marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(232回目)ローマ人への手紙(11章33節~36節)

2017-01-10 07:41:46 | 日記
 聖書を僕らが自分の言葉で読む前に、だいたいからにして具体的にこの地上に、不完全な人間の地上の生き物としてのイスラエルの歴史などが関与しているというパウロの論説は、僕ら異邦人は実のところ、初めて接する人などはピンと来ないのではないだろうか。
◆聖書はまさに聖書であるからにして、聖(神は聖なれば汝らも聖なれ、潔くあれ)なのであるし、その言わんとするところは分かるけれども、そこに、不完全な人間のしかも、僕らの前一世代、二世代が体験した世界大戦における大変な中においても彼らの悲惨な歴史は、僕らが知っているのだが、不条理極まりないところがあるように読み取れる旧約聖書の中においても、その歴史が先理解として必要だなどとは、どうしてもというか、まともに食らいつこうとすれば苦い思いばかりが読み取れてしまって、それは異邦人の僕らが慕い求めている神とは違うのではないかなと思う人がほとんどでなのではないだろうか。
◆それに、第一、ローマ人への手紙のパウロが力説する”この奥義”なるものは、どうも後出しじゃんけんで旧約聖書を引用し、後出しじゃんけんで理屈を付けただけではないのかと、おそれおおくも述べる人がいないともかぎらない。とすれば、そもそもどうなのか。特に旧約聖書の預言にしても、その書かれた時代を調べれば事後預言ではないか・・・と。つまり、だから聖書の学びの現実は学問の上では、ほどほどにした方いいですよ・・・と。しかし・・・だ。
◇だからといって、今のこのときの命とはなんだとか、人はいかに生きるべきとか、つきない生き方のノウハウ本が消えないのはなぜか、とか人のつきあい、心理学とかその他 諸々があるのはなにかということなのである。悩みなしの人間もいずれ必然的にあの世に行くし、この地上にある自分の命とはなんなのか・・・である。戦争はなぜ止まないのか。人殺しがどうしてあるのか、犯罪も止まないのか・・・。将来はどうなるのか、核廃棄物が地上にたまり、この地上以外に僕らは生命を生き延びさせていけるのだろうか・・・etc。
◆それだからこそである。神は彼らに「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによって私の力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」(9:17)と言われているのではなかろうか。この言葉は、エジプト脱出の時、それを阻止しようとしたエジプト王を立てたのは、神である自分であると述べた言葉であるが、我々にとってはユダヤ人に対してもそのように言えるのではないか。
つまり、こうだ。試練に会うにも現実のこイスラエル人(ユダヤ人)が地上で事実として起こり、体験したこと、そして今も、それは私が存在し、私の名前が世界に広められるためなのであるということになるだろう。
◆だから少なくとも、キリスト教の神は、観念的な言葉だけではなく、実際に現実を変えていく力なのであるということである。
それは、今も働いているということなのです。そして、その思いがとぎれてしまうのであればとぎれないように旧約の彼らの苦い体験を読め、戦争の悲惨な体験を思えということになるのだろう。パウロがこの奥義は神の啓示によるとした、彼自身が彼の言葉で受け取った論説は、天地創造以前のパラダイスへの帰還、回復にあるのだ。この永遠の命、パウロの基点は決して揺らいではいない。
◆(11:36)「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(231回目)ローマ人への手紙 知ってほしい奥義(11章25節~32節)

2017-01-09 13:34:14 | 日記
僕の希望、当然ながらパウロのいつの時代の今の人々に訴え、信じてもらいたい事柄は一つです。
◆パウロさんの神学論文というように読み取れるローマ人への手紙第11章(内容からいいますと9章からの一連での読みが必要ですね)は、異邦人にとっては、(当のユダヤ人の人たちにとっても)あまり人気がないかもしれない。人気云々というような言い方は良くないかもしれない、なぜといってそれは、神様の摂理(パウロは奥義)といっているから。僕ら地上にいる不完全な人間には、「そうでございますか」とそのまま受け取ること以外にない、謙虚に、実に誠実に! ここにきて、パウロは今まで13節から「あなたがた異邦人たちよ」に対して「兄弟たちよ」と再び先祖伝来の神の言われ、しきたり、つまり律法を体にしみ込ませてきたであろうと考えている、つまりパウロと少なくとも知識の上では同じ先理解のある人々、同胞に対して論理展開の究極点たる結論を述べています。
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(11:25)兄弟たちよ。あなた方が知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人(ひと)がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
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◆ここにきて、パウロは”神の奥義”を知らないでいてもらいたくないと言う。
(僕も何冊か聖書を持っているが、当初のここのところは、読むには読んだが線などがほとんどひかれていない。聖書を読み始めると、本当に世界の今までの歴史というのを学ばねばいけないかと思わされるのだ。そうすると不思議なことに今の時代が理解されてくるように思われる。
◆聖書が面白くなくなたたら、”パウロの言いたいことは一つである事”を考え彼の書いた他の手紙も是非同時に読まれたし。パウロは他の手紙(書いた場所、あて先は異なれどパウロが異邦人の使徒として訴えたいことは一つなのである)で次のような言葉を残している。
実は、これが2017年の年が明けた今もこの時もパウロがひとりひとりに語りかけていることなのだ。そして、イエスが再び地上に迎えに来られるまでこのことは宣(の)べ伝えられ続けていくことであろうと思います。パウロは、その奥義は神からの啓示により知らされたと言っている。
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エペソ人への手紙第3章1節から6節
(3:1)あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているパウロ----
(3:2)わたしがあなたがたのために神から賜った恵の務について、あなたがたは確かに聞いたであろう。
(3:3)すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義を知らされたのである
(3:4)あなたがたはそれを読めばキリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる
(3:5)この奥義は、いまは、御霊(みたま)によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。
(3:6)それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。
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世界のベストセラーを読む(230回目)ローマ人への手紙(11章13節~24節)

2017-01-07 19:50:58 | 日記
パウロさんのローマ人の手紙の究極の論点が第11章に書かれていると僕は思うと書いた。というのは、次の第12章に入ると再び、兄弟たちよという呼びかけになり、それまでの論点からそれまで信仰を説いてきた切実な内容から、具体的に理解され満たされた、それまでの説得を受領したと理解する兄弟たちへの実生活での勧めが書かれているからである。
◆さて、その前のその11章なのであるが13節に来てその究極の論点のパウロの論点の展開のここにしか見られない神の奥義としての論理展開をしていく。「そこでわたしは、あなた方異邦人に言う。わたし自身は異邦人の使徒なのであるから、わたしの務めを光栄とし、どうにかしてわたしの骨肉を奮起させ、彼らの幾人かを救おうと願っている。」(11:13-14)から始まり、ここからは、比喩として園芸でも樹木の接ぎ木の話をしていくのであるが、これはここだけ切り取ってもわかり易い。そこでパウロは(11:14)同胞ユダヤ人の幾人かでも救おうと思っているとパウロは言う。
◆天地創造の神の摂理は、次のようだ。神は自分の選民にその摂理の体現をさせる。そして、不条理にも、しかしまた、その内面を神ご自身の内なる思いを遂げさせるため、不信心というかたくなさに閉じこめられた。それは、そのことにより異邦人を救わんがためであった。
幾人かのユダ人が真に悔い改めて信じるならば、それは本望である。まさに死人からの復活であると。その本来の源に帰ってきたのだから。
◆彼らの離反(枝が切り取られてたこと)が異邦人は、それに反して神の恩恵にあずかっている恵み(信仰を持ち接ぎ木されて恩恵を受けている)を誇らず、その潔い根が支えていることを常に思いなさい。神の選民族の究極の救いの願いは変わらず普遍なのだから。その根を神は惜しまれているのであるから。惜しまれないとすれば、接ぎ木されたあなた方異邦人はなおさら惜しまれることはないだろうと。
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(11:22)神の慈愛と峻厳(しゅんげん)とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もし(異邦人である)あなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切り取られるであろう。
(11:23)しかし、彼ら(不信仰となったイスラエル)も不信仰を続けなければ、つがれるであろう。神には彼らを再びつぐ力がある。
(11:24)なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。
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◆僕はここで、サマリアの女に言ったイエスの言葉を思いだす。(ヨハネによる福音書第4章21-23節)
(4:21)イエスは女に言われた。「女よ、私の言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(4:22)あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っている方を礼拝している。救いはユダヤ人から来るからである。(4:23)しかし、まことの礼拝する者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今来ている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
◇今回、ここまで読まれた方、まさに 今でしょ! あなたはパラダイスの招待に遠くありません。・・・  



世界のベストセラーを読む(229回目)ローマ人への手紙(11章1節~12節)

2017-01-07 10:17:44 | 日記
第11章に入ると異邦人である僕らはなおさら理解に困難な文章に出会う。しかし、ここには異邦人伝道を使命されたパウロの究極とも言える論理展開がなされています。実はパウロの論理展開の究極の頂点とも読めるところです。
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◆天地創造来からの先理解のある内容について、さらにはその神の言葉について言われてきて、先祖がそのことに生きも、死にもしてきた神の言葉に対してであるが、神につき熱心なのは深い知識が必要であるといい、そを求めれば、キリストの言葉に達すると結論的にはそうなるのです。時代は動き今や被造物としての全人類の救済(パラダイスへの帰還)を迎えつつある、そして、イエスが来られその人類の(万物の)救済は今や始まった。人が永遠に神と共に生きるか、または永遠の滅びかのスタートラインに立った(永遠の命を終着とすれば、終わりの始まりが起こったということになります)ということです。
◇「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉からくる」(10;17)しかし、ユダヤ人たちはそれを信ぜず、イエスを十字架に付けた。古来、ユダヤ人は大切に守り抜いてきた聖書の中にそれが書かれているにも関わらず・・・深い知識があれば・・・とパウロは嘆く。そういう途方も長く、深い、歴史の中で神の言葉は、人の手中に入ってしまうものではないこと(われわれ人間は弱い者だから神の名前で自分の殻を作り楯を作り身構えてよしとする、いつの時代も、今も)をどう考えたらいいのだろう。
◆パウロは、よみがえったイエスから声を掛けられ、異邦人伝道のため、全世界に天地を創造し、また再び、あの神のもとのパラダイスに帰還するためにいかばかり苦しまねばならないかを示そうと言い渡された。パウロは何も怖いものはなかった、自分の死までも。ただ、自分の異邦人への伝道が、本来の神の選民たるユダヤ人すべてに理解されない苦しみを訴える。そして、更に深い知識をもてば理解できるのだと聖書を用いて、神の摂理(計画)を切々と訴えるのである。
◆(11:1)(11:11)「断じてそうではない」。兄弟たちよ、分かって欲しい。理解して欲しいと。あの天地創造以前のパラダイスへの帰還、そのために地上で、イスラエル人、その神に愛されしその根っこにあたる選民族よ、理解して欲しいと。
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(11:11)そこで、わたしは問う、彼らがつまづいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪科によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
(11:12)しかしもし、彼らの罪科が世の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにか素晴らしいことであろう。・・・ 


世界のベストセラーを読む(228回目)ローマ人への手紙(10章14節~21節)

2017-01-05 20:15:12 | 日記
パウロは第10章で、僕ら、いつの時代も、そのイエスの言葉に触れるには深い知識を求めるならば、神の義を知ることができるであろうしそれは、キリストはすべて信じる者に義を得させるために律法の終わりと成られたことが分かるであろうと、煎じ詰めれば1節から4節までそう述べている訳です。そして、宣(の)べつたえているのは信仰の言葉であるという。口でイエスは主であると告白すること、心で神が死人の中からイエスをよみがえらせた信じること。この2点が救われる条件であるパウロは教えている訳です。しかし、そこまで来るには個々人に与えられた課題に対するイエスからの教えという深い知識が必要であろうということでしょうけれど、それは、イエスを受け入れて、自分の言葉で彼と語りつつ(祈りつつ)歩むということが必要であるかもしれません。
◆ここで注意が必要かと思います。心で信じるということですが、それは誰か他の時とがお膳立ての上に安住することではないと思います。イエスが、自分の足で立ちなさいと足がなえた人に語られ、その人が歩み出したように。自分の足で立たなくてはならないのです。それは、どこまで行っても最後は自分の言葉でイエスと語らなければいけません。それが「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」(10:8)と語られていることなのだと思います。杓子定規に書かれた文字、信条、教義などというものは、他の人の総括的な言葉なのであって、教派分裂のもとなのですが、それに例え属していたとしても最後は、あなたがイエスと対話するその言葉にあるのです、ということを忘れてはいけない。普段着姿のあなたに語るイエスが、あなたの側にあるのです。その言葉はあなたの口にあり、心にあるのですから、となりますね。
◆さて、14節は、先祖伝来の聖書(旧約)に、未来の預言として救い主(つまりキリストの到来)が預言されていたとしても、現に書かれてあることが、しかりその方がそうだと言い伝える人がいなければどうして聞くことができるのか、さらにつかわされなくてはどうして宣(の)べつたえることがあろうかと。16節にイザヤの言葉を引用している。これは本来、文の流れとしては17節の後に来る内容のように思われる。14節:宣(の)べ伝える。そして聞く、それは17節:信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。それから、16節:すべての人が聞き従ったのではない、とイザヤの言葉を引用し、18節:彼らには聞こえなかったのであろうか。という流れにした方が、理解しやすいと思われる。
◆いずれ、ここで、パウロが10章に入り、兄弟たちに”深い知識”を求めた後に、このようにパウロ自身、聖書の言葉の引用を、多数用いていることを考えれば、深い理解とは、聖書(旧約)の神のみ言葉を深く理解しその意味を熟慮すれば、それは当時のユダヤ人でさえ追求されない聖書の言葉を受け身での行為として守ることのみに終始して、本来の意味が文字としてのみであり、生きて働く神が、詩人を通して、預言者を通してモーセをとおして言おうとしている内容の深い意味にまで理解されていないとパウロは訴えたかったのだろうと理解されるのです。自分のように自らの言葉で理解することを求めたのであると。
◇ここで、パウロが引用している旧約聖書の言葉は、その箇所においては本来、パウロが使用したような意味とは別のものであるが、ここで大胆にパウロはそれらの言葉を自分の言葉の理解のもとに採用して語っているのである。・・・