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「鍵のかかった部屋」 ポール・オースター 柴田元幸訳 白水社

2016-06-18 | 読書


「突然の音楽」に続いて読んだが、これは初期の三部作の中の一冊で、発行順にいけば「ガラスの街」「幽霊たち」「鍵のかかった部屋」となるようだ。

順不同でも十分読み応えがあった。彼の作品は自分にあっているようで、抵抗無く世界の中に入っていける。
簡単に言えば今時の言葉で、自分探しの話になるだろうが、彼の思索は心の深い部分に下りていく。物語で変化するシーンを語る言葉の部分が特に興味深い。

作品ごとに舞台は変わっても、自分の中の自己というテーマが繰り返されて、そこには生きていく中にあるひとつのあり方を見つめ続けている。


その自己という言葉で一方の自分というもののどちらかを他者にした、今ある時間。
人生という長い時のなかの今という時間の中にあるのは、自己と他者を自覚したものが持つ深い孤独感と、それに気づいた戸惑いと、自分の中で自己というものの神秘な働きが、より孤独感を深めていくことについて、主人公とともに、時には混沌の中で疲れ、時には楽天的な時間の中で現在を放棄し、様々に生きる形を変えて語られている。

この時期のポール・オースターの、他社と共有できる部分を持つ自己と、他者の介入を許さない孤立した自己意識の間で揺れ動く「僕」と「親友だった彼」のよく似た感性と全く違った行動力に、それぞれの生き方を見つめていく、そんな作風に共感を覚える。


ぼくと彼ファンショーは隣同士で前庭の芝生に垣根が無く、親たちも親しいと言う環境でオムツの頃から一緒に離れずに育ってきた。だがそういったことが成長した今、遠い過去になり、お互いにニューヨークに住んでいたようだが連絡もしなくて疎遠になっていた。

突然、彼の妻から、ファンショーが失踪したと知らせが来る。
7年前だった。
訪ねていくと魅力的な妻は赤ん坊を抱いて、ファンショーがふっと消えた話をする。待ったがもう帰ってこないことを覚悟したとき、親友だったと言っていた僕を想い出して連絡をしてきた。

僕にとって、会わなくなったときは彼が死んだも同じだったが、今、生死が定かでない形で僕の前に再登場したのだ。
子供の頃から書いていた詩や評論や三作の小説を残して。
そして一応遺稿と呼ぶこれらの処理を任された。その後すぐ、突然来た彼からの便りで、「書くという病から回復した、原稿の処理や金は任せる、探すな見つけると殺す」という覚悟が知らされた。彼は失踪という形で出て行って、もう帰る意志はないことが分かった。

原稿を整理して見ると確かに才能があり、ツテで編集出版する。好評で本が売れ、生活が豊かになった。
カツカツの記者生活にも余裕が出来、彼の妻とは愛情が湧いて結婚した。自分の子供も生まれた。

しかし、彼の原稿を読みそれに没頭して過ごすうちに、彼と自分の境があいまいになることがあった。彼の世界は常に自分の背後にあって、同じ物書き(僕は記者だったが)であり、彼の才能は彼の失踪後に花開いたが彼はその恩恵を一切知らず、関係を絶ってしまった。
僕は、いつしか彼と自分のの境界が薄く透明になっていくことに気づいた。

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考えるという言葉はそもそも、考えていることを自分が意識している場合にのみ用いられる。僕はどうだろう。たしかにファンショーは僕の頭から一時も離れなかった。何ヶ月もの間、昼も夜も、彼は僕の中にいた。でもそのことは僕にはわからなかった。とすれば自分が考えていることを意識していなかったわけだから、これは「考えていた」とは言えないのではあるまいか?むしろ僕は憑かれていた、と言うべきかもしれない。悪霊のごときなにものかに僕は取りつかれ憑かれていたのだ。だが表面的にはそんな徴候は何一つなかった
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僕は自分と言うものを考えてみる。そして死んだと決まっていいないファンショーの手がかりを探して歩く。
ファンショーを探すことは彼から自分を解放するだろう。


作品は、多分にミステリだ。私は様々にファンショーの行き先(生き先)を推理しながら読んだ。僕の作り出した分身ではないだろうか。ファンショーはもう自分を見失った神経病患者ではないだろうか。

僕はついに家族を捨てファンショーに取り込まれてしまうのではないだろうか。

しかし作者はそんなやすやすと手の内を見せてくれなかった。

最後まで面白く好奇心も十分満足した作品だった。

コメント
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