スピンオフ銭明日編集長

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「平泉」世界遺産登録へ再挑戦・其の弐

2010年11月28日 | Weblog
ー 平泉を含む奥州胆沢地方の歴史観 ー
「水陸万頃」と続日本紀の延暦8年(西暦789年)7月17日の記事にうたわれた程、胆沢地域は北上川(当時は日高見川)の恵みを受けて農産物生産に恵まれ、産出品のレベルも高く、ここで清衡は地力を貯えた。
居舘豊田の舘は北上川支流の人首川に面していたため、舟運は不便であった。

本流北上川に面し、河口が整っていた平泉に本拠を移した。
安倍氏の一員でもある清衡は、衣河関を越し、平泉を本拠と定めた。
それ以前衣河関から北、奥六郡の長として安倍氏はあり、陸奥を南北に分けた境昇が衣河関であった。

南は律令の及ぶところ(大和朝廷)であり、北は安部氏の支配する奥六郡である。
安倍氏以前の中央勢力との戦いと云えば、その頂点はアテルイの延暦年間の二十年戦争であり、坂上田村麻呂が武門の最高位として征夷大将軍に任じられた戦いである。

以降、武門に生きる人間にはこの最高位の官位を目指して戦いを繰り拡げる。
八世紀のアテルイの時代から三百年の空間を経て、十一世紀安倍氏の時代となる。

前九年合戦、後三年合戦を経て、いよいよ清衡の登場となる。


月見坂



ー 藤原三代党首 藤原清衡 ー
清衡は藤原秀郷(藤原氏の系譜、関東の豪族、別名俵藤太)の血を引く藤原経清(陸奥の国亘郡の豪族)を父とし、絶世の美女とうたわれた安倍頼時の娘コウを母としている。
源義頼は前九年合戦で経清を断罪したが、息子清衡と母親コウは助命し、義頼と組んで安倍氏を滅ぼした清原武則の子息武貞にコウを与えた。
このことは平家滅亡に至るケースと似ている。

その結果、異父兄弟の家衡が誕生した他、武貞の甥男として真衡がいる。
兄妹3人の清原内での権力争奪戦に源義家が加わっての合戦が後三年合戦である。

清衡は母と共に清原氏の本拠地である横手で暮らしたと思われるが、やがて父の舘「豊田の舘」で妻子と暮らすこととなる。
ここを襲い、舘を焼き払い、清衡の妻子を殺害したのが異父弟である家衡である。

甥男真衡の死により、家衡は清原内での覇権を求め、この挙に出たと思われる。
幼い日、父経清を殺され、いままた妻子を殺された。
こういう苛酷な運命を、身をもって体現されたのが清衡であり、数奇な運命の超克の場として仏教都市平泉の造営が始まる。


毛越寺庭園

ー 平泉藤原時代の完成に続く ー

<銭明日二世こと菅村経悦>
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