昨日は、昭和14年(1939年)8月16日に亡くなった三渓園の創設者、
原三渓翁の御命日でした。
ブログのご縁で、尾州有楽流の方からメールをいただきました。
「・・有楽ゆかりの春草廬(九窓亭)でのお茶事も羨ましく・・」
「えっ~?」
春草廬は何回も見ていますが、いつも閉まっていて
中を見ていないことに気づきました。
茶事どころか、入った記憶もありません。
それで、どんな茶室なのか、じっくりと拝見したいと思いました。
終戦記念日の8月15日(土)、三渓園(横浜市中区)へ行きました。
夏の暑い盛りですが、全施設の一般公開が行われていたのです。
今回は織田有楽作と伝えられている茶室、
春草廬(しゅんそうろ)にしぼって見学です。
内苑にある「三渓園ボランティアガイド」の受付で
春草廬のガイドをお願いしました。
「茶室や建築の専門家ではありませんが、
私なりに調べたことで良かったら・・・」
Aさんが快く案内してくださいました。

国宝・如庵(有楽作)と同様、春草廬も複雑な変遷の歴史がありました。
古くは九窓亭(くそうてい)と呼ばれ、
大正7年(1918年)京都宇治の三室戸寺・金蔵院から譲渡されています。
桃山時代の建築と推定され、織田信長の弟・織田有楽の作と
言われていますが、確証はないそうです。
三室戸寺にあった時は、伏見城遺構の客殿(現三渓園・月華殿)に
付随する茶室でした。
原三渓はこれを切り離し、月華殿には茶室・金毛窟を建てました。
大正9年(1920年)三渓は、夫人と二人で住む白雲邸を建て、
白雲邸に付随する形で春草廬を移築して、広間を新しく付け足しています。
大正11年(1922年)4月19日に春草廬開きの茶事を催しています。
客は益田鈍翁、益田夫人、田中親美、野崎幻庵、梅澤鶴曳。
その翌年、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災がおこり、
園内のたくさんの建築物が倒壊しました。
春草廬が再び茶会記に登場するのは昭和12年になってからです。
昭和14年(1939年)8月16日、原三渓翁が逝去(享年70歳)。
第二次世界大戦に際して解体保存されていた春草廬ですが、
戦後、三渓園を寄贈された横浜市は蓮華院を現在地へ移し、
昭和33年(1958年)12月その跡地に春草廬が再築され、
今に至っています。
(次へ)

写真は「三渓園のハチス」と「春草廬のにじり口」
原三渓翁の御命日でした。
ブログのご縁で、尾州有楽流の方からメールをいただきました。
「・・有楽ゆかりの春草廬(九窓亭)でのお茶事も羨ましく・・」
「えっ~?」
春草廬は何回も見ていますが、いつも閉まっていて
中を見ていないことに気づきました。
茶事どころか、入った記憶もありません。
それで、どんな茶室なのか、じっくりと拝見したいと思いました。
終戦記念日の8月15日(土)、三渓園(横浜市中区)へ行きました。
夏の暑い盛りですが、全施設の一般公開が行われていたのです。
今回は織田有楽作と伝えられている茶室、
春草廬(しゅんそうろ)にしぼって見学です。
内苑にある「三渓園ボランティアガイド」の受付で
春草廬のガイドをお願いしました。
「茶室や建築の専門家ではありませんが、
私なりに調べたことで良かったら・・・」
Aさんが快く案内してくださいました。

国宝・如庵(有楽作)と同様、春草廬も複雑な変遷の歴史がありました。
古くは九窓亭(くそうてい)と呼ばれ、
大正7年(1918年)京都宇治の三室戸寺・金蔵院から譲渡されています。
桃山時代の建築と推定され、織田信長の弟・織田有楽の作と
言われていますが、確証はないそうです。
三室戸寺にあった時は、伏見城遺構の客殿(現三渓園・月華殿)に
付随する茶室でした。
原三渓はこれを切り離し、月華殿には茶室・金毛窟を建てました。
大正9年(1920年)三渓は、夫人と二人で住む白雲邸を建て、
白雲邸に付随する形で春草廬を移築して、広間を新しく付け足しています。
大正11年(1922年)4月19日に春草廬開きの茶事を催しています。
客は益田鈍翁、益田夫人、田中親美、野崎幻庵、梅澤鶴曳。
その翌年、大正12年(1923年)9月1日に関東大震災がおこり、
園内のたくさんの建築物が倒壊しました。
春草廬が再び茶会記に登場するのは昭和12年になってからです。
昭和14年(1939年)8月16日、原三渓翁が逝去(享年70歳)。
第二次世界大戦に際して解体保存されていた春草廬ですが、
戦後、三渓園を寄贈された横浜市は蓮華院を現在地へ移し、
昭和33年(1958年)12月その跡地に春草廬が再築され、
今に至っています。
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写真は「三渓園のハチス」と「春草廬のにじり口」