marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(237回目)脱線 ローマ人へ20の質問(Ⅱ)塩野七生 

2017-01-15 18:14:33 | 日記
パウロは、どういう世界情勢の時の、どういう社会状況に住んでいる人々に手紙を書いたのだろうか。第12章に入り、普遍的な内容で具体的な実践倫理ごときを書き始めたのはどういう人々に訴えかけたかったからなのだろう。当時のローマの宗教性について考えることが少なくともその答えに近づけそうな気がする。世界の列強の国々の歴史において、政治家の皆さんはローマ時代に学ぶことはとても沢山ありそうだ。
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「ローマ人への20の質問」塩野七生 著 から質問9、10、11についてとぎれとぎれではありますが抜粋します。パウロはこういう状況下にいる兄弟たちに手紙を書いたのです。(私見:これは僕の考え)
◆質問9:市民とは、そして市民権とは何か から(p96)
問)「ローマの開放性が、国家ローマの長命の要因にもなったのか」→「普遍帝国ローマにとってならば、開国主義は明らかに利益をもたらした。第一は新しき血を導入することで活気を取り戻せたことである。第二は支配される側にとっての利点です。(今世紀に入り)植民地時代のインドやエジプト人は、大英帝国の運命を担っているとは思えなかったに違いない。台湾や朝鮮の人々も、日本人と運命を共にしているとは考えなかったはずです。ある民族が他の民族を支配するのが<民族帝国>であり、支配者と被支配者が渾然一体になってしまうのが<普遍帝国>です。この種の普遍帝国は後にも先にもローマ帝国しか存在しなかったことは、アメリカ人のハチントンに言われるまでもなく、歴史上の事実でもあるのです」
問)「なぜそれが、ローマ人にだけは可能であったのですか」→「ローマ人が、多神教の民であることならば同じです」→「日本人も、多神教の民であることならば同じです」→「大日本帝国時代の日本人が、自分たちが多神教の民であることを忘れ、一神教の民の帝国主義やり方をまねてしまったのが、日本の植民地統治の失敗の原因であったのでは?」(私見:これは天皇制を堅持するためには恣意的にそのようなものにしなくてはいけなかったからでしょうね。)
◆質問10:多神教と一神教との本質的な違いについて (p99)
問)「多神教と一神教の違い、ギリシャ・ローマは多神教で、ユダヤ、キリスト教、中世以降のイスラム教は一神教であった」→「両者の違いは、神の数だけではありません。本質的な違いは、両者それぞれが、神をどう考えていたかにある。言い換えれば、どのような神を求めていたかの違いなのです。ギリシャ・ローマの神々には、人間にどう生きるかを指示する役割はなく、自分で考えて努力しながら生きる人間をサポートするだけが役割でした。それゆえに完全無欠である必要もなく、また人間の願望が多様であるのを反映して、それぞれの面でサポートできるようにと、神の数も多くなったとさえ考えられます。・・・(ギリシャ神話というのがある通りに)ギリシャ人はゼウスをはじめとするオリンポスの12神に神像を献ずるときも、神々の最後に必ず、いまだ知られざる神へ、と銘打った神像を置くことを忘れなかった。いまだ自分たちが知らない真理があるかもしれないと彼らは考えていたからです。・・・これがローマになると彼らの現実的で解放的な性向を反映して、最盛期には30万にもなったというのです。・・・なぜ、その理由の第一は何であろうと神にしてしまったこと。第二は征服して民族が信じていた神々も自分たちの神々の列に加えてしまったこと。・・(そして最後はご存知のようにキリスト教の教会だけが勝利してあります。)」
◇次回は、とても重要なローマ法について抜粋します。・・・ 

世界のベストセラーを読む(236回目)脱線 ローマ人へ20の質問(Ⅰ)塩野七生 

2017-01-14 10:38:06 | 日記
13日の金曜日が不吉と言われて来ているには理由があります。イエスが十字架に架かられたとされているからですね。調べるとどうしてそのようなことが言われてきたかはユダヤの伝統行事(しきたり)の日から来ていることが分かります。が、当然、これは本筋の話ではなく神学的にもまったく意味のあるものではありませんけれども・・・昨日は13日の金曜日でした。ところで、
パウロが書いたローマ人への手紙の第12章に入り、キリスト者の実践倫理のような様相を呈してきたと書いたのだがここで、一段と読み方に困難が生じて来たのは、その内容が、2017年のこの国の人々が今、そのまま読んでも分かる所もあれば、キリスト者でないと理解に誤解を生じるところがあるように思われるからです。しっかりした先理解がないと、おそらく人に与えられた通常の一般良心というもので、たいていは理解してしまうであろうということである。そして、それ以降の実際にキリスト者が集団となり共同体を異邦人キリスト者と歩むに当たり、様々な事柄に取り決めをするに際し、その解釈に別れが生じてくる原因ともなると考えられるからです。第12章1-2節をもう一度読まれたし。とくに2節。
◇世界のベストセラーといえども、いついかなる時に読んでもすべてが読む時代に当てはまるというもではありませんね。(イエスの言葉は別ですけれども!)。旧約時代には、民族律法、そして普遍的な律法があったことが内容から読み取れますね。それは、今の僕らが読んでも納得するものとその時代だからそのように書かれたのだろうというような事は当然推察されます。言葉の意味から、時代背景、その社会の状況、読む人のそして書いた人の・・・。
◆では、それを読む今の自分の考えの基点となる位置はどこに求めますか。(僕はこのことを深く考えさせるということのみにおいてだけでも聖書を読むということは大切だと思いますね。今、この世に自分はひとりしかいない。人生は一度きりなのだというようなこと、そして、今というこの時を思わせてくれますからね・・・。)その自分の考える基点が自分の言葉で読むということなのです。聖書にこう書いてあるから正しいとかというのであれば他には「文字は人を殺し、霊は人を生かせばなり」という言葉がありますから、まずはしっかり今の自分を見つめなければいけないでしょう。黙想でも、デボーションと呼ばれるものでもとにかく一瞬でも命を感じさせてくれる時を思わせてくれる、そして、言葉をいただくのです・・・ということになりましょう。
◆世界的にもダントツで著名な異邦人伝道の使徒パウロの書いたローマ人への手紙。その当時のローマはそもそもどういう状況であったのか。それを知るには何と言っても塩野七生さんの”ローマ人の物語”でしょうね。でも、文庫本だけでも31巻もあるので、在住長期に渡りよく熟知されているところの塩野さんの興味のある本も1冊ありましたので、読まれてみてはいかがでしょうか。「ローマ人への20の質問」塩野七生著(文藝新書)、その他 「キリスト教徒が生きたローマ帝国」松本宣朗著(日本キリスト教団出版局) 
◆ローマ帝国というところは、本当にいろいろな意味で簡単に言葉では言い切れないすごいところだったのだなということが理解されます。パウロの伝道旅行がそういう状況の社会情勢の中で行われたか、そして使徒言行禄や彼の手紙に書かれた読む人々のいた社会情勢がよく理解されてきます。「ローマ人への質問から」次回、2~3抜き出してみましょう。・・・ 




世界のベストセラーを読む(235回目)ローマ人への手紙(12章3~21節)

2017-01-12 21:06:48 | 日記
イスラエルという神の選民族、彼らは万物の創造主なる神の導きにより、聖書に基づき生きてきたけれど、その神の御心は信じるすべての人が神の元へ帰還するという計画に沿ったものであったということになる。
先祖伝来の先理解のない異邦人に対し、人類の終わりの始まりとなった神のひとり子といわれたイエスがパラダイスに帰還するためのパスポートとして不完全な欠陥のあるひとりひとりの罪の葬りとしての十字架の意味を信じた同胞や異邦人に対し、パウロは世界宗教化へと向かいつつあったローマのまだ見ぬ人々に、神からの啓示を受けたこととして奥義を切々と説いてきた。そして、ここに来て具体的なあるべきキリスト者の倫理を説いていく。
◆先の回に僕は(12:1)冒頭の「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい」などがピンとこないと書いた。彼らの記念すべき伝統として祭りとなった”はんさい”。この国のご先祖様が、動物を犠牲を献げてきたというのであれば、ピンと来ていたのであろうけれど。この国の神へのお供えは、少なくとも多くは動物の犠牲は殆どなかったと思う。
◆キリスト教の救い主たるそのものは、まさにこの犠牲の上に意味づけられたものである。何のための犠牲であったか。これはキリスト教の神学の頂点ともいうべきところである。我等は自由となった、しかし、この犠牲の上に、神の独り子の死の犠牲の上に於ける自由であるということを身体に刻みつけないとすぐにタガが外れてしまう事柄でもあるのである。
◆言葉は、我々にゆだねられた。
「何が神のみむねであるか、何が善であるか、何が神に喜ばれる事なのか、かつ全きことになるのかわきまえ知るべきである」とパウロは説く。手っ取り早く言えば、自分の言葉で考え、意識し、そのように務めなさいということだ。パウロは、神がそう言われるのか、イエスの掲示がそう言わせるのか。僕が前回で述べたように、ここに来て急に現実的に道徳論ごときものが出てきたのにそう思った者もいたことだろう。だから、きちんとパウロは前書きを付けているのである。(12:1)「~神のあわれみによってあなた方に勧める。」、(13:3)「自分に与えられた恵みによって、あなた方ひとりひとりに言う」と。行為においては、このような心構えで行いなさいという勧めである。
◆それから、同じような内容が書かれていることは、言葉の豊富になる過程でともすればそのようなことになりやすいとの注意を促す。それは(12:3)「思うべき限度を超えて思い上がることなく~」、(12:16)「高ぶった思いを抱かず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思い上がってはならない。」という言葉である。おそらくこのようになった者も多くいたであろうと言うことだ。そして、
◆(12:17)「誰に対しても悪を持って悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。」、(12:21)「悪に負けてはいけない。反って、善をもって悪に勝ちなさい。」と12章は結ぶ。
◇第12章に入り僕が苦しくなるのはだんだん、パウロがこのときの時代を反映してそれに対抗して持論を述べていくことと思えてしまうからなのだ。天地創造時、アダムとエバにエデンの園の中央にある2本の木の内、「善悪を知る木」からその実を食べてはいけないと言われたのではなかったか。ここでパウロが言う”善”とは何か、”悪”とは何か、それは時代により、人により、理由により異なるのではないのか。神のみぞ知ると言いつつ、彼がここで他と生きるに必要な善、悪の言葉を持ち出していることは、やはり当時の流布されていたギリシャ哲学(例えばプラトンの2元論)や、グノーシス主義、ミトラ信仰などに対抗してのわかりやすい言葉を引用して来て、それではキリスト者はと問いながら信者を激励しているのだと思わざるを得ないのである。・・・




世界のベストセラーを読む(234回目)ローマ人への手紙(12章2節)

2017-01-11 18:54:03 | 日記
(12:2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。    ********************************
第12章に入って、突然に「実践倫理」のような文章に様変わりをする。僕ら異邦人は、正直いうと少なくとも僕は急に何か違和感を覚えてしまっていた。今まで、信仰第一(律法よりも)と捉えていた読みが新しい倫理道徳の拘束なのかとひねくれた僕などは思ってしまっていたのである。どうだろう。
◆僕らのこの国には、”神”という存在が言葉上でもある。その社(やしろ)も日本中に沢山ある。(日本とユダヤは同祖論があるとかは別にしても)だから、パウロのこの12章2節を淡々と読む時に、僕らは無意識的にもその、「善」や「喜ばれること」、かつ「全きこと」などを考えるに、この国の一般常識に判断基準がすり替わっていることがあることが僕が違和感を思えてしまう理由なのかもしれない。だから1節のあなたがたのからだを聖なる供え物として献げなさいなどがピンとこないのである。日本の古来の神への供物はあるが犠牲を献げるという古来からの伝統はなかったから。
◆誰に向けて話したのか。どういう状況で話したのか。何を先理解として了解していた人々に向けて話したのか。第一にどういう思いでパウロはこの手紙を書いたのだろう。いつも心にひっかかりが生じた時はいつもそれを考えながら読むことが大切だ。ここで手紙を読むのは、イエスを受け入れた人々である。第12章に入り”兄弟たちよ”とは、すでにパウロが手紙でここまで述べてきた内容を受領した、ユダヤ人、異邦人キリスト者ギリシャ人に対してであるとは先の回に述べた。だから、イエスに対する信仰があるという第一の前提での「何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」なのである。
◆しかし、考えて見るとどうだろう。2017年になった今、この時この世界で実は、これはパウロの声高に言う我々に対する挑戦なのではないだろうか。「心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」と。
◆今年は宗教改革から500年、万人祭司、すべてがイエスの直接の弟子とすれば、神は、「天になるごとく地にもなさしめたまえ」との事から、ご自分の言葉を地上において御心をなさしめるべく、我々に与えて来られたのではなかったか。我々がその手足となるべく・・・。そして御心を考え自分のものとし、その実現の為に言葉を分与されてきたのではないか。その言葉は、地上から飛びさり地に属し朽ちていく血と肉の人間のむなしい言葉ではなく、天に帰る霊的な神から言葉をいただき地上を神のもとへと宣教に励む、証(あかし)の言葉となって実現していくのである。例え、罪の改めの犠牲が、彼らの先祖伝来から行われてきて、それが我々、ひとりひとりの天に帰還するための罪を帳消しにするイエスの十字架の犠牲になったことを知らなくても、否、知っているキリスト者であるならば尚更、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである
◆そこには、束縛などでは決してなく、束縛している自分の不自由な身体からも解放された「真の自由」があるのである。「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ伝 8:32)・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(233回目)ローマ人への手紙(12章1節~2節)

2017-01-10 20:02:23 | 日記
(12:1)兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
(12:2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨(みむね)であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。   **************************
◇ローマ人への手紙第12章からは、第11章のパウロの神からの啓示をまとめた論説を一通り了解したと仮定しての”兄弟たちへ”の具体的な日常における生活においての心のあり方というような事柄をパウロは述べていきます。この12章からの”兄弟たちよ”の呼びかけは、したがって今までの同胞ユダヤ人だけではなく、異邦人キリスト者も含めた、イエスの信仰を持った者立ちへの”兄弟たちよ”の呼びかけであると思われます。
◇パウロの受けた神からの掲示によれば、この世においても一ランク上の霊的次元への入り口に立った者立ちへの勧めということになるだろう。ともすれば、それはダブルスタンダードを持ってこの地上を生きることなのかと初めての方は思うかも知れないが。そこで、僕はいつもローマ人の手紙の第7章のパウロの言葉を思うのだ。彼の悩みは、先祖伝来の神からの律法というものと自分の肉の思いのズレを訴えるもであったが、異邦人の僕らは、先祖伝来のというより、世におけるしきたりなどの上に生きるキリスト者としてのズレについて該当すると考えられるかもしれない。この世におけるキリスト者・・・に対して、パウロは今も普遍的な勧めを語っていることになるのです。
◆しかし、言葉であってもそれを一つの言葉、文字などの対象として理解されている限り、そこには自分の言葉(内からその言葉を肯定すると言葉いってもいい)でないものが自分の考え、あるいは精神、あるいは肉体を拘束する者として立ち現れてくる。僕らはどうしたらいいのだろうか。
◆例えば、現代の普段の生活をしているキリスト者は、なんら日曜日に教会礼拝に拘束されているとは感じない(いるかも知れませんが)のです。無論、戦いはある。それは、人それぞれの人生の課題があると少なくともイエスご自身が思われているのであるから・・・なぜなら、彼ご自身、「あなたの十字架を背負って私について来なさい」と言われているではないか。誰でもの人生の課題をイエスは、ご存じなのだから。その不完全な肉体を持つ自分(多くの肉のしがらみを含めての)との戦いということになるのです。それはイエスの十字架の苦しみを知ることを自分の不自由な、疲れやすい、能力の劣った、肉体を通しての体験の感謝として了解するということになるのです。少なくとも僕はそうである。しかもパウロは、肉に負けるな、心を新たに前進せよと言っているように思われて仕方がないのだ。次回は、2節を少しく考えてみましょう。・・・