marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(265回目)ローマ書講義56・157-158(M・ルター)「人間的なものの根絶」

2017-02-17 21:26:54 | 日記
表題の数字はワイマール版ルター全集の第56巻157~158ページを意味しています。聖書は都度、読む事にしましてこの日記では一通りパウロの神学論文とも言うべき”ローマ人への手紙”を読み、脱線と休息をして、上映中の映画、遠藤周作さんの「沈黙」の映画を見た感想を書いてきました。今年は宗教改革から500年、プロテスタントの開祖 M・ルターさんの書いた”キリスト者の自由・聖書への序言”(岩波文庫:石原 謙訳)の後半に、「聖パウロのローマ人にあたえた手紙への序言(1522年)」と題して、彼の解説がありますので、同時に 中世の偉大なる神学者でもありましたから、そういえば"ローマ書講義"もあったなと思い起こし、書棚より引っ張り出してきて〔当然抜粋ですが〕読み返して見ましたが、やはり、それなりにというかプロテスタントであるからか何ら今でも違和感なく読めるのは、ルターさんはやっぱすごいなと感激しながら読んでおります。こういう神学書なりは中身はむずいかもしれないが、一生涯繰り返して読めるので時代的には古典の部類に入るだろうけれど、なんせ生きている神様の事を書かれておられるんで、いつも新鮮さが失われません。
◆それで、聖書を知りたいがために"わかりやすい聖書の本"というような本はたくさんありますが、聖書の知識は増えますが、イエスと共に生涯を生きるというような事が個人としての経験とならなければイエス・キリストは理解不能と言えましょう。それで、初めて神学書なるものに目を通される方への注意は、たいていの方は普遍的な何かを探そうとするのですが神学者一人一人の見解が異なるので少し、だからキリスト教は難しいと考えられてしまうのではないかと思われます。そうです。それはその人が、その神学者への課題としてイエスから課題を負わされた回答の事なので、詰まるところ読まれる方が、自分の言葉で聖書を読み、イエスと対話されることこれにつきるわけです。そのときの神学者の見解を尊重しつつ参考にと・・・。ですから、キリスト教の場合は、お題目を唱えればそれで安心という宗教ではないのですね。現に、今このようにしてタイプを打っている私に、そして読むあなたのその場での全体の時の中に存在して働かれている方であるということになります。
◆さて、以前にこれからの時代は、人間としても普通に持っている”良心”と”従順”に注意しなければいけないと書いた事がありますが、大切なのはまず、自分がイエスの言葉によく対峙して、会話をすすめることをこのブログの趣旨でもありますのでその事を願っております。それでは、表題のルーターの”ローマ書講義”から何を述べようとしているか考えて読まれてください。
◇イエス・キリストの僕(しもべ)パウロ(ローマ書1:1)
「この手紙の要旨は、肉のすべての知恵と義を(たとえそれが人間の目に、また私たち自身の前に、いかに大きなものであろうとも)それがどれほど心底から、真剣に行われたものであろうとも、こわし、取り除き、滅ぼすことであり、罪を(たとえそれがどれほどわずかしかなく、あるいは存在しないように思われても)植え、立て、大きくすることである。
 なぜなら神は私たちを、私たちの中にある義と知恵によってではなく、わたしたちの外にある義と知恵によって救おうとしておられるからである。この義と知恵とはわたしたちから出たり生じたりするものでなく、ほかのところから私たちの中に来るもの、私たちの地上に生じるのでなく、天から来るものである。したがって、外から来る私たちのものでない義が教えられねばならない。それゆにまず、わたしたち自身の、わたしたちの中にある義がとり去られねばならない。」(「ローマ書講義」56・157-158)
◇以降は僕の意見:クリスチャンの方が、礼拝などには出ないノンクリスチャンの連れ合いの方に「あなた、クリスチャンのくせにだめじゃないの」と小言を言われたのだそうな・・・。僕は、仕事柄、判断するには必ず基準が必要だと感じているので、その小言をいう方の判断基準は、やはり一般の方は何らかの生まれつきの「義」があるのだろうなと思わされた次第。他のおおくの方もそうなのだろう。
◆イエスは、ペテロに「下がれサタン。お前は神のことを思わず人間のことを思っている」(マタイ16:23)と叱責された意味をよく考えるべし。このイエスの厳しい言葉を理解しないと信仰の列車に乗りこむのは困難かもしれない。 Ω 

世界のベストセラーを読む(264回目)公会議と教会について(M・ルター)

2017-02-15 21:04:09 | 日記
先の回に公会議の事について書きました。今年は宗教改革500年。マルチン・ルターさんが公会議のことについて書いている文書がありますので短く掲載します。先の回に関連しておりますので、初めて読まれる方は映画「沈黙」を見たところの日記から読まれたし。その文書とは表題に載せた「公会議と教会について」です。後の数字はワイマール版ルター全集の巻ページ。詰まるところ、聖書に基づき、その源泉からくみ取ることを第一として、それに付随する公会議の決定や教父の著作などがそれを凌駕して優位に立つようなことがあってはならないしあるべきではないということ。それについては、ルターは、かのアウグスティヌス自身も「三位一体論」の序論でこう述べていると・・・
◆「聖書と同じような具合に、私の著作に従わないでください。以前は信じていなかったことを聖書の中に見いだすならば、疑うことなくこれを信じてください。しかし、私の著作においてなら、以前は確信をもっていなかったことについては、私によってそれが確かなことだと証明されない限り、確かなものとしないでください」と。(『公会議と教会について』50・524)
◆私たち異邦人は私たちの父祖の著作を、聖書と同じくらい高く評価しなで、少し低く評価すべきである。〔・・・・・・〕また、どの公会議にしても教父にしても、そこでキリスト教の教え全体を見出し、学ぶことができるということはない。例えば、ニケアの公会議は・・・、コンスタンチノポリス公会議は・・・、エペソ公会議は・・・、これはまだ、キリスト教信仰の教えの全体ではない。聖キプリアヌスは・・・、聖ヒラリウスは・・・、聖ヒエロニムスは・・・、聖クリソストムスは・・・、聖アンブロシウスは・・・、聖アウグスティヌスは・・・
◆要するに、教父たちや公会議の双方をみなひとまとめにするがよい。どんなに永遠に集めつづけてもそれでも、その信仰から、キリスト教信仰の教えの全体を集めることはできない。聖書が教会を作り、支えなかったとすれば、教会は公会議があり、教父がいても、それでは長く存続しなかったことであろう。証拠として〔次のことを言わせて欲しい〕。
教父たちや公会議は、それが教え、取り上げていることをどこから得たのか。彼らはそれをその当時初めて見つけたとか、あるいは聖霊からいつも新しいことが彼らに注ぎこまれたとか、あなたは考えているのか。それなら教会は、そのような公会議や教父たち以前には何によって存立していたのか。公会議や教父たちが現れる以前にはキリスト者はいなかったのか。。(『公会議と教会について』50・544-547)・・・

世界のベストセラーを読む(263回目)パウロの宿題 カトリックとプロテスタント

2017-02-13 20:36:32 | 日記
パウロの宿題と書いて、何を不謹慎なことを言い出すのかと思われるかもしれません。しかし、それは何もパウロの言葉には不足があるとかなどの文句では当然なく、パウロが我々に残している今の時代に励むべき宿題という意味です。そうすれば、パウロがコリント信徒への手紙(Ⅰ、13:12)の中で、「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる」と述べているように、私たちも日々の生活が共なる学びの時として過ごすことができると思います。いついかなる時も、パウロの言葉に従えば、彼(イエス)につながっていることを意識することは平安がもたらされると言うことになるのではないでしょうか。
◆ローマ人への手紙の最後に「わたしの福音」(25節、26節)とのべたように、イエスの福音の意味を当時の人々の状況の中でその時代に理解できる権威を持った言葉で語りかけたということになります。ですから、僕らは彼の手紙の中からまずは福音の意味とそしてそのための我らのあり方をきちんと学ばねばなりません。それは当然、頭での知識だけというものにはなりません。自分の言葉で読み、彼と語り、回答を得るということになります。パウロの宿題が多岐に渡っていたからこそ、多くの学問が発生してきたとも言えるのではないでしょうか。歴史や考古学はもちろんですが、最後に現れてきたのは、やはり神の似姿に創造された人間のこと。第一に体のことを知る医学、その言葉、言語学、心理学、教育学など・・・総じて人間学。しかし、ここまで来るとプロテスタント。
◆その前に僕らはキリスト教と言えばどうしても世界最大の長い歴史のある組織カトリックをイメージしてしまいます。大きな働きをなしていますが、同時にプロテスタントと相違するところもあります。2~3書きます。僕は意見を述べませんので読まれる方が考えて見てください。
①プロテスタントが「聖書のみ」を信仰の対象とするに対して、カトリックは「聖伝と聖書」を信仰の源泉となっています。聖伝への信仰をも不可欠のものとしています。第二バチカン公会議、神の啓示に関する教義憲章に次のように書かれています。「聖伝は使徒より由来し、聖書の完全な聖典を知らせたもので、主キリストと聖霊から使徒たちに託された神の言葉を余すところなく、その後継者に伝え、後継者たちは真理の霊の導きの下に、説教によってそれを忠実に保ち、説明し、普及するようにするものである」(同公会議憲章7-9)
②「カトリック的信仰はカトリック教会が使徒伝道来として教える統べてのものを、聖書であれ、聖伝であれ自発的な同意を与え知性と意思をまったく服従させることにある。(同 教義憲章5)
③カトリックは聖母マリアを崇敬している。
◆ローマ教皇ヨハネ23世は、1962年に第二バチカン公会議を開催し大改革を起こしました。保守派と進歩派の意見の相違はありましたが大きな前進がありました。しかし、会議閉会を待たずに癌でなくなります(黒沢明監督の「生きる」という映画を思い出しだしました、その考えからして、教皇は高齢で病気で死が近いことを知っていたのでしょうと・・・)。その後の教皇パウロ6世が公会議の閉幕を担ったのですが、保守と進歩派の折衷者たるべく、聖母マリア崇拝は現在も世界で行われているということです。先に述べた①から③意外にも相違点はありますがプロテスタントは、それらは根本から認めていません。それは純粋に聖書に書かれていないからですね。
◆プロテスタントの中には、現在もローマカトリックを猛烈に排他する教えを述べている教派もあります。それは今までの歴史世の中からその多くは消え去るものではないということ、そして、烏合の衆でその「良心」という光のもとで世界一致が起こり、いいことのようのように見えるが一気に足をすくわれる時が来るであろうと聖書の預言書から読み解いているのです。世界遺産となっているインカ帝国の空中都市・・・先の回に述べたスペインの神の名の故の大虐殺が起こらなければ、あのような都市はできなかったことを推し量るべし
◆最後に・・・それにしても今までの歴史で世界中にマリアの顕現があったことが知られていますね。世界で一番顕現の多かった年に僕は生まれているのです。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(262回目)余談 異邦人伝道の使徒パウロの宿題

2017-02-11 22:38:33 | 日記
地球の裏側からの情報も確か、不確かはともかく、短時間でそれらを得られる時代となりました。文字自体も統一されていなことから、日本の紀元前の歴史は明確ではありません。
今日は建国記念日。この歴史を学校ではきちんと教えてくれているのだろうかとふと疑問に思ってしまった。いずれにしても言葉と文字は大切だなと思いました。2.11の勉強会に行ってきました。雪も止むことを知らず、とにかく雪かきで汗をかきました。
◆遠藤周作氏の「沈黙」の話を書きましたので、留学時、日本に帰ったらキリストを日本になじむませるよう努力しようと誓い合った井上洋治神父の本「余白の旅-思索のあと」を再読しました。(これはすごく昔に古本屋で100円で購入したもの)。今、日本キリスト教団から著作選集が出ていますが、「西欧のキリスト教というだぶだぶで着づらい服を福音の原点に立ち帰って日本人のからだにあわせて仕立て直したい」というフレーズで紹介されています。
◆先の回に深井智明さんの神学の起源から「教会(という制度)嫌いのキリスト教」について述べました。フランス革命期に起こった神学について宗教は必要だが教会批判を行う話の掲載をしました。キリスト教を作ったのはパウロであるという作家佐藤優氏の言葉も掲載しました。教会嫌いのキリスト教からの一番の批判の対象はイエスの純粋な宗教を教会的なキリスト教に変質させてしまったパウロと初代のキリスト教徒たちということになると。それは教会の権威や超越性を批判するということが起こるというのですね。さらに真の宗教生は制度化した教会の成立以前に求められるべきであると主張されることが起こったというのです。
◆考えてみると、イエスの言葉は四福音書に見られる訳ですが、それらを著した筆者は、読んでもらう対象の人に理解してもらおうと書いた(形跡が見られます。いわば個性が出ているということか)ことが、時代的制約や著者の立場からわかる訳です。その中で、福音書を読むのであればヨハネ福音書を読みなさいとルターは勧めたのでした。
◆この回で僕が何を言いたいかと言えば、福音のエッセンスを除き、書く者も読む者も、その時代、置かれた立場でまそれぞれが何らかの影響を受けた上で書かれているということです。従って、イエスの言葉から離れていつの間にか不自由な組織体ができて権威を持ったりしてくることに留意しないといけないということです。イエスはひとりひとりに語られたのですから。そのように異邦人にも聞ける一人ひとりになれるように私を伝えなさいと使徒たちに言われたからです。外からの押しつけ拘束ではなく、聞く者が自らイエスの声を聞くための心の扉を内から開くようにと・・・。ここにまず自分の言葉で読むことの大切さがあります。
◆パウロの霊と肉の二元論の考えは、当時周知していたであろうギリシャの哲学者プラトンの影響がないと生まれてこなかったと考えられます。僕が常々思っているのですが、聖書をまんまありがたいものと読み取るのではなくて、その中には時代に(適応するように)述べられた真理といかなる時代も(つまり2017年の今でも)適応されるであろう普遍的な言葉が載せられていることがあるので留意して読み取るようにと考えているのです。旧約聖書で言えば「十戒」のような普遍律法、レビ記に書かれているような民族律法があると考えられます。そのようなことがパウロのローマ人への手紙にも当然、見られています。ですから、異邦人の僕らは何を普遍的法則、何をパウロ自身の時代に対しての信徒への奨励であったのかを考えながら読んでいかねばならないものと思われます。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(261回目)脱線 映画「沈黙」-サイレンス-を見る Ⅲ

2017-02-09 20:23:10 | 日記
この国の歴史についての学習内容はあまり正しくないと言わなければいけない。特に日本史。その中でも日本の国の成り立ち。その他、覚えてはいけないというか教えられていない出来事がたくさんありそうに思われ日本史は一面の無難なところだけを学習させられているなぁと感じていたので、理系だったし受験校には世界史など選択枝になかったのですが面白くそちらの世界史などを勉強しておりました。日本が世界の動きが見えず”井の中の蛙”の時代、大海を越えて植民地政策に乗り込んでいた国があった訳ですから、その辺の状況をよく捕まえて当時もそして現在も全体を考えなくてはいけません。事件の裏には理由があるというところです。
◆2/7の259回目の最後からここに飛んできて。読まれてください。原作となっています遠藤周作氏の「沈黙」で一番の気になっていたところ、それは前の回にも書きましたが、日本の国はキリスト教の根付かない泥沼だというところ・・・結論を出す前にそれは時代背景をよく読み取らねばいけませんということでした。これは、どの宗教と言わず個人と組織について、またその時代の権力者、為政者により歴史として残される解釈は違うと言うことです。歴史に「もし」はないと言われるが、全土がキリスト教に改宗していたら、あの時代どこの国が乗り込んでどうなるか考えても明らかでしょう。2017年の現在でも起こっていることではありませんか。国の中での争いについてどちらにつくかに油を注ぎ、勝者から利をとろうといつも犠牲になる、いつも正直に生きている人々。
◆僕はイエスの再来に近づくにつれて最もこれからイエスの核心に近い生き様をさらして踏ん張って行くにはこの異邦人の国、いや、この日本という国は、実は根っこのところでは欧米よりも古い時代にその古層においてイエスの神を信じていた民族につながっていた(いる)と考えているのです。決して、学問の領域には上がって来ないでしょうが、あのクリスマスの祭りでさえ当時の民族風習に合体したものだったのですから、その辺をもっと定着するため声を高くして言ってもいいと思っているのですけれどね。
◆そこでこのブログを始めた趣旨にもなりますので、次に気になりましたところを「沈黙」の本の方から、作者は本の後書きで、転んだ「ロドリゴ(神父)の最後の信仰はプロテスタンティズムに近いと思われるが、しかしこれは私の今の立場である。それによって受ける神学的な批判ももちろん承知しているが、どうにも仕方がない。」と述べています。それは物語の一番最後に書かれた神父の独白にあると思われます。裏切りのキチジローに転んでしまった自分が最後の告悔(コンヒサン)を聴いてやったあと・・・
◇「聖職者(ここでは自分の組織体イエズス会)たちはこの冒瀆の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人(イエス)を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙したのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」(p248)
◇そのロドリゴに「転ぶと信者を助けることになる」という先に転んだフェレイラ司祭(この人はかつてのロドリゴの師に当たる)がこう囁くところがある。「教会の聖職者たちはお前を裁くだろう。わたしを裁いたようにお前は彼らから追われるだろう。だが教会よりも、布教よりも、もっと大きなものがある。お前が今やろうとするのは・・・」(p223) 僕が思うにこれらがまさにプロテスタントなのです
◆昨年2016年東京都文京区小日向にあった江戸時代、切支丹を拘禁した切支丹屋敷から禁教下、18世紀初めに潜入した宣教師、ジョバンニ・バッテスタ・シドッチ(彼が本当に最後の人)の人骨が発見されました。ローマ教皇特使でした。そして、2017年の今年はマルチン・ルターが万人祭司説を唱えた宗教改革500年に当たります。考えさせられます。・・・生者(しょうじゃ)のあらん限り死者は生きん! ・・・Ω