聖書を僕らが自分の言葉で読む前に、だいたいからにして具体的にこの地上に、不完全な人間の地上の生き物としてのイスラエルの歴史などが関与しているというパウロの論説は、僕ら異邦人は実のところ、初めて接する人などはピンと来ないのではないだろうか。
◆聖書はまさに聖書であるからにして、聖(神は聖なれば汝らも聖なれ、潔くあれ)なのであるし、その言わんとするところは分かるけれども、そこに、不完全な人間のしかも、僕らの前一世代、二世代が体験した世界大戦における大変な中においても彼らの悲惨な歴史は、僕らが知っているのだが、不条理極まりないところがあるように読み取れる旧約聖書の中においても、その歴史が先理解として必要だなどとは、どうしてもというか、まともに食らいつこうとすれば苦い思いばかりが読み取れてしまって、それは異邦人の僕らが慕い求めている神とは違うのではないかなと思う人がほとんどでなのではないだろうか。
◆それに、第一、ローマ人への手紙のパウロが力説する”この奥義”なるものは、どうも後出しじゃんけんで旧約聖書を引用し、後出しじゃんけんで理屈を付けただけではないのかと、おそれおおくも述べる人がいないともかぎらない。とすれば、そもそもどうなのか。特に旧約聖書の預言にしても、その書かれた時代を調べれば事後預言ではないか・・・と。つまり、だから聖書の学びの現実は学問の上では、ほどほどにした方いいですよ・・・と。しかし・・・だ。
◇だからといって、今のこのときの命とはなんだとか、人はいかに生きるべきとか、つきない生き方のノウハウ本が消えないのはなぜか、とか人のつきあい、心理学とかその他 諸々があるのはなにかということなのである。悩みなしの人間もいずれ必然的にあの世に行くし、この地上にある自分の命とはなんなのか・・・である。戦争はなぜ止まないのか。人殺しがどうしてあるのか、犯罪も止まないのか・・・。将来はどうなるのか、核廃棄物が地上にたまり、この地上以外に僕らは生命を生き延びさせていけるのだろうか・・・etc。
◆それだからこそである。神は彼らに「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによって私の力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」(9:17)と言われているのではなかろうか。この言葉は、エジプト脱出の時、それを阻止しようとしたエジプト王を立てたのは、神である自分であると述べた言葉であるが、我々にとってはユダヤ人に対してもそのように言えるのではないか。
つまり、こうだ。試練に会うにも現実のこイスラエル人(ユダヤ人)が地上で事実として起こり、体験したこと、そして今も、それは私が存在し、私の名前が世界に広められるためなのであるということになるだろう。
◆だから少なくとも、キリスト教の神は、観念的な言葉だけではなく、実際に現実を変えていく力なのであるということである。
それは、今も働いているということなのです。そして、その思いがとぎれてしまうのであればとぎれないように旧約の彼らの苦い体験を読め、戦争の悲惨な体験を思えということになるのだろう。パウロがこの奥義は神の啓示によるとした、彼自身が彼の言葉で受け取った論説は、天地創造以前のパラダイスへの帰還、回復にあるのだ。この永遠の命、パウロの基点は決して揺らいではいない。
◆(11:36)「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。・・・Ω
◆聖書はまさに聖書であるからにして、聖(神は聖なれば汝らも聖なれ、潔くあれ)なのであるし、その言わんとするところは分かるけれども、そこに、不完全な人間のしかも、僕らの前一世代、二世代が体験した世界大戦における大変な中においても彼らの悲惨な歴史は、僕らが知っているのだが、不条理極まりないところがあるように読み取れる旧約聖書の中においても、その歴史が先理解として必要だなどとは、どうしてもというか、まともに食らいつこうとすれば苦い思いばかりが読み取れてしまって、それは異邦人の僕らが慕い求めている神とは違うのではないかなと思う人がほとんどでなのではないだろうか。
◆それに、第一、ローマ人への手紙のパウロが力説する”この奥義”なるものは、どうも後出しじゃんけんで旧約聖書を引用し、後出しじゃんけんで理屈を付けただけではないのかと、おそれおおくも述べる人がいないともかぎらない。とすれば、そもそもどうなのか。特に旧約聖書の預言にしても、その書かれた時代を調べれば事後預言ではないか・・・と。つまり、だから聖書の学びの現実は学問の上では、ほどほどにした方いいですよ・・・と。しかし・・・だ。
◇だからといって、今のこのときの命とはなんだとか、人はいかに生きるべきとか、つきない生き方のノウハウ本が消えないのはなぜか、とか人のつきあい、心理学とかその他 諸々があるのはなにかということなのである。悩みなしの人間もいずれ必然的にあの世に行くし、この地上にある自分の命とはなんなのか・・・である。戦争はなぜ止まないのか。人殺しがどうしてあるのか、犯罪も止まないのか・・・。将来はどうなるのか、核廃棄物が地上にたまり、この地上以外に僕らは生命を生き延びさせていけるのだろうか・・・etc。
◆それだからこそである。神は彼らに「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによって私の力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」(9:17)と言われているのではなかろうか。この言葉は、エジプト脱出の時、それを阻止しようとしたエジプト王を立てたのは、神である自分であると述べた言葉であるが、我々にとってはユダヤ人に対してもそのように言えるのではないか。
つまり、こうだ。試練に会うにも現実のこイスラエル人(ユダヤ人)が地上で事実として起こり、体験したこと、そして今も、それは私が存在し、私の名前が世界に広められるためなのであるということになるだろう。
◆だから少なくとも、キリスト教の神は、観念的な言葉だけではなく、実際に現実を変えていく力なのであるということである。
それは、今も働いているということなのです。そして、その思いがとぎれてしまうのであればとぎれないように旧約の彼らの苦い体験を読め、戦争の悲惨な体験を思えということになるのだろう。パウロがこの奥義は神の啓示によるとした、彼自身が彼の言葉で受け取った論説は、天地創造以前のパラダイスへの帰還、回復にあるのだ。この永遠の命、パウロの基点は決して揺らいではいない。
◆(11:36)「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アァメン。・・・Ω
