがほかの部分は見つからない。姫川班も動員され、周辺の捜査が始まる。
事件現場は確定したが、捜査は進展しない。

調べていくうちに、建築工事の関係者らしいということがわかってくる。

そして、事件の関係者の生い立ちがそれぞれ一人称で語られる。

身寄りのないものどうしの結びつきや、建設工事の裏や表、過去に地上げ屋のために苦しんだ家族のこと。

極貧の借金生活を清算するために、生命保険を当てに死んだ親を持つ若者のその後。
父親の自殺現場にいて助けられなかった贖罪の意味で若者を援助し、育ててきた過去のある男。

そういった人たちの話が絡んで、複雑な歯車がまわりだし、警察もそれに巻き込まれる。

生活のために命がけで金を工面する生き方。
それを食い物にするやくざ。
そこに生まれていく憎悪。
一方同じ境遇のものが強く結びついて、事件の謎を深めていく。

前作の猟奇的な面は少し陰を潜め、底辺で暮らしている恵まれない星の元に生まれた人たち。
その哀感が漂う生き方が事件を招き、最後にすべてが明らかになる。

捜査本部のお馴染みユニークな人たちは、姫川を中にして面白く、次第にそれぞれの生活も語られる。この息抜き的な空間があり、重い現実と平行して解決へのスピード感が増し、読む速度が上がる。

この警察ミステリ、面白かった。
 
 
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エミリ・ディキンスン アメジストの記憶 大西直樹訳 

2021-07-05 | 読書

 


暫くディキンスンから離れていたのですが、時間も経ち、改めてこの本を手に取ってみました。

私の覚えていたことといえば、名家の令嬢で、キリスト教の福音書による教育に馴染めず、ついに教会にも通わず、周りからは変わり者に見られていたこと。詩は公になったものは10編で、1800編近い詩稿はエミリ・ディキンスンが亡くなった後で、妹が見つけたこと。
最初の詩集は、兄の不倫相手が編纂して刊行したこと。没後100年の記念として刊行された全詩集が世界で評価されたこと。
新聞に投稿した詩を編集長に酷評され、当時女性の詩は認められにくかったこと。性格的にも社交的でなく、反面プライドが高く、館の二階からあまり出ないで詩を書く事だけに生きたこと。南北戦争も体験した時代にボストン近くの知的な地域でそだって独身のまま亡くなったというような大雑把なことだけでした。父の死後白い簡素なドレスで引き籠ってしまったという、なんとなく意思を通しながらも孤独そうな生涯にちょっと憧れたのかもしれません。

今回大西直樹著のこの本を読んで、近世の伝記のようなものは、時がたつにしたがって次第に正確な資料が見つかり、歴史がより明らかになっているということに気づきました。

エミリ・ディキンスンは平生は明るく朗らかなところがあったようです。ボストンに近いアーマストの街で19世紀の宗教的覚醒時代と呼ばれる中にいました。ポーやホーソーン、などなどこの時代は多くの作家や詩人が生まれています。ホーソーンの 緋文字を読んだときは、ピューリタン的戒律のきびしさから一人の女性を人間として目覚めさせ、周りも理解を深めていく過程が感動的でした。

そういった中でエミリ・ディキンスンも自己の生き方の覚醒と宗教との間で揺れ、こういった歴史的な背景の中で生まれた詩はやはり宗教的なテーマ多く、やはり文学は時代を超えないということを実感しました。先見的なリベラルに見えるエミリ・ディキンスンでさえ、多くは宗教的な香りを持った詩を書いています。

後年世評が高まった時になってやっと実像に近づいた詩集が出版される。エミリ・ディキンスンは若い女性で南北戦争の悲劇も体験し、恋もしたようで、「マスターレター」と呼ばれる三通の手紙は投函されずに残っているが、あて先は判らないままになっている。もう出尽くした感じがある今、この本を読むと結婚さえ考えたこともあったようで、まだ自伝には終止符が打たれない部分があるようです。

兄の結婚相手であるスーザンとは詩を見せ合う親密な友人だった。しかしスーザンと兄との間は冷たく、兄の不倫相手だった、活動的で美しいメイベルが編纂した詩集ではスーザンにはあまり触れられていません。意図的であり、歪曲された部分があると著者は書いています。
清純な隠遁者、白い服を纏いあまり理解者のない詩を書く、その神秘的なイメージを長く人々は信じ、私もそうだったのですが。

著者は暗喩で飾られたエミリ・ディキンスンの特異な形の詩をとても深く理解し、よく伝わります。

エミリ・ディキンスンが現在、高く評価されるのは、彼女の作品が「ありきたり」なかったかでなかったからである。ここでも彼女の作品と人生を支配している逆説が支配している。友人のアバイア・ルートに「ありきたりって私、大嫌いなこと知っているでしょ」と少女時代に書き送っているように、定石どおりであることに興味を示さなかったのだ。



謎解きのような詩も多いという。閉じこもった部屋で書く詩は彼女だけの中で熟成し、読者の共感を得にくかったのかもしれない。広く公開されて読者の層が広がって、

初めて彼女の理解者に迎えられたように思えます。

それほどエミリ・ディキンスンの詩は言葉も形も個性的であって多くの人には難しい部分も多かったようで、日本でも難解な現代詩といわれるような詩が現れ時代を築いてきました。

エミリ・ディキンスンは自分だけの詩を発酵させ、それがやっと多くの支持を得たのではないでしょうか。

彼女は四六時中、自分にとって詩的と思われる言葉を探して生きていたことだろう眠りにつこうとするときでも。その時ふと思いついた貴重な言葉を、朝起きるまで覚えておこうとしながらも眠り込んでしまったその感覚が淡い記憶として感じられるだけだ、ここに描かれている宝石は、詩としての言葉の比喩として読めるだろう。

私は、宝石を一つ手に握って
眠りについた
その日は暖かで、風はありきたり。
私は、宝石は大丈夫、といった
目覚めると手を叱りつけた
宝石はない。
今、残っているのは
アメジストの記憶だけ。

最後に、詩人の後世に与える影響について

詩人とはランプに光を灯すだけで
自分自身は、消えていく
芯を刺激して、
もし命ある光を

太陽のように、受け継ぐなら
それぞれの時代はレンズとなって
その周辺の広がりを拡張していく。

彼女の詩に触発された様々な芸術作品が、次々と世に発表されて来たその広がりはますます大きくなっている。


偶然で驚いたのですが2017年7月にエミリ・ディキンスンの映画「静かなる情熱」が公開されていました。見てみようと思います。

 


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「ファーストラヴ」 島本理生 文藝春秋

2021-07-03 | 読書

貸してくれた知り合いに、この題名は?と聞くと、それはちょっと難しいラヴだからぜひ読むといいということで、直木賞を読んでみた。
島本さんと言えば作品は多く恋愛小説らしいが、これはミステリ風味で、恋愛は少し薄味ということだった。


父親を殺したかもしれないと言っている女子大生環菜の半生を、ノンフィクションの形で書く事になった臨床心理士の真壁由紀は、インタビューもかねて面会に行くと、環菜は取りつく島もない。

環菜の義父は画家で学生を指導し、家の離れでデッサン教室を開いている。母は父に盲従、娘には無関心。それでも由紀の質問に対しては母をかばう。

美貌の環菜は幼い頃からデッサン教室でモデルになっている。男性のモデルと全裸で学生の視線に耐えることが成長するに従って苦痛になり自傷を繰り返していることが判る。

なぜ父を包丁で刺したか。トラウマがあるだけに環菜の事件は救いようがないかに思える。

一方弁護士の迦葉は由紀の大学時代の友人で、一時付き合ったことがあるが、由紀はその兄と結婚している。
写真家で受賞歴もある夫はおおらかで温かく優しい。由紀と結婚することで海外に行く夢を絶ち結婚式のカメラマンをしている。

由紀にも母親との確執があり、迦葉も由紀との間に成就できなかった思いを残して、それが現在でも恋愛に真摯に向き合えずにいる、結婚もしていない。

環菜は由紀にも言えない(いいたくない)ほどの苦しみを抱え、そんな自分を信じられなくなっている、自我を見失いそうになっている。それが逮捕されたときの「動機はそちらで見つけてください」という言葉になり、ひどくバッシングを受ける。ますます父を殺したことも曖昧になっている。

迦葉と由紀は彼女の真実の姿を追いかけていく。
会話も増え、環菜を見るにつけて自分自身を見つめることも多くなり、こじれていた二人の関係も、次第にほぐれてくる。

環菜は、なぜどうやって父を殺したのか。

由紀の夫が明るい光になってはいるが、冷酷な人間たちに犯されていく魂がよく書けている。文章も読みやすい。
由紀と環菜の心の揺れも、何気なく見える生活の奥底にはありそうでいい。

それでも欲張れば、どこか都合のいい成り行きに、これが直木賞というものかと少し期待外れの印象を受けたが、ストーリーは何か納得できる部分もあり、この作者の物は初めてなので読んでよかったとは思う。

 

 

 

☆TVで映画化の宣伝をしていたので、本が好き!の感想文から、

どんなストーリーだったかな。最近本を読んでもメモしないので、すっかり記憶から消えてしまって。これではいけない ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶よ~し

 


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気になる症状別 野菜の食べ方・選び方 彩流社

2021-06-28 | 読書

改めて野菜を見直しました。#彩流社さん
 
よほどのことがない限り喜んでよく食べる家族を抱えているので、まず喜ばれる献立、次に体にいい献立を考えます。お腹を減らして帰り、こっそりキッチンを窺ったり、ガレージに漏れる匂いで期待満々で入ってくる顔を見るとこれはウケそうだというのが判ります。それでも育ちざかりを過ぎると、好きなものばかり並べるわけにいかなくなり、最近食材やメニューを考え直しています。

長く台所係をして今更レシピ本でもないようには思うのですが、親譲りの献立にはない新顔の野菜や、季節にかかわらず売られている野菜も多くなって、目新しい成分や薬効が詳しく載っていたり、現代病予防を主にした本も見かけます。

野菜は旬のものからと教えられてきましたが、珍しいスパイスを使ったレシピなどを見ると、大げさではなく好奇心も手伝って作ってみるのが楽しくなります。

我が家は郊外で(田舎で)まだ地場野菜のマーケットがありますのでできるだけ朝のうちに採りたてを買ってくるのですが、おいしく役立てて食べるために改めて野菜の本を読んでみました。

子供の時から身近にある野菜などは大まかな知識は自然に身についていますが、元気な体を作るものを食べるということが大切なことで。

21世紀に入り「ヘルス・プロモーション」という予防医学の考え方が取り入れられるようになってきました。表面的な危険因子の除去だけでなく、健康によいこと、体全体がよくなることを積極的に生活習慣に取り入れることが病気の予防や治療につながる、という考え方です。

ここから始まり、食物連鎖、日本人独特の遺伝性や体質に目を向けること。ふさわしい食生活について実際に野菜をどう使うか、代表する身近な野菜や果物の名前を挙げて説明されています。

季節ごとの(旬な)野菜 
成分や和らげられる症状別(ガン・動脈硬化・肥満予防・高血圧・高脂血症など)

健康について気になるところがあるとき(脳の活性化・疲れ目・胃腸を守る・骨粗しょう症を防ぐ・更年期の悩み)

ちょっと具合が悪いとき(風邪気味・疲労・食欲不振・便秘・下痢・美肌効果・髪のケア・二日酔い)
こんな時はどんな野菜を食べたらいいか。

薬品を処方される前に、おいしくてきれいで体に役立つ野菜。
できれば体脂肪や血圧が基準値で、毎日元気で機嫌よくいられるよう。
たまにはちょっと高めの食材に甘えてみたりしながらも。
慣れないスパイスや、香味油や、野菜コーナーの隅にある地味な野菜の使い方にも慣れてみたいと楽しく読みました。

肥満は敵だ!甘いものは体の毒だ!などと唱えながら流行りの「安納芋」や「紅はるか」の焼きいもの匂いに誘われ、カロリーオーバーかな、でも楽しいことはいいことだ、これでお昼ご飯の代わりだという誘惑にもいいわけしつつ、カロリーも気にしつつそれでもおいしく健康に食べることができるのは嬉しいと思いました。

昨年から肥満指数もチェックするようになり、流行りの糖質オフのレシピ本が9冊も集まり積んでありました(いつの間にか)

思い出すために、日頃忘れないためには、時々開いて読んで役に立ちそうな嬉しい本でした。
 
 

 

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「連城三紀彦レジェンド 傑作ミステリー」 講談社文庫

2021-06-25 | 読書

綾辻行人 伊坂幸太郎 小野不由美 米澤穂信 編 

 

 

収録作品は編者も悩みながら趣向の違う作品を選んだのだろう。まさにレジェンドにふさわしい技巧的な作品揃いで、初読み作品もあってもう二転三転する展開に目が回る。それぞれの作品は好みが分かれるかもしれない。
 
依子の日記(綾辻選)
連城さんの後期作品は、次第に恋愛小説というか不倫小説に移行した感じがする、それで離れてしまったが。
これは初期の作品だとは言っても、一人の男を巡る妻と愛人。それも女の一人が消えなければ解決しない展開で、もうこの絡みがほどけないところまできて殺人事件となるが、そこにまた一人の男まで絡まってくる。男のいやらしさと女の執念に謎が絡んで、面白いというよりそれこそ泥沼に引き込まれる。読者を振り回す、腕(頭)をひねった書きぶりが神がかり。

眼の中の現場 (伊坂選)
医者の夫は看護婦と不倫中で夫婦仲は冷えているように見える。妻の体調が悪く検査を受けると「癌」だという。夫が指導している医者の誤診だと判ったが夫は内密に処理した。妻に真実を告げようとしたが少し遅れ、妻はホームから電車に跳び込んで死んだ。
自殺とされたが背中を押されたのではないかという疑いが残った。
妻の不倫相手が訪ねてくる。この男は別に恋人ができ妻とは別れていたが彼はまだ妻に心を残していた。
夫を訪ねてきて問い詰める。部下の誤診をもみ消したことで脅迫まがいにアリバイを問われる。
二人の一幕の舞台を見るような会話劇で妻の死の真相に迫る。心理描写にすぐれた実に面白い展開。

桔梗の宿(小野選)
戻り川心中に収録

親愛なるエス君へ(綾辻選)
フランスで起きた実際の事件を下敷きにした戦慄のホラー作品(といってもいいと思う)現実に、フランス留学中の男が起こした事件で一時大きな話題になった。殺して食べ残した肉を大きなケースに入れて運んでいるところを逮捕された。
この作品ではカニバリズムに憑りつかれた青年の奇怪な行動が語られる。彼はフランスで起きた事件の半端なやり方に不満があった。日本留学中に実行することにしたが、女医がひき逃げする現場に遭遇し、彼女を利用する巧妙な策を思いつく。しかし意外な結末で、ここに至り最後まで軽々と翻弄され、非常におぞましくグロテスクな描写に鳥肌が立つ。
罪の意識はキリストとユダの喩えが引用されるが、彼の狂気は
本当はゴッホの自画像とは全く違う容貌なのに、私はいつも自分の顔に彼と同じ狂人の雰囲気を感じるのだ。そしてその時、エス君、君を感じた

(現実の事件でも彼のイニシャルはSで始まっているのが不気味)
現実に起きた事件も生々しいが、こういった傾向もミステリの一面かと思う。

花衣の客(米澤選)
これは作者好みの和の雰囲気を生かした舞台装置で、茶室や名品の湯のみなど小道具に凝っている。
母の男に憧れて最期を看とる娘の二代にわたる不倫の様子が、母と娘、男の妻の微妙でいて、ある意味ありふれた懊悩が細やかにミステリアスに書かれている。慕ってくれる娘と老いの陰の濃くなった男と、かかわった女たちの繊細な描写が冴えてはいるが、好みではない。

母の手紙(伊坂選)
息子の嫁を苛め尽くす母親は自分の受けた苛めの仕返しのような壮絶な日々を送っている。恐ろしい。しかしそれには訳があった。
苛めかたも母の宿業の繰り返しのようで、母と嫁、息子の苦しみは母の死後に哀切な余韻を残して解決する。


代表作の中から趣向の違った物語を選んでいる、よくできた入門書で、最後の綾辻伊坂対談も参考になる。
 
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「あしながおじさん」 ジーンウエブスター 新潮社

2021-06-22 | 読書

裏表紙から 「最高に素敵なハッピーエンドが待ち受ける、エバーグリーンな名作。」
このエバーグリーンがとても気に入った、この話によく似合う言葉。
谷崎や三島には使いづらいけど。
その通り。みんな知っているエバーグリーンな話。
ただ拾った幸せでなく、一つの稀に恵まれたチャンス、それをきっかけにして掴んだ幸せな生活が快い。

苦労はしたけど、知らなかっただけで彼女の父は大富豪でした・・・小公女
男の子が欲しかった老夫婦は、間違って来たおしゃべりな女の子が気に入り深く愛するようになるのです。その子「アン」は夢見がちなおとめ時代を過ぎ愛する人を見つけ、家庭を築き、人生の苦楽を乗り越えていくのです・・・赤毛のアン
孝行娘は野獣の元に嫁ぎ、彼の悲しい過去を知って愛するようになるのですが、屈折した彼も実は心の美しい王子だったのです・・・美女と野獣
優しいお母さんの下で四人姉妹は大人になり巣立っていった。読者贔屓のジョーはニューヨークで独り立ちの苦労の末作家になった・・・若草物語


少女時代の夢をはぐくんでくれたお話はもっともっとたくさんある。
でも「あしながおじさん」の話は特に素敵だ。
こんなお話を読みながら、ありえないけれど、万に一つ身近にいないものだろうか「あしながおじさん」。
とチラッと思ったことはないだろうか。

それで読んでみた。


子供ながら相当気に入っていたらしいあまり間違って覚えてなかった。孤児院で育ったジェルーシャは成績がよく特別に高校に行かせて貰っている。
卒業の時期が来て進路を決めなくてはいけなくなる。そこに孤児院の後援をしている篤志家が大学の学費をだしてくれることになる。
「独創性」が気に入ったという。孤児院の憂鬱を遠慮会釈なく書いた作文が気に入ったのだ。

将来作家になる勉強をすること。一か月に一通秘書宛てに報告がてら手紙を書く、そんな願ってもない条件だが。
ジョン・スミス氏はいただけない「あしながおじさん」にするわ。
あなたの後姿は背が高く壁に写った影は細く長かった。あなたはおじいさん?デブ?髪薄い?ハゲ?
尋ねても答えは来ないけれど。・

前向きなジェルーシャは大学生活を楽しみ、苦手な科目に苦しみ、休暇では旧家のお嬢さんの館に招かれ、縁のなかった外の文化にも馴染んでいく。

秘書宛てに書く手紙は時には長く長く、宛名のジョン・スミスさんあなたはいったい誰?としきりに訊いてみる。もちろん返事はない。

友達の兄と仲良くなるあたりで、ジョン・スミス氏、、ついに顔を出さないではいられない。

彼女は賢く美しく育っていく。休暇を過ごす牧場の持ち主として「おじさん」は少しずつジェルーシャの暮らしに加わり、変わり者の汚名を返上する。

ここからはさすがにエバーグリーン、紫の上式の育てる楽しみを持つ坊ちゃんの常套恋愛であっても爽やかに鮮やかに読むのが楽しい。

ジェルーシャの自立した生き方や、大学生活の生き生きとした描写で作者がしのばれ彩を添えていた。自然描写も生きていて深呼吸をしたくなるやはり面白かった。
 
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「西郷札 松本清張短編全集01」 光文社文庫

2021-06-20 | 読書

 

 

ずいぶん昔になってしまったけれど、松本清張を初めて読んだのは、カッパノヴェルズで、知り合いの家に大量に並んでいたので借りてきて、夢中になって読んだ。森村誠一の「白昼の死角」や高木彬光も並んでいた。
今でもおぼろな記憶があるので、この全集を見つけたので再読してみようと思った。全11巻、発表年代順に編まれているので楽しみだ。
少しずつ読んでいきたい。ネタバレ注意

*西郷札
新聞社で、九州の文化史展を開催するので資料を集めていると、「西郷札」が送られてきた。それには古い覚書が付いていた。薩軍が発行した紙幣だが、今では紙屑同然で価値のないものだった。だが「日向佐土原士族 樋村雄吾 誌す」と書かれた「覚書」は時を忘れて読んだ。

宮崎に近い佐土原の士族に生まれた雄吾は薩軍に加わって戦っていたが、彼は西郷札の発行を手掛けた。
薩軍は官軍に追われ、熊本から田原坂を超え日吉から宮崎についた時そこでついに軍資金が切れ、紙幣を発行した。高額紙幣を商人に押し付け物品と「釣り銭」を得ようとした。武器や食料をそれで賄うため裕福な商人を半ば脅すようにして札を押し付けた。
印刷関係者との縁で雄吾は印刷を手伝っていた。だが雄吾は官軍の総攻撃で負傷し追っ手を逃れて逃げ込んだ先で手厚い介抱を受けた。
故郷の家は戦火で無くなっていた。田畑を金に換えて東京に出た。
人力車夫になっていた時、一緒に育った血の繋がらない妹と再会する。岩崎弥太郎が貨幣統一の前に藩札を買い占めて補償回収で暴利を得たのを知り、雄吾も西郷札で一儲けしようと仲間とともに買い占めに行く。買い上げの噂の前で手に入るものではなかった。このうわさはどこから出たものだろう。売り渋る相手の言い値も値上がりしたが、手持ち金のあるだけで買い集めた。そして当てが外れ無一文になった。
美貌の妹は高級官吏に嫁いでいた、懐かしさに会いに行き二人の仲を夫が不審に思っていたのを知らなかった。雄吾は力の前には弱かった。

*くるま宿
無口で穏やかな吉兵衛という車夫がいた、気の荒い車夫たちは時々騒ぎを起こし大喧嘩になる。げんかが始まろうというとき割って入ったのは吉兵衛で一言で納めてしまった。

*或る「小倉日記」伝
鴎外に関する全集が出ることになったが、鴎外が三年間暮らした小倉時代に書いたと思われる日記が見つからない。編纂委員のKに田上耕作という男から手紙が来た。鴎外の小倉時代の足跡を探して記録しているという。すでに40年の歳月がながれている、困難な仕事になっただろう。鴎外が住んでいたということさえ小倉に人たちの記憶が薄れてきている今。
田上の母は美貌で有名だったが父親が政治運動家であったために縁談が纏まらず甥に嫁した。生まれた耕作は半身が不自由だった。奇妙な風貌で口は半分しか開かず開いた角は閉まらず言葉も分かりづらかった。だが頭脳は優秀でその明晰さはズバ抜けていた。ふじは喜んで全霊を傾けて世話をした。
耕作は鴎外の「独身」という一文の中にある伝令の鳴らすチリンチリンという鈴の音に聞き覚えがあった。耕作とその母が訪ね訪ねて鴎外の足跡を埋めていく様子が痛々しく、苦しく書き表されている。
日常のミステリを掘り起こした清張の名作。弱く恵まれまれない人たち、底辺に生きるひとの息吹を伝える作風が胸を打つ。芥川賞を受賞。

*火の記憶
頼子が好きになった相手の父は失踪していた。新婚旅行先で夫は子供時代の話をした。子供の頃石炭の仲買いをしていた父は商売に失敗して消えた。幼い頃から父の記憶がないが、母に手を引かれ男に会ったのをうっすらと覚えていた。どこか秘密めいた匂いがした。
母がなくなって一枚のはがきを見つけた。河田という男がなくなったという。調べて九州の炭鉱地帯まで訪ねてみた。遠い記憶にあった山の稜線が赤々と燃えている風景が目の前にあった。河田の素性とその想いに気着いたのは夫でなく兄だった。

*啾々吟
肥前性で同じ年月日に三人の男の子が生まれた、主君の嫡子、家老の長子慶一郎、軽輩御徒衆の子嘉門。十年後若殿の進講が始まり呼ばれた三人は身分を超えて親しくなった。嘉門は利発で若殿に講義を易しく説いて聞かせるほどだった。師が退いた後も教えを受けに通っていたが師は「どこか可愛げがない」といっていた。嘉門は家を継いだが栄進はできず身分はそのまま据え置かれて不満だった。嘉門が用いられないのは自分でもわかっていて慰めも受け付けなかった。慶一郎が許嫁の千恵の家を一緒に訪れた後、嘉門だけがたびたび訪ねていたこともあった。一人で来ないようにしてほしいと手紙が来た。千恵と結婚し順調に出世した。嘉門は行方がしれなかった。新政府に対して民権運動が盛んになったその先鋒の論客は嘉門らしかった。
嘉門が恵まれない生涯を終えたのは家門のせいだったかもしれない、またその鬱屈した思いが晴れなかったからかもしれない、そしてどこか狷介なところがある性格が災いしたのかもしれない。これを書いた清張の心のありかも推し量ってみた。

*戦国権謀
家康主従は帰国途中で、長く放浪の旅に出ていた本多正信に会った。家康は喜んだ。それからは正信を信頼して彼がいれば安心と信じ続けてきた。一方正信の重用を喜ばないものは落とされていった。
正信は恩人が改易され、より権勢を増した。大阪方が再挙したが和議がなった。家康は74歳になった。正信とは依然として肝胆相照らす老友だった。家康が亡くなった時正信も死を前にしていたが、家康に死を全身で嘆き悲しんだ。正信もなくなり後を息子の正純が継いだ。だが彼は驕慢でしくじり出羽の国に流配になった。横手の寂しい地に独り居りで暮らし72歳で亡くなった。

*白梅の香
津和野から江戸に出た兵馬は、芝居小屋が珍しく通い詰めていた。彼は美男で評判の役者に似ていた。役者の菊乃丞の代わりに呼ばれた女の所に一晩泊まった。そこには珍しい白梅の香が焚きしめられていた。翌朝すれ違った老人がその香にはっと足を止めた。
その香木は内々に久世家に送ったもので扱いは留守居役だった。久世家では受け取った覚えがないという、留守居役が妾に送ったらしい。それがもとで留守居役は切腹した。数日後、兵馬は津和野に帰る道を歩いていた、そして彼ははっと気づいたのだった。

*情死傍観
阿蘇山の河口から飛び込んで自殺する人は、それを見ていたひとの話から、見ただけで自殺者が判るという、そういう人は説得して自殺を思いとどまらせるのが普通だ、だが同じ女が二度来た。

救う老人を主人公にした小説を書いたら、読んだという当の女から手紙が来た。
二度の自殺を試みたが心中相手を死なせて生き残った有様が生々しい。
 
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