腕まくりの懐石が終わりましたが、今一つ自信がなく・・・如何だったでしょうか?
主菓子をお出ししました。
クリスマスなのでいろいろ迷いましたが、久しぶりに手製の金団に挑戦です。
菓子銘は「ホワイトクリスマス」、ガラスの大皿にアイビーとピペリカムのリースで飾りました。
腰掛待合へ中立の予定でしたが、雨がぽつぽつ降り始め、このまま待合で銅鑼の合図を待って、玄関前の蹲を使って後入りしていただきました。
後座はまっ暗闇の中、蝋燭の灯りの元、濃茶を差し上げました。
半東KTさんがしっかり温めてくださった茶碗のぬくもりを感じながら襖を開け、茶碗を運び出します。
帛紗を四方捌きしながら、クリスマスの教会の厳粛なミサを思いました・・・。
織部肩衝の茶入、茶杓を清め、茶碗をゆっくり温め、茶筅通しをします。
茶入から濃茶5人分を回しだすと、早や茶香が薫り立ちました。
柄杓にほぼ満杯の湯を汲み入れ、丁寧に心をこめて濃茶を練りました。
5人分なので2杓目の湯をたっぷり入れたのですが、少し濃い気がしてもう1杓入れさせて頂きます。
大ぶりの茶椀で熱々の濃茶をたっぷりとお出し、モールの古帛紗を添えました。
「お服加減いかがでしょうか?」
「薫り高く美味しく頂いています」(お正客さまの一言で安堵しました・・・)
濃茶の回し飲み・・・これは「利休がカトリックの聖体拝領の儀式からヒントを得たのではないか」という説があります。昔は各服点てだったとも・・・今でも流儀によっては各服点てです。
話は飛びますが、昔、亡父から濃茶の回し飲みについて次の話を聞いたことがあります。
大阪城の茶会で、豊臣諸将が集まる中、大谷刑部(吉継)と石田三成が同席しました。
濃茶が出され、ハンセン病を患っていた大谷刑部の後の濃茶を回し飲むのを皆がためらっていたところ(一説には鼻汁が茶碗に入った?)、三成がこともなげにその濃茶を飲み干しました。
このことに恩義を感じた大谷刑部は関ケ原の戦いでは三成の西軍に馳せ参じ、奮戦したそうです。
濃茶は「天王山」、宇治の山政小山園詰です。
詰Rさまの「最後まで美味しく飲めました」とのお言葉を嬉しく聞きました。
水指は手付の白磁、砥部焼です。キリスト生誕の飼葉桶に見立ててみました。
茶碗は利休好みの魚屋(ととや)、韓国・山清窯のミン・ヨンギ作です。
茶入は織部肩衝、佐々木八十二造、仕覆は十二段花兎です。
茶入は宇和島市に住む黒河さまから「お茶を教えている貴女に役立ててほしい・・・」と贈られたもので、お茶の先生だった亡き母上様の遺愛のお品です。
茶杓は銘「たんちょう(誕生)」、大徳寺・藤井誠堂師作です。
後炭をしたくって、後炭の炉の景色を見て頂きたくって、まっ暗闇にしたのかもしれません・・・「お炭を直させて頂きます」
釜を上げると、暗闇の中、残り火のキラメキが・・・・。
胴炭は割れないくらい、しっかりと残っていたのですが、後の炭はほとんど燃え尽きています。
匙香をし、残りの湿し灰を撒きました。
輪胴を灰器に移し、炭を逆に継いでいきます。
丸管と割管と枝炭1本を上手に持てるかしら?
後炭の最大の見せ場であり、難関でもあります・・・実は1回で成功させないと、大変なことになることが多いのです。気合を入れて持つと、一度に持てて左向う側に置けました。(「ヤッター!」・・・影の声です)
薄茶になり、半東KTさんにお点前をお願いしました。
煙草盆と干菓子器2つが運び出され、薄茶点前が始まりました。
薄器はガラス製、ガラス作家の西中千人作です。「暁」という銘があり、呼継(よびつぎ)という特殊な手法で製作されています。
呼継(よびつぎ)とは陶芸の伝統的な修復技法である金継(きんつぎ)の一種を言います。
しかし、ガラスなので従来の呼継とは少し違います。
一度作ったガラス器を壊して、ガラス器の壊れて足りなくなった部分に別のガラス片を埋め合わせてガラスで継ぎ直し、新たな作品を創り出しています。
ガラス薄器 銘「暁」 西中千人作
茶碗は上野焼と京焼(橇に乗ったサンタの絵)です。
薄茶は「金輪」、丸久小山園詰です。
2種のお菓子は、「霜柱」と「白雪姫」(リンゴの干菓子)をお出ししました。
「霜柱」は仙台・玉澤製の銘菓、社中の方の差し入れです。
口に含むと消えてしまう繊細な霜柱も、それを入れた菓子器も天使が運んできてくれたみたいで、好評でした。
仙台の銘菓「霜柱」 玉澤製 天使の台のガラス器に入れて
薄茶と干菓子を頂きながら、皆様、ニコニコと楽しそう・・・お話が弾み、時の経つのを忘れそうでした。
いつか雨が本降りになり、これにてお開きにしました。