ヴォネガット のユーモアとウイット、引用文についつい笑いを誘われるが、テーマは人類の進化である。
そこに着くまでに設定した百万年という時の流れは、大きな不安を孕んでいる。巨大化した脳は残酷さに寛容であり、心の痛みを転嫁し、過ちを進化と勘違いした。
西暦1986年、ヴォネガットの描く巨大脳を持つようになった人類の性が、本能に導かれて到達した環境といえば、反抗する隙もない、人間性という言葉の影もない、独自に進化を遂げた世界だった。どこか今に通じる現代世界の姿がかいま見える。煉りに煉られた物語で、その緻密さ巧みさは面白い、登場人物の狂気までも気の利いたジョーク交じりで進行していく。人々の狂っていく姿は喜劇的でさえある。
現実の1986年をググってみると、アメリカは世界の指導者を自認し、レーガンはリビアに経済制裁を加え、戦艦ミズーリを再就役、ソビエトではチェルノブイリ原子力発電所事故が起き、日本車はどんどん売れ、各社こぞって新モデルを発売していた。
作中、経済危機に瀕し、恐慌に陥る各国は次々に破綻していくが、富豪たちは強いドルと日本円を保有し経済的にはなんら影響がなかった。そして富豪の兄弟が広告宣伝も兼ねて、所有のホテルと豪華客船バイア・デ・ダーウィン号を使いガラパゴスの自然観察を目的に「世紀の大自然クルーズ」を計画する。
語り部は時を越えて人々を描写する。その実態は百万年前にベトナム戦争で死んだ兵士だが、彼は死後の世界に行かず、ガラパゴス行きの観光船に乗り組み、目に見えない姿で人々に付き従っていく。百万年後まで彼の語りは続き、人類がなぜ船に乗り、どうなっていったか、どんな形に進化をとげたか、彼の目を通して見ることになる。
まず初めて読む構成で、過去から現在を振り返る、結果を元に、クルーズに参加した人たちの運命を振り返り、その間に世界の変貌をみる。国際ブックフェアから人間の卵子を食う微生物が世界に広がっていった。さながらダビデとゴリアテの物語の繰り返しのように。人類はここで滅びようとしていた。
ストーリーは二部に分かれている。一部は船に乗るまでの人々の運命。旅の途中で亡くなった人は名前の前に*印をつけている。彼はもうすぐ船の出航を待たずに死ぬ、というように未来の出来事を語る部分が何度もある。このあたりヴォネガットの遊びだろうかという感じがする。
第一部 そのむかし
今から百万年前の西暦1986年、グアヤキルはエクアドルという南米の小さな民主国が持つ最大の貿易港だった。
人類の発達した巨大脳が生み出した結果は、産業の危機、経済の破綻、飢餓、常にどこかで戦争をしているという世界は末期状態になっていた。
そのころグアヤキルからガラパゴスに向けて「世紀の大自然クルーズ」の旅が計画された.
参加者には各国の著名人を招待していた、だが地球上は危機的状況になり通信も断絶してしまった。先にホテルに到着していた、アメリカ人4人と日本人夫婦だけになる。偶然、グアヤキルの奥地、熱帯雨林の民であった、カンカ・ボノ族の飢えた少女たちが乗り込んできたことで、百万年後の人種の子孫は大きな影響を受ける。
招待客にキッシンジャー、ピカソ、ジャクリーン・オナシスやヌレエフ、ミックジャガーなどの名前があるのも愛嬌か。国務省が警告を発し、彼らは船に乗ることは出来なかったが。
第二部 そして、それから
百万年後、ガラパゴスの白い砂浜、青い礁湖、そこに人類はたどり着いている。
語り部の過去と現在も明かされる。
ここでヴォネガット の夢は、美しい穏やかな世界であることが分かる。
紆余曲折を経てガラパゴスに着いた人たちが、ひとりの女性の特殊な生殖技術で、新しい種が生まれ、島に生存していた生き物たちと共生していくのに適した形にしだいに変化する。人類の体の形は、食料を得るためにだけ適したものなり、もちろんその形では脳はごく小さなものでなくてはならず、両手はひれの形になって海の中でも陸でもお穏やかに静かに暮らしていけるようになっていく。
1986年からまた時が過ぎ2016年末にこの本を読んだ私。ヴォネガットの世界より今の人類は脳の形は小さいかもしれない、地球は災厄をこうむっているかもしれないが、テクノロジーの進歩は人類にとって災厄だけでなく人類を生かすことも含まれ、貢献しているのではないだろうか。楽観的過ぎるのは危険だとヴォネガットは言うだろう。
SFといえばスパースオペラと思うような初心者からすればSFらしくない世界だったが、人の狂気と底知れない欲望がむき出しになった巨大脳の作り出すものは、宗教や社会常識を超えたものに変わる恐れがある。そこここに展開する人々の運命が、わが身にいつ起きるかもしれないと感じさせるような力のある興味深い作品だった。