充実して忘れがたい短編集です、先行の「黄金を抱いて跳べ」を読んで、その後「マークスの山」「リヴィエラを撃て」と前後して読み、あまりの面白さに買ってきて積んでいたのを、本棚の整理で掘り出しました。
☆愁訴の花
田岡は定年後小さい警備会社で働いていた。上司だった須坂の命が危ないので見舞いに行くように連絡が来る。
そこに妻殺しで服役していた小谷が電話をしてきた。出所していたのか。
彼はなにかと噂のある女性と結婚して、警官の身にそぐわない家を買った。招かれて行ったことがあるが内装や家具は質素だった。六千万の家は半分が頭金だったらしい。これを奥さんが工面したという。どうやって。
夫婦はどうもうまくいってない様子だったが、妻が殺され小谷が捕まった。捜査中に行方不明になりその後自首したのだ。
調べが進むと奥さんは覚醒剤の販売をしていたらしい。殺された部屋にはリンドウが一枝活けられていた。田岡はその花が頭の隅に残った。
もう助からないだろう上司から呼ばれて一通の封書を預かった。その記録で上司の恩情とリンドウの花がつながった。
退職してやっと落ち着いた生活だったが、忘れがたい事件が蘇る。
リンドウにまつわる真相は心の底に葬られた。一人の警官と、死ぬまで胸に秘めた上司の心情が哀しい物語。
☆巡り逢う人びと
刑事だったが、今は金融会社で債権の回収をしている。借りたものは返すのが当然、彼は仕事と割り切っている。
課長からまだかまだかと嫌味を言われるがうまくかわしている。
行き詰った町工場に再三行き、居座ることもあるが、社長は行方不明だという。
若い工員が親し気に近づいてきて刑事時代にどんぶりを奢ってくれたねという、そんなこともあった。あの頃と同じカバンだね。
もう工場は追い詰められている。昔ぐれて陰のあった工員は明るい顔になり社長の穏やかさがうかがえた。
ふと仕事を変えようかと思う。
駅で高校時代の知り合いを見つけた。彼は顔色も悪く俯いたまま座っていた。声をかけると穏やかに親し気に笑いながら近づいてきた。
また彼にあった。電車で一日中往復しているようだ。
工員が頭を打って重傷だという。
不動産業者が例の債権回収は話が付いた、社長が帰ってきて白紙委任状に判を押したもう行かなくてもいいという。そんなに簡単になぜだろう。
現役時代、彼は恐喝事件で父親を逮捕した、残された家族が一家心中をした、仕事への精神的な苦痛を覚え、自ら退職したのだったが、民間に移っても、結局自分が似たような世界にいることに、密かに愕然とした。
債務者を締めあげている顔は刑事時代と一つだった。だが扱われかたが変わった。組事務所に行ってもお茶も出なくなった。
病院で出あった社長はあの電車の男だった。整理した残金は工員の補償金だと笑った。
自分の胸のうちで最後の自己弁護の糸が一本、切れる音を聞いた。矛盾と痛恨と怒りと、かすかな希望が折り重なった複雑怪奇な響きだった
人のいい社長に工員ともみ合ったことは言うなと固く口留めしたが、彼はただ笑った。
☆父が来た道
警視庁捜査二課にいた息子は父のつてで永田町の元高官の運転手をしている。今、収賄事件が大きなニュースになっている。しかし見ざる聞かざるの運転手兼ボディーガードの仕事ぶりは重宝されている。
父親は地方で政治にかかわっていた。買収などの嫌疑で実刑判決を受けたのは父親ひとりだった。
父の後を継がず警視庁に入ったが、父親の有罪が決まって依願退職をし、今の仕事についている。
自分は父親とは違う。
行きつけの店の気のいい女と生きて行こうか。
政治家の世界を書いて高村さんの筆は生き生きとして細やかだ。
☆地を這う虫
足元のコンクリートをゲジゲジが這っていた。
ゆっくりと蠕動運動をくりかえす虫の進路は、何を探しているのか、行きつ戻りつ遅々として定まらない。だが、自然の摂理で生きている虫に、自分の行先が分からないということはない以上こいつは本能に従って、こうして右へ左へと這いまわっているに違いなかった。虫なりの秩序もあるはずだ。
省三は習慣になっている動作で手帳を出し「ゲジゲジを見た」と書きつけた。
定年後ふたつの職場を掛け持ちして、碁盤の目のように整然と区画整理された住宅地を往復している。三分で自宅に着くところを時間をかけて毎日違う道を歩いている。300メートルを一辺とする正方形の中をジグザグに歩く。
もう家の並びも形も住む人の習慣まで頭に入っている。
そこで空き巣が頻発した。省三は住民から見れば変な人で警察の聴取を受けて気分を悪くした。
しかしいつも閉まっている小窓が開いている家があった。そこに空き巣が入ったという。次の空き巣も窓を開けたままだった。
もう抑えられない。夜を待って省三は窓が開いていた二階の部屋に忍び込んだ。そこで散弾銃で狙っている空き巣と遭遇。危機一髪のところで目的に思い当たる。
恐るべしこだわりの習慣と記憶術。
面白かった。
というよくできた短編だが、高村さんのほかの大長編作品を読んでいたら、このくらいの話は安心だと思った。
中でも「巡り逢う人びと」は余韻が残る、市井の人々の日々がもの悲しくも優しい。