50年近い以前の記憶を手繰り寄せるのは正直難しい年齢になってきた。
以前にも何度かこのブログに登場願ったが、三菱製鋼という一部上場会社の社員であった事がある。
その社会人としてスタートをきった同期の仲間から“熱海に集まれ”と案内が来たのは4月の始めであった。
こんなことをマメにやってくれるのは、南砂町の居酒屋「カメヤ」の店主、山田泰義君である。
当時総務部の中で机を並べた親しかった仲間で、福島商業卒の飾り気がなく気さくな奴である。
同期の中では私がいの一番で辞めたが、彼もそう長くは居なかった筈である。
彼はサラリーマンから料理人の道を目指した毛色の変わった人生を歩んでいる。
修行時代のことは聞いたことはないが、カメヤを構えてからは年に何度か顔を出すようになった。
25年にはなるだろう居酒屋の親父として、南砂町で市民権をしっかり築いているようでいつも常連客に賑わっている。
俄か料理人とは違い、本格的な酒のツマミを手際良く、然も狭いカウンターを挟んだ目の前で、何品も一気に作っている姿に触れれば、何も言わなくとも腕のよさがわかると言うものである。
身体が弱い女性と一度結婚したようだが、若い時に逝去され実家の墓地に眠らせたそうだ。
それから彼に浮いた話は聞いていない、男の操ってやつかな。
先日も店に寄ったが《ここの主人は人が良く、お酒を勧められれば、断ることが出来ませんので、勧めないで下さい》と貼り紙がしてあった。
そう言えば不整脈があり、心臓のバイパス手術を受けたとか。
職業病的で避けられないことだろうが、独り身なら心配なことだ。
その山田から“菅村が来なければ始まらないから”とくすぐられ、熱海に足を運んだのは4月28日であった。
集まった連中の殆どは途中転職組であるが、その中に同期以外の先輩の手塚仁志さんもいた。
この方も東北は米沢商業出の6年上の先輩で総務の仕事を多く教わった。
そして亀戸や錦糸町の一杯飲み屋で山田達と良く馳走になった。
高度成長前夜の高くはないサラリーだっただろうにと思うと、頭が下がった。
そのあとに寄る総武線平井の駅裏のバー“慕情”の美人ママが今でも脳裏から離れない。
そんな他愛のない思い出話で盛り上がった貴重な熱海の一夜であった。
<銭明日二世こと菅村経悦>
環境づくりで地域社会にお役立ち「マリングループ」ホームページ
以前にも何度かこのブログに登場願ったが、三菱製鋼という一部上場会社の社員であった事がある。
その社会人としてスタートをきった同期の仲間から“熱海に集まれ”と案内が来たのは4月の始めであった。
こんなことをマメにやってくれるのは、南砂町の居酒屋「カメヤ」の店主、山田泰義君である。
当時総務部の中で机を並べた親しかった仲間で、福島商業卒の飾り気がなく気さくな奴である。
同期の中では私がいの一番で辞めたが、彼もそう長くは居なかった筈である。
彼はサラリーマンから料理人の道を目指した毛色の変わった人生を歩んでいる。
修行時代のことは聞いたことはないが、カメヤを構えてからは年に何度か顔を出すようになった。
25年にはなるだろう居酒屋の親父として、南砂町で市民権をしっかり築いているようでいつも常連客に賑わっている。
俄か料理人とは違い、本格的な酒のツマミを手際良く、然も狭いカウンターを挟んだ目の前で、何品も一気に作っている姿に触れれば、何も言わなくとも腕のよさがわかると言うものである。
身体が弱い女性と一度結婚したようだが、若い時に逝去され実家の墓地に眠らせたそうだ。
それから彼に浮いた話は聞いていない、男の操ってやつかな。
先日も店に寄ったが《ここの主人は人が良く、お酒を勧められれば、断ることが出来ませんので、勧めないで下さい》と貼り紙がしてあった。
そう言えば不整脈があり、心臓のバイパス手術を受けたとか。
職業病的で避けられないことだろうが、独り身なら心配なことだ。
その山田から“菅村が来なければ始まらないから”とくすぐられ、熱海に足を運んだのは4月28日であった。
集まった連中の殆どは途中転職組であるが、その中に同期以外の先輩の手塚仁志さんもいた。
この方も東北は米沢商業出の6年上の先輩で総務の仕事を多く教わった。
そして亀戸や錦糸町の一杯飲み屋で山田達と良く馳走になった。
高度成長前夜の高くはないサラリーだっただろうにと思うと、頭が下がった。
そのあとに寄る総武線平井の駅裏のバー“慕情”の美人ママが今でも脳裏から離れない。
そんな他愛のない思い出話で盛り上がった貴重な熱海の一夜であった。
<銭明日二世こと菅村経悦>
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