(ロイヤルパークホテル東京日本橋の耕雲亭・・向って右の建物、ビルの5階です。)
(耕雲亭小間・・・躙口と貴人口があります)
1月18日(土)、令和7年の初釜を昨年と同じロイヤルパークホテル東京日本橋の耕雲亭で開催しました。
S先生のもとで共に研鑽に励んでいるN様と共催の初釜で、小間の濃茶席は暁庵社中、広間の薄茶席はN様社中が担当しました。
今年は1席7~8名様で6席とし、総勢45名となりました。
「初釜へ来てくださるかしら?」と恐る恐るお声掛けしましたが、たくさんのお客様が馳せ参じてくださって、本当に有難く感謝しています。
濃茶席は四畳半台目、寒かったのと時間の都合で蹲を省略し、躙口から席入していただきました。
濃茶第1席のお客さまは、お正客Oさま、Oさま茶友のNさま、小堀遠州流のYさま、Kさま、Sさま、社中のAYさんとT氏(詰)です。
台目床の御軸は「暁雪満群山」、坐忘斎家元のお筆です。
「暁」は「明時」あかときの転じた言葉で夜半から夜の明ける頃までを言うそうです。
暁、雪を冠した山々が連なり、暗い山の端が徐々に茜色に染まっていきます。日が昇り、雪山の頂を明るく照らし、その暁光は群れている山々を普く照らし、どの山も見事に輝きはじめました・・・壮大で清々しい暁の景が目の前に浮かんでくるようです。
昨日(17日)の「今日庵東京稽古始め」のお家元のお点前や心に残るお話を思い出しながら御軸を掛けました。
(蝋梅と春曙光を竹花入にいけました)
花は蝋梅と椿「春曙光」、竹花入は京都鷹峯・光悦寺の古竹を以って作られ、池田瓢阿作です。
香合は染付「一輪」(京焼)、嵐雪の「梅一輪 一輪ほどの あたたかさ」の俳句から名付けました。
お客さまとご挨拶を交わした後、花びら餅(横浜市旭区・石井製)をお出ししました。
KTさんが濃茶2碗(それぞれ2人分と3人分)を心を込めて練り、3碗目(2人分)は水屋から半東Y氏がお持ちしました。
濃茶は喫みまわしとし、茶碗の拝見も清めずにそのまま拝見に回して見ていただきました。
・・・実は茶友Rさまから「拝見は茶碗だけでなく、濃茶の香り、緑の色合い、練り具合なども含めて観賞の対象だと思うので、清めずそのまま拝見したいです」というご意見を伺い、各服点になって久しく、濃茶について大事なことを忘れていたような気がして・・・
「お濃茶が良く練れていて美味しく、濃さも飲みやすかったです」というお正客Oさまの言葉に安堵しました。きっとKTさんも・・・。濃茶は坐忘斎家元好の「延年の昔」(星野園詰)です。
釜は梅と竹の地紋のある芦屋写、本栗の炉縁は村瀬治兵衛作です。点前座の水指は萩四方、十二代坂高麗左衛門造、仕付け棚に置かれた薄器は紅毛茶器、手塚玉堂作です。
濃茶器は藤村庸軒好みの凡鳥棗で、庸軒流の茶人であった伊藤庸庵の箱書があります。仕覆は茶地唐花鳳凰文緞子、仕覆は小林芙佐子仕立です。
凡鳥棗の本歌は初代中村宗哲作。「凡鳥(ぼんちょう)」は「鳳」(ほう、おおとり)の字を二分したもので、鳳凰は梧桐(あおぎり)にのみ棲むという中国伝説があり、凡鳥棗の甲に桐紋蒔絵が描かれています。
伊藤庸庵は、戦後(昭和30年代頃)横浜市神奈川区に住んでいた庸軒流の茶人です。「茶道望月集」復刻版の出版など庸軒流を盛んにするべく活躍しました。藤村庸軒好みの「凡鳥棗」写しをいくつか造り、これはその一つです。(参考:「庸軒流・伊藤庸庵を尋ねて・・・」)
暁庵が3年間の京都暮らしを引き上げる時、姫路在住の庸軒流の茶友から「横浜に住む暁庵さんに、横浜に縁のある伊藤庸庵が作らせた「凡鳥棗」をぜひ使ってほしい」と頂戴した御品です。
茶杓は、紫野聚光院の梅の古木を以って作られ、川本光春作です。「東北」という能に和泉式部が愛でたという「軒端の梅」が登場します。それで梅に因み聚光院・小野沢虎洞師に「東北」(とうぼく)という銘を付けていただきました。
(京都東山・東北院に咲く「軒端の梅」)
茶碗は次の3碗です。
主茶碗は、黒楽で4代一入作、藪内流7代桂陰斎の銘「不老門」、15代直入の極めがあります。
「不老門」は、中国・唐の都にあった門で、この門の周りでは時がゆっくり流れるという言い伝えがあります。銘「不老門」にふさわしく詫びた趣きの茶碗で、不揃いの口周りですが、茶杓がぴたりと納まり、使う度に作り手の息づかいや心意気を感じます。アバタのようなこぶ、引き出し火箸の跡など見所が魅力になっています。
替茶碗は李朝の青磁雲鶴です。遠州流小堀正安蓬露(茶道具の目利きに優れ、後の権十郎といわれた)の箱書の歌から銘「玉帚」(たまははぎ)です。
初春の 初子(はつね)のきょうの たまははぎ
手にとるからに ゆらぐ玉の緒 (大伴家持 万葉集)
歌の意は、「初春の初子の今日、玉帚を手に取ると、玉が揺れて音をたてます」
(青磁雲鶴の箱書:遠州流小堀正安蓬露) (玉箒:正倉院御物)
もう一つの替茶碗は赤楽で
6代左入作、初代長次郎の「木守」写、15代直入の極めがあります。
本歌は長次郎七種の1つですが、1923年関東大震災で被災し原形が失われてしまい、この写しが「木守」を伝える貴重な一品かもしれません。かつて利休が長次郎の茶碗を数個取り寄せ、門下の大名たちに贈ったところ、この茶碗だけ手許に留め置いたため、柿の木守にちなんで「木守」と呼ばれました。
午前の部3席が終わり、池をはさんで向かい側にある和食レストラン「源氏香」で一同揃って初釜の祝い膳を囲みます。 つづく)