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「西郷札 松本清張短編全集01」 光文社文庫

2021-06-20 | 読書

 

 

ずいぶん昔になってしまったけれど、松本清張を初めて読んだのは、カッパノヴェルズで、知り合いの家に大量に並んでいたので借りてきて、夢中になって読んだ。森村誠一の「白昼の死角」や高木彬光も並んでいた。
今でもおぼろな記憶があるので、この全集を見つけたので再読してみようと思った。全11巻、発表年代順に編まれているので楽しみだ。
少しずつ読んでいきたい。ネタバレ注意

*西郷札
新聞社で、九州の文化史展を開催するので資料を集めていると、「西郷札」が送られてきた。それには古い覚書が付いていた。薩軍が発行した紙幣だが、今では紙屑同然で価値のないものだった。だが「日向佐土原士族 樋村雄吾 誌す」と書かれた「覚書」は時を忘れて読んだ。

宮崎に近い佐土原の士族に生まれた雄吾は薩軍に加わって戦っていたが、彼は西郷札の発行を手掛けた。
薩軍は官軍に追われ、熊本から田原坂を超え日吉から宮崎についた時そこでついに軍資金が切れ、紙幣を発行した。高額紙幣を商人に押し付け物品と「釣り銭」を得ようとした。武器や食料をそれで賄うため裕福な商人を半ば脅すようにして札を押し付けた。
印刷関係者との縁で雄吾は印刷を手伝っていた。だが雄吾は官軍の総攻撃で負傷し追っ手を逃れて逃げ込んだ先で手厚い介抱を受けた。
故郷の家は戦火で無くなっていた。田畑を金に換えて東京に出た。
人力車夫になっていた時、一緒に育った血の繋がらない妹と再会する。岩崎弥太郎が貨幣統一の前に藩札を買い占めて補償回収で暴利を得たのを知り、雄吾も西郷札で一儲けしようと仲間とともに買い占めに行く。買い上げの噂の前で手に入るものではなかった。このうわさはどこから出たものだろう。売り渋る相手の言い値も値上がりしたが、手持ち金のあるだけで買い集めた。そして当てが外れ無一文になった。
美貌の妹は高級官吏に嫁いでいた、懐かしさに会いに行き二人の仲を夫が不審に思っていたのを知らなかった。雄吾は力の前には弱かった。

*くるま宿
無口で穏やかな吉兵衛という車夫がいた、気の荒い車夫たちは時々騒ぎを起こし大喧嘩になる。げんかが始まろうというとき割って入ったのは吉兵衛で一言で納めてしまった。

*或る「小倉日記」伝
鴎外に関する全集が出ることになったが、鴎外が三年間暮らした小倉時代に書いたと思われる日記が見つからない。編纂委員のKに田上耕作という男から手紙が来た。鴎外の小倉時代の足跡を探して記録しているという。すでに40年の歳月がながれている、困難な仕事になっただろう。鴎外が住んでいたということさえ小倉に人たちの記憶が薄れてきている今。
田上の母は美貌で有名だったが父親が政治運動家であったために縁談が纏まらず甥に嫁した。生まれた耕作は半身が不自由だった。奇妙な風貌で口は半分しか開かず開いた角は閉まらず言葉も分かりづらかった。だが頭脳は優秀でその明晰さはズバ抜けていた。ふじは喜んで全霊を傾けて世話をした。
耕作は鴎外の「独身」という一文の中にある伝令の鳴らすチリンチリンという鈴の音に聞き覚えがあった。耕作とその母が訪ね訪ねて鴎外の足跡を埋めていく様子が痛々しく、苦しく書き表されている。
日常のミステリを掘り起こした清張の名作。弱く恵まれまれない人たち、底辺に生きるひとの息吹を伝える作風が胸を打つ。芥川賞を受賞。

*火の記憶
頼子が好きになった相手の父は失踪していた。新婚旅行先で夫は子供時代の話をした。子供の頃石炭の仲買いをしていた父は商売に失敗して消えた。幼い頃から父の記憶がないが、母に手を引かれ男に会ったのをうっすらと覚えていた。どこか秘密めいた匂いがした。
母がなくなって一枚のはがきを見つけた。河田という男がなくなったという。調べて九州の炭鉱地帯まで訪ねてみた。遠い記憶にあった山の稜線が赤々と燃えている風景が目の前にあった。河田の素性とその想いに気着いたのは夫でなく兄だった。

*啾々吟
肥前性で同じ年月日に三人の男の子が生まれた、主君の嫡子、家老の長子慶一郎、軽輩御徒衆の子嘉門。十年後若殿の進講が始まり呼ばれた三人は身分を超えて親しくなった。嘉門は利発で若殿に講義を易しく説いて聞かせるほどだった。師が退いた後も教えを受けに通っていたが師は「どこか可愛げがない」といっていた。嘉門は家を継いだが栄進はできず身分はそのまま据え置かれて不満だった。嘉門が用いられないのは自分でもわかっていて慰めも受け付けなかった。慶一郎が許嫁の千恵の家を一緒に訪れた後、嘉門だけがたびたび訪ねていたこともあった。一人で来ないようにしてほしいと手紙が来た。千恵と結婚し順調に出世した。嘉門は行方がしれなかった。新政府に対して民権運動が盛んになったその先鋒の論客は嘉門らしかった。
嘉門が恵まれない生涯を終えたのは家門のせいだったかもしれない、またその鬱屈した思いが晴れなかったからかもしれない、そしてどこか狷介なところがある性格が災いしたのかもしれない。これを書いた清張の心のありかも推し量ってみた。

*戦国権謀
家康主従は帰国途中で、長く放浪の旅に出ていた本多正信に会った。家康は喜んだ。それからは正信を信頼して彼がいれば安心と信じ続けてきた。一方正信の重用を喜ばないものは落とされていった。
正信は恩人が改易され、より権勢を増した。大阪方が再挙したが和議がなった。家康は74歳になった。正信とは依然として肝胆相照らす老友だった。家康が亡くなった時正信も死を前にしていたが、家康に死を全身で嘆き悲しんだ。正信もなくなり後を息子の正純が継いだ。だが彼は驕慢でしくじり出羽の国に流配になった。横手の寂しい地に独り居りで暮らし72歳で亡くなった。

*白梅の香
津和野から江戸に出た兵馬は、芝居小屋が珍しく通い詰めていた。彼は美男で評判の役者に似ていた。役者の菊乃丞の代わりに呼ばれた女の所に一晩泊まった。そこには珍しい白梅の香が焚きしめられていた。翌朝すれ違った老人がその香にはっと足を止めた。
その香木は内々に久世家に送ったもので扱いは留守居役だった。久世家では受け取った覚えがないという、留守居役が妾に送ったらしい。それがもとで留守居役は切腹した。数日後、兵馬は津和野に帰る道を歩いていた、そして彼ははっと気づいたのだった。

*情死傍観
阿蘇山の河口から飛び込んで自殺する人は、それを見ていたひとの話から、見ただけで自殺者が判るという、そういう人は説得して自殺を思いとどまらせるのが普通だ、だが同じ女が二度来た。

救う老人を主人公にした小説を書いたら、読んだという当の女から手紙が来た。
二度の自殺を試みたが心中相手を死なせて生き残った有様が生々しい。
 

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