この「私」シリーズでは推理作家協会賞を受けた「夜の蝉」の評判がいい。姉妹の心のふれあいが感動的だし《私》の周りの人たちも生き生きと魅力的だ。
それでもこの「六の宮の姫君」が一押しだと感じた。多分読み方の姿勢がちょっと変わってきたからだろう。
《私》は出版社でアルバイトを始めていて、4年生になって「芥川」についての卒論に本腰を入れ始めた。
切っ掛けは、芥川が「あれは玉突きだね。……いや、キャッチボールだ」と芥川は言ったという。
素材になった「今昔物語」を読んで今風のその言葉は謎だった。
《私》はそれが気になった。その疑問を解くため円紫師匠に相談し、全集を出すことになった現在の文壇の長老と知り合い話を聞く、そして古書店で評論や、芥川の周辺に人物の生活を知り芥川の日常を推理する。芥川が「六の宮の姫君」を書く切っ掛けを探す。
《私》のこのあたりの話は、実際に北村さんが書こうとした卒論の体験だそうだ。だから当時のそうそうたる文豪の作品や交流について詳しい。関係のある作品についても語っている。
特に「往生絵巻」が興味深い、悪事を尽くした五位の入道が、阿弥陀様を慕って「阿弥陀仏をや おおい、おおい」と叫びながら西に進み、ついに松の枯れ枝の上で死ね」それを芥川が書き、死人の口に白蓮華が咲いたとした、それを正宗白鳥はありえないという感想を書いた。それに芥川は手紙を書いたが、白鳥は譲らなかった。
《私》は芥川は遊びだったかもしれないが白蓮華が咲くと信じたい人だったと思う、がその小説についての吉田精一、宮本顕治の意見を紹介している部分は読みごたえがある。
「姫君」については、芥川が「私の英雄」と慕っていた菊池寛が「首縊り上人」を書いた。菊池は手を切られても足を切られても生に固執する三浦右衛門の最後をかいた。それが人というものだと。
芥川のは自分が創造した五位の入道の最後を菊池は、心のうちの美しいものを足蹴にしたと思った。そして「六の宮の姫君」を書いた。狂った姫は死にぎわに仏の名を呼ぶことさえ出来なかったという話だった。「上人」の話は芥川の表の顔「姫君」は裏の顔だった。
そして菊池と芥川は次第に疎遠になっていった。
菊池寛についても、文藝春秋創設当時から直木三十五とのつながりで、芥川賞、直木賞を作ろうと菊池寛が言うところもある。
今、文豪と呼ばれる 谷崎、川端、佐藤春夫、萩原朔太郎、」山本有三、志賀直哉などなど。多くの人たちが芥川とかかわり、死後も当時の様子を書き残している。《私》の調べる道筋に同行して推理するのは面白かった。
小説や評伝など参考資料にしたとある書名だけでも、読み甲斐があったと思う。
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