第125回芥川賞受賞作
中陰とはこの世とあの世の中間 と表紙にある。聞き慣れない言葉を解釈したものか。
則道は禅宗の僧侶で 圭子と結婚して6年目になる。子供はいない。一度妊娠したが4週目で流産をした。圭子は今でも少し拘っている。
則道は檀家の行事・葬式や法事を行っていて説法もする。だが大阪の町から来た圭子は仏教に縁がなく育っているので、何かにつけて教えて欲しいと言う。だが、則道はそれに明確な答えをすることが出来ない。
科学が進んだ現代、釈迦の教えを科学的な現象に置き換えて話すことをする。
知り合いで檀家のウメさんはおがみやと呼ばれていて相談者は信者と言うことになっている。
ウメさんが入院して死期を予言した。病院側は総力を挙げて予言どおりには死なないようにと、頑張った。ウメさんは死ななかったが、二度目の予言をして、そのとおり亡くなった。
圭子は地獄や極楽について聞く。
「知らん」
「知らんて、和尚さんやろ。どない言うてはんの、檀家さんに」
「そりゃ、相手しだいや」
「せやけど訊かれるやろ、極楽はあるか、ないかって」
「だがら、相手次第や。信じれば、あるんや。信じなければない」
「そしたら別な訊き方するわ。人は死んだらどうなんの」
「知らん。死んだことない」
則道は、そういいながら、圭子とともに釈迦の教えを現代に置き換えて感じるようになる。
ウメさんの生きかたを近くで見て、予言どおり亡くなった今、信者の生きかた、圭子の感じ方。夫婦の歩みの中に深く沈んでいるなくした子供のこと。則道は圭子の心に寄り添っていく。圭子は作り続けていた膨大な数の紙縒りを網にし、則道はウメさんとなくした子供の回向の経をよむ。かれは天井から釣り下がったこよりの網を通してなにかの気配を感じる。
包装紙の色とりどりにこよられた網は花のようだった。
「成仏やなぁ」
「だれの」
「だれやしらんけど」
僧侶の作者が書いた言葉が浸みることがある。仏教が則道のように通過行事である日常では、彼が感じた日常が意味なく通り過ぎていく。
則道のいう「なんやしらんけど」すこしだけ生きること死ぬことの意味を考えさせてくれる。
則道が言う、「仏」は「ほどける」からきている。という。
この部分を読めば仏教や釈迦の教えに縁のない者にも、わずかに救われる気持がする。
僧侶だと言う人の書いたこの小説はどういうものかと思っていたが、秋の季節の静かさを増すような、しみじみとした余韻が残った。
ほのぼのとした語り口で死生観の一面を見せてくれる。僧侶というよりは一人の人として、その底辺を作っている禅宗という根底の思想の一片を、知ることが出来る。
それぞれの生き方の中にある中陰という言葉の意味も知ることが出来た
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